ハッピーオーラ
「結城くん、あのこれ、久世先輩から。ドイツの文化についての本。得体が知れないかもしれないけど、一応、確認したから、大丈夫だと思う。普通の本だったよ」
翌日、忘れないうちにと朝一番に例の本を渡すと、結城くんは目を丸くした。
「久世先輩が? 俺に?」
そう言えば、先輩は彼を知っているようだった。
接点などないように思うが、どんな知り合いなのだろう。
疑問を感じ取ったのか、結城くんは、にこりと笑う。
「ああ、先輩とは、小学生の時、サッカーチームで一緒だったんだ」
「そうなんだ」
先輩、サッカーなんてやってたのか。あの協調性ない人が、集団でスポーツなんてできるのかな? そんな不敬なことを考えていたその時、
「チームにいた時も、その後も、先輩にはお世話になってばっかりだったよ」
耳を疑った。
「お世話してたの、間違いじゃなくて?」
「何で俺が先輩の世話を……」
と、そこまで言ってから、彼は苦笑する。
「今の先輩は、あの、ちょっと変だけど、昔の先輩は、真面目で優しくて、頼りがいがあって、誰からも好かれて、尊敬される人だったよ」
真面目で優しくて、頼りがいがあって、誰からも好かれて、尊敬される?
どこの誰だろう、それ?
思わず遠い目をしてしまった私に、結城くんはさらに告げる。
「先輩、今も、本質的なところは変わってないと思う。俺、中学の時に父親がいなくなって、経済的に回んなくなってさ、高校進学するの悩むくらいだったんだけど、先輩がスポーツ特待生って形で、この学校入れてくれたんだ。この学校、先輩の親戚が経営してるから」
「えっ!」
だから、あんな自由奔放にやっているのか。
という私の驚きを勘違いしたらしく、
「な、優しいだろ? だからこの本も、先輩の優しさだと思う」
と、結城くんは、無邪気な笑顔を向けてくる。
とてもじゃないが、久世先輩はそれを渡す直前まで、あなたの恋を邪魔する画策をしていたんです。なんて、言えない。
先輩が優しいなど、にわかには信じがたいが……この信頼を否定するのはどうかと思ったので、
「う、うん。久世先輩、昔、ハンナさんに迷惑かけたらしいから、結城くんに幸せにしてあげてほしいって思ってるのかも」
そんなこと思っていないとは思うけど、とは思いながら、つい、そう言ってしまった。結城くんは嬉しそうにはにかむと、こくりと頷く。
「ありがとう、って伝えて。てか百瀬、久世先輩と親しいんだな。あ、そっか、部活入ったんだっけ? 先輩に誘われたってことは、気に入られたんじゃね? 百瀬はどう……って、そういえば、お菓子作ってあげたとか聞いたぞ。両想いじゃん!」
どうやら、話をところどころ聞いているようだけど、
「違う」
思ったより、低い声が出た。
先輩に渡したのは、あなたへ送るつもりだったケーキです。私はあなたが好きでした。そして先輩は私に付き合うかと聞いてきますが、同じようにあなたの彼女も口説いていました。
ああ、何とこんがらがった話なのだろう。
全てを伝えたら、多少はスッキリするだろうか?
「お、おう」
あまりに険しい顔をしていたのだろうか、結城くんが引き気味に頷いた。
「ま、とにかく読んでみるよ。サンキューな」
無邪気に笑って言った後、結城くんは私に背を向け、席に戻っていった。
後姿からだけでも彼が幸せなことがわかる。
彼は今、本当に、ハンナさんのことが好きで好きで仕方がないのだろう。
ハンナさんと付き合い始めてから、結城くんはいつもご機嫌だ。
彼女に会いに行くのか、部活のない日の放課後、急いで教室を飛び出す時や、休み時間に友達と喋ってる時、はまだわかるけど、掃除の時間に廊下を拭いている時や、授業中、難しい問題を当てられて困ってる時まで。体の内側からしみ出すような、ふわふわとしたハッピーオーラを纏っている。
そして私はその逆、いつも、どんな時でも憂鬱だ。
好きな人が幸せそうにしているのを見ても、嬉しくなるどころか、モヤモヤが溜まる一方、うまく行かなれば良いのに、なんて考える、汚い自分がいることに気づいてしまった。
「失恋って、ホント、嫌なものだよね」
口の中だけで呟くと、私は大きなため息をついた。
*
私と結城くんはクラスメイトだ。今後、今以上にハッピーオーラを振りまくだろう彼を、私は友人として、暖かく見守らなければならない。絶対にしんどいし、切なすぎて涙が出そうになるかもしれない。だけど、彼の前ではいつも通りに笑ってみせるのだ。
昨日、久世先輩から本を託されてから、一晩かけて、そう覚悟を決めた。
それなのに、結城くんがかもしだすハッピーオーラは、強くなるどころか、どんどん弱くなり、というか一切消え失せ、今、彼がまとうのはどんよりした負のオーラだった。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、ふらりと立ち上がり、世界中の不幸を背負ったような重い足取りで、教室から出て行こうとする彼が心配で、
「ゆ、結城くん、どうしたの? 大丈夫?」
そう声をかけると、結城くんは弱弱しく笑った。
「大丈夫、じゃ、ないかな。だって――」
「ごめん、何? 聞こえなかった」
私がそっと近寄ると、彼は先ほどより、少しだけ大きな、だけど悲しみに溢れた声で言う。
「ハンナと……別れようと、思って」
聞き間違いかと思った。
「……別れるって、言った?」
小さく聞き返すと、彼はゆっくり頷く。
「別れるっていうわけでもないか。最初から、何もなかったんだから。今朝、百瀬がくれた本のおかげで、俺、ハンナの気持ちがわかったんだ。彼女のこと、好きだから、謝ってくる」
*
「せ、せ、先輩! どういうことですか?」
「どういうことって、何さ?」
「結城くんのことです! あの本に、何を仕掛けてたんですか!」
「仕掛けるなんて、あれはただの本だよ」
あの後、私は久世先輩の所属するニ年一組まで押しかけた。
教室の扉の前で押し問答をする私たちを(というか、久世先輩を呼び出し、一方的に食い掛かる私を)、二年の先輩たちがじろじろと見つめている。
が、構ってはいられない。
なにせ、結城くんの大ピンチだ。
あの衝撃的な言葉を耳にした後、事情を詳しく説明してほしいと頼んだのだが、彼は、今はまだその余裕がない、全てが終わるまで待ってほしいと言ったのだ。そして、思いとどまるようにと止める私を振り切って、ハンナさんの元に行ってしまった。
ハンナの気持ちがわかった、結城くんはそう言ったけど、彼女は結城くんが好きなはずだ。
つんつんしていて、素っ気なかったけど、自分で育てたお花をプレゼントしてくれた。
そして何より、私が見たハンナさんは、結城くんから告白されて、とても嬉しそうだった。
確かに笑ってはいなかった。だけど……だけど、私にはわかる。
同じ女だから?
いや、違う。同じ人に恋している、私だから、わかるのだ。
彼女は結城くんが大好きなのだと。
「ドイツの文化や風習をわかりやすく解説した、エンタメ本。本屋で普通に買えるよ。何も手を加えてない」
確かに、先輩から手渡されたのは、どこにでもあるような普通の本だった。
渡す前にぺらぺらページを捲ってみたけど、砕けた文体で書かれた、イラスト多めの読みやすい本で、おかしなところはなかったはずだ。
それに、どんな細工をしたところで、あの結城くんのハッピーオーラを消し去ることができるようには思えない。
「じゃあ、何で……」
結城くんは、突然ハンナさんの気持ちを疑ったのだろう?
黙った私を面白そうに見つめると、久世先輩はにこりと笑って、私の手を引いた。
「続きは、部室で話そうか」