5.
冷たい床の上で目が覚めた。
時計を見れば二時間ほど気を失っていたらしい。
手元の黒本を見ると羊皮紙が真っ白になっていた。一度発動すると消える仕組みなのだろう。
さて。どのような力が覚醒したのか。
エミーリアは両手の平を見詰めて、握ったり開いたりしてみた。
身体のどこにも変化はないようだし、違和感もない。
やってみなければ分からないかと、部屋に戻って鏡の前に立つ。やはり見た目には何一つ変わったところはなかった。
【治癒魔法】は生きているものになら何でも有効だったはずだ。
窓辺の小さな鉢植えを床に落として叩き割る。咲いていた花の茎が折れて、花弁が散った。
その上に両手をかざして念じてみる。
何も起こらないし、自分の内にも変化はない。
どうやら聖属性に覚醒はしなかったようだと、少し落胆しながら、エミーリアは他にも色々と試してみた。
燭台に火は点けられなかった。グラスの水は動かなかったし、風も起こらない。落とした鉢植えの土も微動だにせず、他の何に手をかざして念じてみても何も起こらない。
思いつく限りあらゆる可能性を確かめてみたが、結局何一つ得られることはなかった。
真っ先に疑ったのは魔法の失敗だ。
あの黒本がまがい物や粗悪品だったとも考えられた。
最終的に自分に何の才能もなかった可能性に思い当って、エミーリアは戦慄を覚えた。
ありえない。ありえないだろう。だって公爵家の娘なのに――。
「――エミーリアが暴れてる?」
「はい。植木鉢を投げたり、物を壊したりしては、どうしようと膝を床について後悔なさっているようだと覗き見たメイドが話しております。少し前には地下室に長く籠って何かしていたとも」
「何それ怖い」
「エドモンド坊ちゃま。エミーリアお嬢様はやはり心を病んでおられるのでは」
「失恋ごときで壊れるタマじゃないだろ、あれは。だいたいリアをケガさせたのはあいつだ。何を失っても自業自得だろう」
「ですが、コーディリアお嬢様にすべてを奪われたと思い込んで恨みに思われるには十分すぎる状況です」
「はああ。それは確かに。しばらくエミーリアには登城許可は出さないよう言ってあるけど、俺たちも気を付けておくよ。爺やたちには悪いけど、せめてリアの婚約が落ち着くまでは、屋敷を頼むよ」
「はい。かしこまりました」
「まったく……。高望みしなければ良い所に嫁げたかもしれないのに」
***
しばらく塞ぎがちだったエミーリアは、とあるメイドをきっかけに少しだけ気分が上向いた。
名前はコリン。ブラウンの髪に緑味を帯びた濃い色の瞳。そばかすが目立つが、笑顔の愛らしい少女だ。背格好はエミーリアに似てやや肉厚で、その手指はぱっと見て分かるほど荒れていた。
おそらく普段ならばエミーリアの世話を焼く立場ではないのだろう。先輩メイドたちに押しつけられたのか、最近はコリンだけがエミーリアの部屋にやって来ていた。
最初の頃は「存知ません」の一点張りだったコリンに、そっと手を握り「少しで良い。助けてほしいの」と懇願したことがある。
あのときから、彼女はエミーリアの問いに答えてくれるようになった。
口止めされているはずのコーディリアの居場所も教えてくれた。
コーディリアはアイリス王女の元、つまり城で暮らしているという。ほとんど家に帰らない兄も城に部屋を貰っているそうだ。
ジェラルドも足繫く城に通い詰めていて、コーディリアとの婚約も間近だろうとのウワサが聞こえているらしい。
どうにかしてジェラルドに会えないかと問えば、さすがにメイドにそれは難しいと首を横に振られた。
何度申請してもエミーリアの登城許可は下りない。そもそも謹慎中なので屋敷からも出られないが、父か兄かが止めているのだろう。
せめてコーディリアの危険性を知ってほしいと、ジェラルドに手紙を出したが、待てど暮らせど返事はなかった。
コリンがエミーリアに協力的だということが周知されてしまったのか、彼女から得られる情報も極端に少なくなった。
いつまで謹慎しなければならないのか。
分からないまま月日が過ぎて行く。
エミーリアに許されていたのは庭の散歩と月に一、二度の神殿通いだけだった。
「あら? 貴女確か……エドモンド・オーランド様の妹君じゃない?」
例の黒本のことを教えてくれた老神官を探したが見つからず、エミーリアは
神殿のベンチに腰かけてぼんやりと女神像を見上げていた。そこへ知らない令嬢が声をかけて来る。
年の頃は同じの、小柄で愛らしい令嬢だ。珍しいピンク色の髪をふわりとなびかせ、星が瞬くかのように赤茶色の瞳をきらきらさせている。
エミーリアは瞬間的に思った。
彼女の方がコーディリアより“ヒロイン”っぽいな、と。
「……どちらのご令嬢かしら」
「私のことより、ねえ、貴女。神殿にいるってことはもしかして、リア様との親密度ゼロなの?」
「……――は?」
「どうにかしてリア様と仲良くならないと助けてもらえないわ。貴女このままだと修道女になるか、処刑されるか、とにかく破滅してしまうのよ」
「なにを、言っているの……?」
「私の推しは我が家の執事なの。そうすると、あの四人は四人だけで完結してしまって他が入る隙はないわ。どんなに頑張っても誰も貴女を見てはくれないの。でも悪役令嬢が破滅する必要のないルートだから、できれば貴女にも幸せになってほしいと思ってたのよ、私」
「悪役、令嬢……?」
「私はもうこの神殿には来ないから、今日貴女に会えて良かったわ。いいこと? リア様と仲良くしてちょうだい。貴女を救えるのはリア様だけよ」
言うだけ言ってピンク髪の令嬢は名乗りもせず去って行った。
入口付近で執事らしき青年が彼女を待っていたので、きっと彼が“推し”なのだろう。
彼女がヒロイン……?
そうとしか思えない。この世界のヒロインだという自覚のあるヒロインだ。
エミーリアは呆然と口を手で覆った。
彼女の言うことが正しいならば、エミーリアは悪役令嬢で、コーディリアとの親密度が低いままだと、修道院送りか処刑エンドか、とにかく身の破滅を迎えるらしい。
義姉を無視し、意地悪を言い、貶めようとして、実際にケガをさせた。
エミーリアがこれまでコーディリアにして来たことは、言われてみれば確かに物語の悪役令嬢そのものだ。
「仲良くしろって、今更どうすれば……」