切支丹雅歌
神様が全能者かどうか、私にはわかりません。ただ、その神様を人が語るときには、全能者からは程遠いということもあるように思います。
こと、故郷のことに関しては、宣教師まで派遣して布教したにもかかわらず、その後、禁教となったことで教えが更新されず、間違いが正されず、結果として、あまりにも土着性が強いがために同胞と認められていない状況があります。過去は過去ですが、過去であるがゆえに、殉教者や隠れた信仰に生きた方々は、誰が救ってくれるのだろうと思います。
まあ、身びいき故の愚痴です。
海に向かい立つ教会の
潮騒と海鳥の鳴き声が遠く聞こえる
色褪せた木の椅子に座り
色硝子貼り絵の揺らぎを見詰めながら
十字架の上の人とピエタの母子を思う
すすけた銀のロザリオの似つかわしい
マリアヴェールの老女の日焼けした顔
空回りするオルガンの鞴と
節くれた指の乱れた調に、賛美歌をうたえば
呪文のような御歌に、摩訶不思議な異端が香る
神の祝福は、誰のために・・・
信じる者の内に生まれる異端の教えも
信じぬ者までを救わむとする異教の教えも
教えに異なれば、等しく救われざるものと
青い目の使いが切り捨てたオラショが、いまも漂う
隠れ人が土に埋もれても
隠れ人が波に攫われても
時を超えて、祝福を与える聖者は、ついに来たらず
妖しき聖母観音が秘めた信仰の歴史は
なにも持たぬ哀しき人々の殉教の歴史を糾う
悔い改める過ちの、なにかを問わず
信じることのみを求め
疑う人たちを救うことのない「神の使徒」は
他に縋るものもなく、ただ、慈愛の神を信じて
楽園を求めたものたちの哀しみを振り返ることはない
海に向かい立つ教会は
もはや哀しみを知らず、神の福音を歌い続ける
古の血脈に連なる漁村の
マリアヴェールの老女の邪気なき笑顔にこそ
その哀しみの歴史は刻まれている
良し悪しではなく、好き嫌い、いえ、共感しやすいか否かの問題なのですが。一神教の世界では、他の宗教の神様の多くが悪魔となっています。片や多神教の世界では、異国の異教の神様が、いつの間にか取り込まれて国津神となってしまいます。私は後者のほうにシンパシーを覚えるのですが、面白いですよね。その一神教の国であるアメリカなどは人種の多様性に寛容なのに、多神教の国である日本は、人種の多様化に慎重です。これも、また、面白いですね。