一日目①〈2-1-①〉
〈2190年11月14日〉
朝方まだ淡い紺色の空の下、両脇を廃墟が膝を屈して並ぶひび割れた大通りを、白い犬が悠然と尻尾を左右に振りながら歩いている。私はハンスの朝の散歩に付き合っていた。昨晩の陰鬱な雨は姿を消して、空は遠く晴れ渡っている。雨上がりの空気は幾らか汚れを忘れたふうだ。
――先の一件からおよそ半月が経った。この間、私たちの方は、主に私がマグヌス化の反動からの回復に時間を要し、身動きが取れなかった。一方で、白の媒介者も表立った動きは見せていない。ウェールスの言うように、新たな枝葉のコアの生成に手間取っているのかもしれない。あるいは、隠密裏に何らかの用意を進めているのかもしれない。いずれにせよ、彼女は行動に移すならば、その宣言のために私たちの前に姿を現す。
直感的に、しかし確信している。結果の成否と同じかそれ以上に、その過程に私たちを巻き込むことに意義を見出しているのだ。都合、彼女が私たちの前に姿を現したならば、それは彼女の企てが最も上手くいきそうな時を迎えたということに他ならない。全てはいかに早くそれに気づけるかにある。
(三好さん。次は何をする気でいる)
宙を睨み、心の中で独り言つ。と、小石の転がる音がして、微弱ながら瀝青を感知した。立ち止まり、周囲に注意を払う。左手に向けた目線を、再び右手に振る。その時だった。人影が廃墟から飛び出し、私たちの前に躍り出た。こちらを振り向いた目が私をまじまじと見つめ、
「異人の、変人」少女は怪訝そうな顔で呟く。
「できれば、どちらかにしてくれないか」
私は苦笑いで抗議した。一呼吸置いて気づいたらしい、少女がすぐ傍にいたハンスに驚いて半歩たじろぐ。抱きかかえるように着けた、草臥れた背負い鞄が鈍い金属音を立てた。雑に短く切った茶色い髪、汚れた顔、襤褸の半袖に通した細い腕、小刻みに震えている――非市民だ。小さな体は、栄養状態を加味すれば、歳は十三、四くらいだろうか。薄らと瀝青を纏っている、覚醒者、それも今、覚醒能力を使っているらしい。経験的に、その内容にも察しがついたから、
「どこに行った」
直後、廃墟の方から数人の男たちの怒声が聞こえたことは当然の成り行きだった。少女が慌てた様子で私に駆け寄り、腕を掴んで揺さぶる。
「嘘ついてくれ」向こうを指さし、「あっちに逃げたって」
言うが早いか、私にぶつかるようにして走り出す。その腕を掴む。少女が目を見開いて私を見上げた。
「私は異人の、それも変人だろう。彼らは信じないし、腹立ち紛れに私を殺すかもしれない」微笑みかける。
「悪かったって」言いながら私の手を外そうと試みる。「嘘ついたら逃げていいから」とうとう音を上げ、「おまえ、放せって。まさか、あたしを売る気かよ」
「二人とも逃げおおせる方法がある」ハンスを見遣り、「二人と一匹がね」
少女はすっと動きを止め、私をまじまじと見つめると、
「乗った」また忙しなく足踏みを始めて、「乗ったから早く」
すぐ脇の、一面だけ取り残された壁、その陰に身を隠し、いつぞやウェールスとやったように姿を消す技を使う。殺気立った男たちと目が合ったときの少女だけが多少の難というくらいで、程なく、男たちは去っていった。
「おまえも裏技使えるんだな。やるじゃんか」
すっかり静けさを取り戻した道を歩きながら、青ざめた顔で少女が笑ってみせた。手の震えが先ほどよりも大きい。
「どうもありがとう」
微笑んで礼を返す。彼女はため息を一つ吐いて、
「まだ何もしてないってのに」悪態に強がりが滲んでいる。
「下見をしていたわけか」
揶揄いまじりに指摘する。少女がきまり悪そうにそっぽを向いた。ちらと私の顔を窺って、
「そう」
それ自体は予想通りだったのだが――。そこから日頃の悪行を、さも日課か何かを説明するような調子で教えてくれた。曰く、彼女はB、C級街の金のありそうな家を訪ねて、非市民のための寄付を頼んで回るという。勿論、寄付をする市民などそういない。冷たく追い払われるまでが一連の流れになる。重要なのは留守だった場合だ。彼女の言葉を借りるなら、「仕方が無いから勝手に寄付してもらう」らしい。寄付を名目に住人が在宅か探るわけだ。後に深刻な禍根を残す、悪辣な手法は〝たまちゃん〟なる人物から教わったとのこと。
人のいないこの時間帯に下見を行う職人気質、寄付をしてくれた人からは物を盗らない仁義など、私は頭を抱えながら聞いた。
一通りを言い終え、彼女が腕を組んで難しい顔をする。
「最近、どうもあいつらの様子がおかしいんだよなあ」
「と言うと」
「なんか怒ってるんだ。今までも追いかけられることはあったよ。でも、何人も集まって待ち伏せされたことなんて無かった。この前なんて、二階から銃を構えててさ。家の前を通っただけで撃たれたんだ」
その状況から生還するのだから、なかなかの「逃足」の持主と言える。
「積もり積もった恨みでは」
「そういうのじゃなくてさ。街の顔色みたいのがあるじゃんか。おまえも異人だったら分かるだろ。なんて言うか、いつにも増して嫌われてるなあ、みたいなさ」
彼女に関しては「そういうの」も大きな原因だろうが、彼女の言う変化自体は私も感じていた。
「まあ、確かに」辺りを見渡し、「おかげで朝の散歩を早めないといけなくなった」
「だろ」
「街の変化に気づいているなら、泥棒稼業を休もうとは考えないのか」
「ばっかだなあ。働かないと食えないだろ」
「なるほど」苦笑いで納得しつつ、「だが、捕まってしまっては元も子もないだろう」
「大丈夫、大丈夫」少女は自信ありげに笑って、「あたしの裏技、凄いから」
「凄いだろうさ。でも、君より凄い裏技使いだっている」
そう返して、不敵な笑みを浮かべてみせる。きょとんとした表情で少女が私を見つめる、と、道に走ったひびに躓いた。咄嗟に手を差し出して体を支える。
「ありがとよ」
「礼には及ばないよ」懐中時計を揺らしながら、「取り返しただけだからね」
追手の声が聞こえて、慌てて私に縋りついた時のことだ。懐中時計を素早くくすねて、相棒の背負い鞄に突っ込んでいた。より目につきやすい、左手の腕輪に手を出さなかったあたり、直感が冴えている。覚醒能力が影響しているのかもしれない。
「バレてたか」舌打ちして口先を尖らせる。
「それだけじゃない」
声色に不穏なものを感じたのか、少女の顔が曇った。
「君は今、たまたま躓いたと思っているだろう」事実、たまたま都合よく躓いてくれただけなのだが、「でも、そうじゃない」
「どういうこと」
「そういう裏技もあるってことさ。もし、君の足が言うことを聞かなくなったら、君の裏技はどうなる。自慢の逃足、なんだろう」
脅かしたつもりだったのが、
「すげえ。やるな、おまえ」無邪気に目を輝かせて褒めてくれた。困惑する私を余所に、「それ、あたしにもできるのか。教えろよ。あ、さっきの隠れるやつもだぞ」
「いや、そうではなく」苦笑いで宥める。
「なんだよ」
「私よりもずっと凄い裏技使いがこの街にはいる。そいつが君を狙うかもしれない。だから、しばらく大人しくしているんだ」
去り際、少女はこちらに元気よく手を振って、駆けていった。生来、人を説得することが苦手な私にしては健闘したと思う。別れるより前に、彼女の首を縦に振らせることに成功した。ハンスが物言いたげな視線を向けてくる。裏技を教えるという交換条件は、忘れてくれると良いのだが。
※これは架空の物語であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




