プロローグ〈1-prologue〉
過ぎ去った夏に背を向けて、秋を見る姿が様になる頃。夜の涼しい風を感じながら、眼下に広がる寒々とした街並みを見渡していた。百余年に渡る頽廃の時代、破壊に次ぐ破壊は、今は自らを「学府」と称するこの地にも癒えることのない爪痕を残した。
非市民が多く暮らすここD級街ともなれば、屋根のある建物など見当たらない。壁は状態の良いもので無数のひびがあり、当たり前のように何面かは崩れ落ちている。これらはほとんどが前時代(頽廃の時代に入る直前の時代をこう呼ぶ)に建てられたものだ。私はそれらの一つ、集合住宅の今や屋上と化した五階にいた。人を探していた。
すぐ下を走る旧幹線道路に、狭い路地から一人の男が現れた。月明かりに照らされて、誰もいない道の真中をふらふらと歩いていく。男に意識を集中させた。彼だ。屋上から飛び降り、行く手に立つ。
「誰だ、てめえ」
男が焦点の定まらぬ目で力なく凄んだ。無数の亀裂が走る道路、両脇の廃墟、背後に雲のかかる大きな月。一枚の絵のように思われた。
「コアに手を出しているだろう」
そう質すと彼の目にぐっと力がこもる。一度大きな唸り声をあげ、私めがけて突っ込んで来た。横に跳んで躱す。道路に三本抉ったような傷が赤々とでき、不快な臭いの蒸気が立ち上った。少し先で止まり、ゆらりとこちらを振り返る。右の指先から顔の半分まで真っ赤になっていた。体が「血の瀝青」に変換されてしまったのだ。
血の瀝青は前時代の末期に発見された万能物質だ。人体に埋め込む新しい臓器によって生成される。生成装置と呼ばれるこの臓器は歴史上二つ存在し、一つが「コア」――彼が手を出してしまった禁制品だ。
「気の毒だが、そうなっては手の施しようがない」
彼が身じろぎした。私の周辺の瀝青濃度が上がったのを感じ取ったのだろう。もう一つが「ビット」――今日、正規に利用されている唯一の生成装置だ。自分の体内にあるその臓器に強く動くよう指示を出す。もう一度雄叫びをあげて、男が突進してくる。大きく跳躍し、いつの間にかどちらも鉤爪となった両腕を振り上げた。私は彼に右手をかざし、
「御免」
衝動弾を放つ。理論上いかなるものも表現可能な瀝青で「力動そのもの」を表現する芸の無い技だが、威力は高い。男は黒い影の砲弾に呑まれて消滅した。 さて、
「高みの見物かい」
道路の左手、一部始終を眺めている者がいた。見上げて声をかける。私を見下ろす人影は、目を隠すよう金属製の仮面を着け、全身を白い外套で包んでいた。と、瞬時に私の前に移動してみせた。
「ええ。久しぶりにあなたの悪あがきを見に来たんです」
口元からは彼女が微笑んでいることが分かる。しかし、穏やかで清らかな声が、冷酷と憎悪を湛えていた。
「せっかく来たんだ。これで終わりにしてもらおうか」
平静を装いながらそう告げる。ところが彼女はまるで動じない。
「私とやり合ったら終わるのはあなたですよ」
くすくすと嘲笑うと彼女が僅かに瀝青を生成した。もっとも、それは彼女にとっての僅かだ。「七枝のコア」を宿す「媒介者」は圧倒的な力を有する。「落葉のコア」に支配された廃人とは全くの別物だ。
距離は数メートル。相手をじっと見据えて戦い方を考える。彼女が先ほど使った「迷図」は、今いる場所と少し前に自分がいた場所とを瞬時に入れ替える技だ。擬似的な瞬間移動が可能だが、余程事前にここを歩き回らなければ、突然目の前に現れることはない。むしろ、戦いが展開する中で恐ろしさが増す技だ。
秋の夜風が吹いた。コアの影響で真白になった髪が揺れる。彼女、「白の媒介者」はすぐに瀝青の生成を止めた。私と戦うつもりはないらしい。と、姿が消える。そうと気付いた時には隣にいた。髪が私の頬に触れる。たちまち体が強張り、冷や汗が滲む。だが、彼女は私の耳元で何をか囁くと、そのまま夜の闇に飛び込んだ。
私は耳に触れながら、ようやく彼女の囁いた言葉を認識した。
――始まりますよ、開道さん。
振り落とされた拳のように訪れた静寂の中で、私の鼓動だけが響いていた。
※これは架空の物語であり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。




