神歴第二の年 原罪
イーサンとローシュの元を離れたケセフは、森の深い場所に小さな小屋を作り、動物たちと共に静かな暮らしを始めた。
彼の優れた力と、動物たちとの深い絆によって、
牛や豚、鶏、馬、山羊などの生き物たちは自然と「飼われる」ことに順応していった。
彼らは乳や卵、時には血肉さえも、自ら進んでケセフやその家族のために差し出すようになった。
だが、ケセフはその愛に満ちた動物たちを、自らの手で糧にすることにどうしても抵抗を感じていた。
心を通わせた相手を、食べるために殺すことができない。彼はその思いに苦しんでいた。
「命を奪わねば、生きることができない自分が、恥ずかしい…」
ケセフは動物たちから提供される命を前に、何度もそう嘆いた。
彼を慕う動物たちは、年老いて命が尽きる時、自らの意思でその身をケセフに捧げた。
彼の命を、自分たちの命で支えたいという深い愛がそこにあった。
だが、ケセフはそれでも慣れることができなかった。
何度命を頂いても、毎回心の奥底に懺悔が渦巻いた。
そして、動物たちに詫びながら、その命を頂いた。
ふと、ケセフの心に一つの考えがよぎった。
「大母様に助けを求めよう…動物たちがこれ以上、自分たちの命を他者のために差し出さずに済むように。」
その思いが彼を動かした。
ケセフは決心し、遠い道のりを進み始めた。
山を越え、森を抜け、そして海岸沿いに三日三晩歩き続けた。
ついに、彼は小高い丘の上に建つ、白亜の神殿にたどり着いた。
神殿は静かに佇み、世界を見守っているかのようにそびえ立っていた。
ケセフはその荘厳な光景に、胸の中に秘めた思いを押しつけるように神殿の扉へと進んだ。
彼の心は、動物たちの命を無駄にしないための祈りと、導きを求める願いで満ちていた。
やがて、神殿の奥から、かすかに聞こえる声が彼を導くように響いた。
『よく来たね。愛しい子。さあ、入りなさい。』
「神様…どうか、私を、そして動物たちをお救いください。」そう言って、ケセフは神の御前に跪き、心の奥から祈りを捧げた。
ケセフの祈りは、静かに白亜の神殿の中へと届いた。
結果的に、彼の願いの半分は聞き届けられた。
しばしの沈黙の後、神の穏やかな声が彼の心に響いた。
「ケセフよ、お前の祈りは確かに届いた。
だが、命とは本質的に奪い合いの連鎖にあるものだ。
すべての生き物は他者の命を糧として生きている。
例え、それが一枚の葉であろうとも、それもまた命の一部である。
生きる者は皆、その命をいただきながら、自らもいつかは他者に命を捧げる運命にあるのだ。」
ケセフはその言葉に打たれ、静かに息を呑んだ。
「では、どうすれば良いのでしょう?
私は動物たちを愛し、彼らの命を奪うことが苦しくてなりません。奪わずに生きる道はないのでしょうか?」
神は優しく応えた。
「奪うことから逃れることはできない。しかし、奪うだけが命の本質ではない。お前は、その分他者に与えることができる。」
ケセフを見つめ、微笑みを崩さずに続ける。
「動物たちが、お前に命を差し出す代わりに、私は彼らの魂に大いなる祝福を与えよう。
彼らは死してなお、深い安寧と長きにわたる魂の安らぎを得ることになる。
お前の愛によって、彼らの魂は光に包まれ、何よりも大きな安らぎの中で生き続ける。」
その慈悲深い言葉に、ケセフは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
しかし、同時に大母様…神の御言葉は、彼に人としての原罪を理解させるものでもあった。
「命を奪わなければ生きられない。それはすべての生き物が背負う罪だ。
だが、その罪を意識し、奪うことの痛みを知り、深い慈しみの心でその命を受け入れるならば、人はより多くの優しさと愛を与えることができる。
お前が動物たちを愛し、その命を大切にする限り、奪うことで得た命は、さらに大きな善をもたらすのだ。」
ケセフは深く頷いた。
神の御言葉は、命の本質と人が背負う罪、そしてその償いについての真実を示していた。
「奪うことは罪であり、悲しみだ。
しかし、その悲しみを乗り越えて他者に愛を与えることが、償いとなるのだ。
奪った命を無駄にせず、その命に感謝し、慈しみ、他者へ優しさを与え続ける限り、罪は清められる。
そして、命を奪うことがあるからこそ、お前は与えることの意味を深く知り、他者を愛することができるのだ。」
心に、魂にその教えが染み渡る。
ケセフの心には少しずつ理解が深まり、彼は再び跪き、静かに目を閉じた。
「神様…感謝いたします。私は、これからも命を大切にし、奪うことの重みを心に刻みます。
そして、奪った分、必ずその倍の愛と優しさを他者に与えようと思います。」
その時、柔らかな光が神殿の中に満ち、ケセフは神の祝福を受けた。
結果的に、彼の願いの半分は聞き届けられた。
もう半分は形としては聞き入れられなかったが、彼の望んだ形とは違う形で救済された。
彼は立ち上がり、神へ礼を述べると、動物たちへの愛と感謝を抱きながら、再び森へと帰っていった。
聖なる光の残滓と、決意をその瞳に宿して。