一日目②〈2-1-②〉
リハイブに帰り着いた頃には、早出の散歩がいつも通りの時刻に終わるという始末だった。店の前で開店を待つ客に軽く会釈して、庭にハンスを繋ぐ。扉を開けると、
「すみません、まだ」カウンターテーブルで朝食を摂っていたウェールスが申し訳なさそうに振り向いて、「おかえり、遅かったね」ぱっと笑顔になった。
「ただいま。予定外のことがあってね」言い訳を切り出して台所に入る。
「おかえり、炯ちゃん」
「戻りました」開店準備を始めていた橘さんと言葉を交わし、エプロンを取る。彼女に向き直り、「泥棒と出くわしたんだ。一緒に逃げ隠れする羽目になって、時間を食った」
「物騒だなあ」ウェールスは眉尻を下げてそう言うと微笑んで、「君が無事で良かったよ」
その台詞もさることながら、泥棒を捕まえずに一緒に逃げたという話になんの違和感も示さないところに彼女のこの街への慣れが見える。私は良心の呵責に似た、なんとも言えない負い目を感じた。
「どうもありがとう」苦笑いで礼を言う。
「明日は僕も一緒に行けるよ」
近頃、彼女は朝の寒さにやり込められて、なかなか起き上がれずにいた。だが、遂に乗り越えたらしい。二日前にも同じことを言っていたのには触れずにおく。
「それは良かった」
「マスター、ごちそうさまでした」
「はいよ」
最後に味噌汁を飲み干して、ウェールスが椅子を立つ。白いブラウスに紺色のベスト、茶色いスカートに黒のタイツ。靴だけは履きなれた白の運動靴なのは、この街でした恐怖体験を絶妙に反映しているのだろう。確かに足回りは生存率に強く影響する。
と、ウェールスと目が合った。彼女は誇らしげに笑って、
「さあ、開店準備を手伝うよ」嬉しそうに言った。
窓から差す晴れた空の青い光が、店内の薄暗さを木陰のようにして映えさせる。昼過ぎ、客たちが午後の予定に向かい、店が一際、静まり返る頃合いだ。窓際の席に座って過ごす時間を私は気に入っていた。ふいに何時だのと壁の時計が鐘を鳴らし、顔を上げる。橘さんが笑って、
「鳴らないようにしようか」
「いえ。ありがとうございます」苦笑いで答える。
一度、そんなこともあった。その壁掛け時計が、独り言か呟くように十四時を報せたのが少し可笑しく、私は一方的な同情とともに、それを眺めていた。
最近の喫茶店リハイブは、私の知る限り、過去に例を見ない盛況を享けている。原因は複数あるが、最大のそれは明白だろう。入れ代わり立ち代わりに客が来店し、その度に、
「いらっしゃいませ」ウェールスの佳い声が賑わう店内を透き通るように響く。
彼女が給仕の手伝いを始めてこちら、明らかに客が増えた。提供ついでの接客をしている彼女に代わって、入店客に声をかける。
「いらっしゃいませ」
ウェールスを目で追っていたところに私がやって来て、彼の顔に落胆が滲んだ。気の毒に思いながら席に案内し、
「珈琲を一つ」
「畏まりました」
カウンターに戻って橘さんに伝え、私は改めて満席の店内を見渡した。決して広いと言えない空間が人で窮屈になっている。店には一人用の席があまりなく、二人がけ、四人がけのテーブルは当然のように相席だ。以前は市民、非市民いずれもいた――彼らは日や時間帯を違えて来店した――喫茶店リハイブの現在の客層は、著しく非市民に偏っている。彼らの境遇とそれ故の激しやすさを知っていれば、この状況に対してこの平穏は異常と言える。
その中心でウェールスが舞うように動いている。客の呼びかけに笑顔で応じ、楽しげに話す。その間も自分に向けられている客の視線を鋭敏に察知しており、巧みに会話を切り上げては声をかける。静かに過ごしたがっている客には彼ら同士が相席になるよう席を移動させる。彼女がぱっと笑って頼むと、客たちは嫌な顔一つせず、むしろ喜んで聞き容れている。
彼女からはそれらの行動を義務感からしている素振りは見られない。自分の力を遺憾なく発揮し、より良い環境を作ることを純粋に楽しんでいるのだ。
先ほどの客に珈琲を持っていくのを心得ていたウェールスに任せる。今しもそれを提供して、談笑する姿を見つめながら、
「ルーちゃんはリハイブ小町だねえ」
橘さんが称賛した。本棚の奥から引っ張り出して来たような言い回しに、私は微笑して、
「ええ」
彼女ほどではないが、リハイブの活況に貢献しているものがある。橘さんが先日、購入した木製の箱――ラジオだ。カウンターの隅に置かれたそれから流れる番組を目当てにやって来る客も少なからずいる。前時代を通り越してさらに昔の骨董趣味的意匠で、店内の雰囲気ともよく調和している。
ラジオから戯曲が流れる時間帯は静かにするのが決まりらしい。その時間が訪れて、店内に現代では聞き馴染みの無い言葉が飛び交う。時代劇と呼ばれる、中世、武家政権支配下の社会を題材としたものだ。前時代に人気を博した映像作品が元となっている。
この間はウェールスの忙しさも幾分落ち着く。そろり傍にやって来た。声量を抑えて、
「パーチーって何」
作中の言葉で分からないものがあったらしい。もっとも、それはただの訛りなのだが、
「祝宴のことさ」
「ああ」
はっと見開いた目から鱗が落ちて、彼女は微笑んだ。
「昔の人はティーが言えなかったってこと。そう言えば、珈琲を『コーシー』って言うお客さんいるもんね」感慨深そうに店内を眺めて、「なんだか、前時代から地続きなんだなって感じられて、愉しいね」
「そうか」そんな彼女に追加の燃料を投下する。「ところで、君の言う昔はいつのことだい」
「へっ」ウェールスがきょとんとした顔を私に向けた。
現代において、時代劇は特殊性を持った作品群の一つと言える。制作された時代よりもまだ相当に昔の時代を描いたもの――作品の中に入れ子のように二つの時代が存在するのだ。都合、作中の表現にはどちらの時代に由来するのかという視点が生じる。
そんな説明をした上で、舞台となった時代の背景――異邦の文化との接触を厳格に制限していた――から、馴染みの無い言葉を口にしていることを表現するために、意図的にそうしているのだと告げた。
「前時代の人々は私たちよりよほどパーティという言葉にもそれが指す行為にも親しんでいたはずだよ」
日は傾いて、窓から差す光は朱に変わった。今日はこのまま穏やかに過ぎそうだ、そう思い始めた矢先、庭のハンスが吠え出した。途端、騒々しいほどだった店内が静まり返る。窓の外を見やると、横断幕を掲げた数人の市民が鬱陶しげにハンスを追い払おうとしている。それが何なのか、その場の全員が知っていた。
「やれやれ」橘さんがため息を吐いて、「ちょっと行ってくるよ」
「何かあったらすぐ呼んでください」
「大丈夫だよ。炯ちゃんがいるって知ってるからね」
橘さんが彼らの応対をしている間、ウェールスが動揺する非市民たちに声をかけて回る。客の一人がいよいよ耐えかねて、後は頼むと立ち上がった。
「今までの借りを返して死んでやる」
「そんな悲しいこと言わないでさ、明日も会いに来てよ」
「ルーちゃん」
それも難なく宥めているうちに、橘さんが戻ってきた。
「丁重にお帰り頂いたよ」
リハイブの客層が非市民に偏りだすと、後を追いかけてきたように彼らの排除を訴える市民たちが数日おきに抗議に来るようになった。非市民がたむろしているせいで市民が店を利用できない、市民の権利が侵されている、非市民を追い出して不正な状態を解消するように、というのが彼らの主張と要求だ。
橘さんが下野した貴族だと知ってからは(ハンスの容赦ない威嚇も貢献しているだろう)、彼らの抗議は幾分穏当になったが、当初はなかなかに激しく、以来、リハイブにやって来るような比較的温厚で小心な非市民たちは、言葉は違えど皆一様に怯えている。
――本日は美馬鹿之助先生をお迎えして――
ぎくしゃくした店内に声が流れ、橘さんがそっとラジオを切った。
※これは架空の物語であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




