神歴第二十七の年 泥濘
「もう…やめ……」力なく辛うじて動く口を僅かに動かしたことで言葉が出る。
「んんー?ぶひゅひゅ!なんだッてぇ?」粘着質な、ねっとりと耳障りな声が応える。
「ふっ…ぐぅっ……」両腕を上に吊し上げられ、肌を晒された長い耳の女性の体がぎちっと音をたてて軋む。
「むほほほほほ!お願いがあるなら聞いてあげるポ。ほーれ、僕ちんにお願いするんだポ!」苦痛に歪み、生気を失っていく表情を見ながらジュルジュルと涎を垂らしながら嗤い、鼻息を荒くしつつ言う。
「くうっ…!もう…やめ……て……」絶え絶えに応える女性。もう涙も枯れ果て、声も掠れて、元々は玉のようと言われたその肌も、纏わりつく泥に塗れ、目の前の巨体からの仕打ちにぼろぼろになっていた。
「んんー。そうねぇ…そろそろやめても良いかもポねぇ。」考える様なそぶりで肥え太った体を摩りながら醜悪な巨人が言う。
「えっ!」思わず顔に正気が宿る。
死んでもいい。この苦痛から逃れられるなら。この悪夢から覚めるのなら。そう思ってどれくらい経ったのだろう。
望みなど無いことを知りながら、それでもうわごとの様に口から漏れ出た言葉が、相手の気紛れによってか受け入れられようとしている。
助かる…!!そう思うと、枯れたはずの声も戻り、顔に血色が満ちた。
解放される!
男は戦ったが皆呆気なく殺されて、アイツに取り込まれた。
女は嬲られ、辱めを受けて自死した者まで居るが、それすら笑い者にして、醜い体でその遺体に……!
思い出すだけで酷い嫌悪感と怖気で吐きそうになるが、吐くものがもう残っていないことでそうはならなかった。
しばらく考え込んでいた化け物は、自分の顔をチラリと見ると、そっと泥の拘束を解いた。
「やれやれ。ここまで強情だったのは初めてポ。僕ちんの妻に迎えてやろうと思ったのになかなかお願いしますと言わないし…もう何処へでも行くと良いポ!」
太く短い手で、こちらにシッシと追い払う様な動きをしながらそっぽを向いている。
手を振る度に揺れる腹と、飛んでくる汚泥の様なものに鳥肌が立つ。
とにかく助けを呼ぶんだ。誰でも良い。ここを離れて、どうにか強くなるか、仲間を集めて…。
「ええ、そうさせてもら…」久しぶりの地面に、ガクガクと揺れる膝を押さえながら二、三歩ほど歩き出した所で、急に足を何かに引っ張られた。
「えっ…?」どしゃっと倒れ込みながら足を見ると、泥の塊が枷の様にくっついていた。
泥の中から汚れた白い肌が見える。
訳がわからず混乱していると、化け物が大声でゲラゲラと嗤い始めた。
「あのねぇ、苦労して見つけた奥さん候補。そんな簡単に逃すわけないポ。ほら、お前の妹も引き止めてるポ。」化け物はそう言ってぬちゃぬちゃと音を立てながら近寄ってくる。
「くふっ!!」
持ち上げられ、泥に締め付けられて肺から息が漏れる。
足元の枷から伸びる手。その手首に見たことのある腕輪を見つけて体の芯が冷たくなる。
あれは…妹の……。
「んんん!良い!凄く良い!希望を奪って陵辱するのが一番そそるポ。心を折って、お前から僕の奥さんにして欲しいと言うまでは離さないポ〜!!」べろりと、生暖かい巨大な舌で女性を舐める化け物。
「う…うううううう!!!」一瞬でも信じた自分が馬鹿だった。
「誰か…殺して……」
「だーかーらー、長い耳の奴らの中でいちばん僕ちん好みの美人なお前を殺すわけないポ。綺麗なのに馬鹿ポねぇー。」そう言いながらまた腹をぶるぶるとさせて嗤う。
希望はない。家族も死んだ。自分の尊厳ももう持ちそうにない。なんでこんな…!!
悔しい!誰か…誰か!!!お願い!!!アイツを…
「殺して……」
「ぶひゅひゅひゅひゅっ!壊れっちまったポー?」醜い化け物の嗤う声が響くばかりであった。