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塵灰のリハイブ  作者: 道安 敦己
第二話『砂時計の殺人』
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一日目③〈2-1-③〉

 装飾の凝った照明がまばゆい光を降らす広間。上等の背広を着た男たちがいくつかの集団に分かれ、酒を注いだグラスを片手に歓談している。皆、裕福な市民で、特に賑やかな一団は能弁家として名声を勝ち得ていた。学府の歴史や文化、政治や思想など、様々な事柄を論ずる彼らの目下の話題は、非市民だ。


 その賑わいに醒めた視線を投げる者がいた。


「やれやれ」


 すらっとした白い腕を伸ばし、テーブルに置かれた軽食を取り上げる。呆れ顔をしながら、一つを食んだ。肩のあたりで切り揃えた黒髪、真っ赤な口紅、黒縁の丸眼鏡をかけ、太ももが露わな漆黒のドレスを身に纏う。明石(あかし)前途(さき)氏だ。彼女は今、美馬氏の夕食会にいる。美馬(みま)鹿之助(しかのすけ)氏、近頃、勢いに乗っている能弁家だ。


 小綺麗な身なりの太った男が明石氏に歩み寄ってきた。浮腫んだ手に持ったグラスを差し出し、


「なかなか盛況でしょう」


 二回りは年上の男だ。低い穏やかな声が緊張を含んでいるのを彼女は聞き逃さなかった。微かに嗜虐的気分の混じる微笑みを湛えて、


「そうだな。なかなか」グラスを受け取る。


 会場には多くの参加者があった。大半は壮年の男たちで、傍らでドレス姿の女たちが彼らに熱っぽい眼差しを注いでいる。男たちの妻かそれに準ずる者、あるいは娘だ。


「美馬の人望は厚いのかな」


 尋ねて彼女は男の目をじっと見つめながら酒を嘗めた。もう十二分に生きてきただろう成熟した男が、彼女に蠱惑(こわく)を感じて生唾を呑む。


 この場の誰もが――特に男たちが――時折、明石氏に目を向ける。理由はその煽情的な格好ともう一つ、彼女が「教養派」に属し、「求道する貴族」に名を連ねる人物だからだ。


 学府貴族は主義信条で二つの派に、活動内容で二つの道に分かれる。それで言えば、明石氏は旧来の精神性の堅持を志向する派に身を置き、前時代の遺産の探求や整理、論評などに従事する貴族となる。彼女のこれら二つの要素が、教養派に傾倒する彼らには実に輝いて見えるのだ。中でも能弁家たちの視線には複雑な欲望が滲んでいる。


「全くその通りです。美馬君は優れた能弁家です。明石様まで来られるのですから」


 男が笑顔を作って答える。明石氏は何も言わず肩を竦めてみせた。会話の端緒は掴めた、男は彼女に会場で盛り上がっている話題を振った。だが、それは彼の期待通りとはいかず、


「頽廃勢力が共同体に何をもたらしたか、明石様はよく知ってらっしゃいます。ここで正義をなさなければ、前時代まで築き上げられた人類の叡智は灰になってしまう。男は殺され、女子供は奴隷にされる。野蛮時代が迫っているのです」

「えらく饒舌になった。美馬がよく力説しているのかな。そうやって」


 明石氏が笑う。男は顔を真っ赤に染めて俯いた。顔を上げ、


「左様です。ですが、私たちの総意です」

「美馬は相当の実力者だな」


 彼女の皮肉がそれと分からず、


「ええ。出世頭の美馬君が音頭を取ってくれると心強い」男が力強く頷いた。


 高井(たかい)(ただし)と名乗った男は、ほどなくして彼女の傍を辞した。


 明石氏はいま一度、会場を見渡した。その目が一人の男を捉えて止まる。彼もまた参加者たちの視線に晒されていた。筋肉を鎧のように具えた巨体が放つ存在感のためだ。彼女はそっとほくそ笑んだ。


 美馬鹿之助氏は、会が始まるや多くの招待客に囲まれた。誰もが彼と言葉を交わす機会を欲していた。ぶつかりそうな勢いで彼の前に現れては握手を交わし、称賛と期待、要望を浴びせる。美馬氏は持ち前の低く野太い声を巧妙に用いて、ある時は鷹揚に、またある時は勇ましく応じた。美馬氏は彼らを完全に自分本位の調子で捌いた。だが、不満そうにする者はおらず、皆、敬服して去っていく。彼は全身から有り余る精力を(ほとばし)らす大男で、自然と他人を組み伏せる威圧感を放っていた。


 そんな父親の姿を、(あまり)有作(ゆうさく)氏は離れた壁際から見ていた。ため息を一つ吐く。隣で笑う人があった。


「すみません」余氏が情けなさそうに謝ると、

「本当に苦手なのね」


 彼の二つ年上の同僚、内海(うつみ)(しゅう)氏が彼を見上げて優しく微笑んでみせた。長い黒髪は手入れが行き届き、肌理の整った肌を品の良い化粧が彩る。爽やかな香水の匂いがよく似合った。大人の余裕を漂わす整った顔立ちの中で、大きな瞳が少女のような無邪気さを湛えている。それは彼女の一貫した特徴で、余氏に引け目だけでなく、親しみやすさも抱かせる原因だった。


 内海氏は余氏に倣って彼の父親を眺め、


「確かに合わなそう。あなたとは似ても似つかないもの」はっとして、横目で窺う。「ごめんなさい。失礼だったかしら」

「いえ、事実ですから」余氏は苦笑した。

「そう」小首を傾げる。再び美馬氏を見遣り、「私、ああいう手合いは好みじゃないわ」


 今度は気まずそうな沈黙があった。彼の苦笑が繰り越されているのを確かめて、内海氏は少しすまなそうに笑った。


「あ、そろそろ行けそうかしら」


 美馬氏の周囲が空いてきたのを見て、内海氏が言った。余氏が不安で顔を歪ませ黙り込む。それを笑って、


「じゃ、ちょっと挨拶してくる」


 場を離れようとする。余氏は咄嗟にその腕を掴んだ。びっくりした顔で振り向いた彼女に、


「すみません」怯えた様子で謝る。

「何が」(なだ)めるように微笑む。


 余氏は伏し目がちに、少しの間、言葉を探した。思い詰めた顔で彼女を見据え、


「気を付けてください」

「何を」


 失笑する。彼女の腕を掴む余氏の力が緩んだ。


「大丈夫よ。私、強いから。社会的にも、勿論、按察官としてもね」


 内海氏は自信ありげに片目を瞑る。彼女の背中で揺れて流れる黒髪を見つめながら、余氏は下唇を噛んだ。


 余氏と内海氏はともにこの北條家領を管轄とする地方按察官だ。もっとも、余氏にすれば共通しているのは肩書くらいで、それ以外は全てが違った。


 父親が貴族との人脈を求めて按察に次男を捩じ込んだ。余氏の経歴の発端だ。このような場合、配属は家の影響力と本人の能力によって、ある程度の幅の中から決まる。覚醒能力を持たない彼は必然的に雑用だった。その彼を顎でこき使っていた按察官たちが(かしず)いて迎えた管察からの出向者が内海氏だった。


「実のところは左遷なの。やらかしちゃってね」


 彼女はそう言って舌を出したが、余氏には信じがたかった。


 優秀な成績で一等大学校を卒業し、上級官吏を経て要職に就く。闘争する貴族の理想的な出世街道を生きてきた内海氏は、「緑芽章(りょくがしょう)」を授与された秀抜の覚醒者でもあった。


 素晴らしい経歴と優れた才能を持つ、心身ともに魅力的な若い女性。行き場のない野心と鬱屈とした闘争心が逆巻く按察官たちの中で、内海氏は(たちま)ち高嶺の花になった。余氏にとっては雲の上の存在だ。ところが、そんな彼女が相棒に指名したのは彼だった。


 彼女の意向を拒否できる者はいなかったが、彼の人格を否定できない者もまたいなかったから、彼は彼女の気紛れに迷惑した。


 はっとして、被りを振った。どうにも気分が塞ぎ込んでしまう。余氏はため息を吐いた。自分が思う以上に不甲斐なさを感じているらしい。


 夕食会に按察官を連れてこいと父から命じられたとき、その意図は理解していた。だが、彼に多くの同僚を、それも父の眼鏡にかなうような家柄の者を動員する力などありはしなかった。全員ににべもなく断られ、途方に暮れていたところに、一人だけ快諾してくれたのが、内海氏だった。


 余氏は顔を上げ、父親と不必要な会話を強いられている同僚を探す。だが、彼の目に飛び込んできたのは、楽しげに笑う彼女の姿だった。まただ——視界が激しく揺れた。


 美馬鹿之介氏は余氏の目に男としての絶対的価値、強さに満ちていた。彼は子供の頃から父親を恐れてきた。低く野太い声で倒れるまで罵倒され、強烈な膂力で立ち上がれなくなるまで打ちのめされた。一方で、その暴力性が女たちにいかに訴求するかもまた、まざまざと見せつけられた。


 美馬氏は多くの女性の心身を(ほしいまま)にしてきた。その中には余氏に良くしてくれた者、彼に同情し、抗議しようと美馬氏を訪ねた者もいた。彼女たちの自分への視線が、気まずさを経て冷ややかなものに変わり、他方で、父へのそれが艶めかしい熱と陶酔に支配されるのを目の当たりにするたび、彼の心は凍えた。


 と、内海氏と目が合った。彼女が愕然とした表情を浮かべ、直後、目にきっと力を込める。途端、荒れ狂う感情が消散し、思考がはっきりするのに余氏は気づいた。


「なるほど」


 すぐ横から声が聞こえて、弾かれたように振り向く。黒いドレスを着た、妖しい女が立っていた。こちらを見上げてせせら笑うその目に、余氏は自分がただ考えていたのではなく、(ことごと)く口に出していたこと、それどころか、全ては彼女によって考えさせられ、喋らされていたのだと悟った。いつからだ。


「いつからだと思う」


 見透かされ、余氏は目を見開いた。


「貴方は」


 相手が貴族だとは分かった。激しい動揺を抑えて問い質そうとする。が、急に体がよろけた。傍にあったテーブルに手を突く。大きな音が鳴り、会場の視線が一斉に向いた。酸素を探すように顔を左右に動かす。自分を忌々しげに睨みつける父親の姿があった。内海氏が心配そうに見つめている。だが、父の傍に侍る女の眼差しは、余氏の脳に、よく知るそれにしか感じられなくなっていた。


 恐慌状態に陥りかけていた彼の頬に、そっと手が触れた。


「大丈夫か」女が優しく微笑んでいた。


 彼女があまりにも当たり前に振舞うから、余氏の頭から誰のせいでという意見がすっかりどこかに行ってしまった。


「ここは空気が淀んでいけないな」そう言うと彼女は手を差し出し、「廊下に出よう、な」


 彼はのろのろとその手を取った。

※これは架空の物語であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。

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