どうでもいいこと
「結城翔太はね、気づいたんだ。ハンナは最初から、自分のことを思っていなかったし、告白を受け入れてもなかったってね」
部室のソファーに座って、優雅な仕草でミルクティーを飲みながら(先輩の指示で私が淹れた極甘のものだ)、にこにこと語り始める。
「……そんなはず、ありません」
私が言うと、先輩はきっぱり断言する。
「そんなはず、あるんだよ」
彼はすくと立ち上がると、キッチンからカラトリーセットと皿、それから、綺麗な包装紙で包まれた、平べったい箱を持ってきた。椅子に座って箱の包装紙をびりびり剥ぎとると、蓋をぱかりと開ける。
「バーム、クーヘン?」
「そう、ドイツのお菓子。ドイツは良いよね。美味しいスイーツがたくさんだ。僕の一押しは、ドイツの大都市、『ローデンブルク』発祥の雪の玉をモチーフにした『シュネーバル』。細く切った生地を丸めて、揚げて、粉砂糖とかチョコレートとかが掛けてある。ころんとした形が可愛いし、ふわふわサクサクで美味しいんだ。ブランデーに付け込んだチェリーが甘酸っぱい『シュヴァルツヴァルト』に、爽やかな味わいでいくらでも食べられるチーズケーキ『ケーゼトルテ』。見た目もオシャレな『カイザーシュマレン』は、皇帝も気に入るよなあ、って納得するような洗練された味わいだし、アーモンドが香ばしい『ブッタークーヘン』は朝食に相応しいコーヒーに合う味だ。もちろん、クリスマスのお菓子、シュートレンと焼きアーモンドも忘れちゃいけないよね」
先輩の長々とした講釈についていけなくなって、口を挟もうとしたその時だった。
「バームクーヘンはさ、ドイツじゃ日本ほど有名なお菓子ってわけじゃない。知ってた?」
意味深に微笑む先輩を訝しみながら、
「知らなかった、です」
と、答えると、先輩はにこにこ笑いながら、バームクーヘンにナイフを入れる。
「え、えっ?」
円の形をしたバームクーヘンを、中心線から放射線状に切る。つまり、ビザのように(真ん中に穴は開いているけど)カットするところまでは、よくある切り方だ。
だけどその後、先輩はその、カットしたバームクーヘンをさらにそぎ切りにしたのだった。
「ドイツでは、こうやって食べるんだって。これも、知らなかっただろ?」
「はい」
薄っぺらくなったバームクーヘンをじっと見つめながら、頷くと、
「食べてみて」
先輩が楽しそうに言う。
バームクーヘンは何度か食べたことがあるし、どんな味かは知っている。正直、あまり気が進まないけど、せっかく先輩が切ってくれたのだから、食べないのは失礼だ。
差し出されたフォークを突き刺して、ゆっくり口に運んで、驚いた。
「普通のより、美味しい、気がします」
ずっしりと重たい感触じゃなく、ふわり、と軽い。そして、口の中ですぐにとろける。
好みの問題だとは思うが、私はこちらの方が好きだ。
「気が合うね。僕もだ」
久世先輩はにっこりと微笑むと、自分用にと残りのバームクーヘンをサクサク切り始める。
それにしても、また、すごい量を食べるんだな、って、違う!
「それで、結城くんの件は?」
ハンナさんの国のお菓子うんちくは面白かったけど、今はそれどころじゃない!
「『そんなはずある』って、わかった?」
「え?」
私が尋ねると、久世先輩はしたり顔で言う。
「君はドイツのことを全然知らない。だから、日本に住んでる君にとって『そんなはずない』ことでも、ドイツの人にとっては『そんなはずある』こと、たくさんあるんだよ」
ああ、そういうことか。
唐突だと思ったうんちく話だけど、ちゃんと理由があったらしい。
「わかりました」
久世先輩は「よろしい」と笑った。
「ハンナは常に無表情だ。これはドイツ人云々っていうより、個人の性格だろうね。表情から感情が読み取りにくい」
吊り上がった眉と、その下にある、大きな青い瞳。引き結ばれた唇は、薔薇色。
いつも不機嫌そうなハンナさんの顔を思い出し、それでも「女神」として崇められるのだから、美人は得だなあ、なんて考える。
「結城翔太にハンナの心情を推し量れる洞察力があるとは思えないし、彼は勝手にハンナの心を推測していたにすぎない」
げんなりした私の前で、惚気話をするくらいだ。
結城くんは確かに空気が読めない。
頷いた私を一瞥し、先輩は続ける。
「彼はどれだけ話しかけても、手伝いを申し出ても、ハンナが不機嫌だったと話していた。それは、ハンナが日本の男性に嫌悪感を抱いていたから。元々、日本に特別な感情があったわけじゃないだろう。だけど在日して、彼女の美貌をまじまじ見つめる日本人の視線を感じて、嫌になったんだろうね。一番初めに口説いてきた男も、見た目のことしか話さないし」
肩を竦める久世先輩。
その、一番初めに口説いた男は、私の覚えている限りでは彼だったはずだが。
ということは置いておいて、ふと疑問に思ったことを尋ねてみる。
「でも、それでどうして、日本に来たんでしょう?」
「彼女の母親、シュートレン作るのが得意なパティシエの母親が、和菓子に興味を持ったらしくてね、一年、勉強するためにやってきているんだ。せっかくだから、異文化体験しろって、連れてこられたみたいだよ。母親は前から日本が好きで、読み書きを教えてたらしいし、楽観的に大丈夫だろって思ったんだ。彼女の友人だった学校の理事が、簡単に受け入れのもあってね」
経営者を親戚に持つ彼が言うなら、それは事実なのだろう。
「まあ、とにかく、いくら結城翔太に言い寄られても、また馬鹿な男が自分の外見に興味持って、あれこれ言ってきてると、それくらいにしか思わなかっただろう。初めに結城翔太が杞憂した通り、不機嫌だったんだよ。それを彼は、『内心では感謝してたらしい』と、勝手に、読み取った」
結城くんを、とんだ勘違い野郎、みたいに言う先輩に、少しむっとする。
そう考える根拠は、ちゃんとある。
「それは、お花をプレゼントしてもらったからです」
「チューリップを?」
「そう、なんですかね?」
何の花かまで聞いていなかったけど……
私が首を傾げると、先輩は呆れたように言った。
「部室に大切に干してあったじゃないか。球根が」
きゅう、こん?
考えること数秒、そして、
「あっ!」
窓辺に干されていた玉ねぎのようなもの。
あれは球根だったのか。
「球根から咲く春の花、一番有名なのは、チューリップだよね。来年も咲かせるって意気込んたってことは、枯れた後に掘り下げて、風通しが良いとこに干してたんだろ。で、チューリップだ」
「はい、チューリップ」
確か、花言葉はロマンチックなものばかりだったはず。
色はわからないが、赤であれば、愛の告白。まさに、好意を告げるのに相応しい花である。
「ドイツでは、チューリップを渡すのは、『絶交』のメッセージだ」
「えっ!」
思わず大きな声が出た。
「付きまとってうぜえんだよ、この野郎。私が全然興味持ってねえのわかんねえのか、ホント馬鹿だな、消え失せろ!」
「…………」
「ハンナは、そう思って、結城翔太にチューリップを贈ったんだ」
それは……。
何て言ったらいいか。
御愁傷様?
「なのに、結城翔太は懲りずに、ハンナに付きまとって、園芸部の手伝いまで始めたそうだね」
「は、はい」
大きな声を出したせいか、声が掠れてしまう。
先輩は私に紅茶を、(先輩と一緒に自分で淹れたものだが、まだ一口も飲んでいなかった)差し出しながら、淡々と続ける。
「それで、勝手に距離を縮めた気になって、告白。これにハンナは頷いた」
先輩とは違って、砂糖を一つも入れていない、ストレートの紅茶を一口飲んで、
「はい」
少しの沈黙の後、先輩が言う。
「結城翔太が何て告白したか、わかる?」
「……好きですって、言ってたと、思います」
彼からは聞いていない。だけど、私は見ていた。
口が動いたのは、少しの間だけ。
すきです。
私が望んで止まなかったその四文字。
自信があった。
「結城翔太らしい。捻りがないなあ」
先輩は苦笑した後、淡々と言う。
「好きです、このストレートすぎる告白、ハンナが意味を理解していなかった可能性が高い」
「えええっ!」
さっきより、大きな声が出た。
「日本語がわからないってことですか?」
「違う。リスニングはほぼ完ぺきにできるはずだよ。喋るのは苦手らしいけどね」
理解できないって、そんなはずなくない?
そんな思いが顔に出ていたのか、先輩がぷっと噴出した。
「……!」
「あ、ごめん、ごめん。どうしてかっていうと、ドイツには……っていうか、欧米には、告白して付き合うって文化が、あまりないんだよ」
「それはつまり」
ダメだ。理解が追い付かない。
こめかみを指でぐりぐりしていると、先輩が優しく説明してくれる。
「日本では、はっきりきっぱりさせないと、誠実じゃないって考えるだろ? だけど向こうは、いちいち言葉で宣言しないと男女の仲になれないなんて、ナンセンスだって、そう考えるんだ。気が合って、デートして、一緒にいる時間が長くなって、いつの間にか自然とスタディになってのが普通ってこと。相性確認するためってことで、本気で付き合う前にキスしたり、体の関係持つのも割とありがちだよ。まあ、その点でも、僕が口説くのにハンナは都合が良かったわけだけど」
最後の方、聞き捨てならないことを言っていた気がするが、それは、聞かなかったことにしよう。
「じゃあ、彼女は、どうして頷いたんですか?」
「好きですって言われたから、そうでしょうねって、意味じゃないの?」
「じゃあ、ハンナさんの方は、付き合ってる気はないってことですか? でも、そんなはず……!」
ハンナさんも、結城くんが好きだ。
それだけは、きっと私にだけわかる、確実なこと。
結城君くんは、先輩からもらった本により、ドイツの「当たり前」の知識を得て、自分の勘違いに気づいた。好かれてすらいなかったのに、彼氏面していることを、申し訳なく思っている。
だけど、それとは別で、ハンナさんの気持ちは確実に動いていたに違いないのだ。
ただの勘違いが、いつの間にか、勘違いじゃなくなっていたはずなのに。
「さあ、それはわかんないけど」
先輩は一旦言葉を切ってから、にやりと笑う。
「それは、どうでもいい。僕には君が、約束通り、毎日お菓子を作ってくれることの方が大事だし」
先輩は私を見つめてにっこりと微笑むと、付け加えるように言った。
「そして、君にとってもまた、どうでもいいんじゃないのかな?」