ジンジャーマンクッキー
「できたっ!」
オーブンの扉を開けると、香ばしい香りが辺りにふんわり広がった。
用意されていた真新しいミトンを手につけて、天板を作業台の上に移動する。焼きあがった茶色のクッキーを網の上で冷ましている間に、粉砂糖と卵白、レモン汁を混ぜて、アイシングのための砂糖衣を作っておく。
ジンジャーマン一人一人に、丁寧に表情を描き込んだら、クッキーの完成だ。
にこにこ笑顔や困り顔、怒り顔に澄まし顔、表情豊かなジンジャーマンたちは食べてしまうのがもったいないほど愛らしい。彼らをにやけ顔で見つめていると、
「じゃあ、一つ、いただきまーす」
後ろから伸びてきた手に、笑顔のジンジャーマンが連れ去られた。
「あ」
振り向くと、案の定というか、何と言うか……そこにいたのは、もぐもぐと口を動かす久世先輩だった。盗み食い(というには堂々としていたが)を咎める気が失せるような、無邪気な笑顔で、嬉しそうにクッキーを頬張っていた彼は、突然、虚を突かれたような表情で固まってしまった。先生のと同じ味になっていると思うんだけど……もしかして、先輩の口には合わなかったとか?
「えっと、その、どうですか?」
尋ねた瞬間、先輩ははっとしたように私を見て、にっこりと笑った。
「美味しい。思った通りの味だ」
しみじみと言った後、彼は私をじっと見て、「ありがとう」とぎこちなく笑う。
いつもの完璧な笑顔と違う、妙に弱弱しいその笑顔に思わず胸が高鳴って、それを誤魔化すために慌てて顔を背けた。
「良かったです。ああ、これ、お皿に盛りますね。皆さんでどうぞ」
言いながら、近くにあった大皿に、乱雑にクッキーを乗せていく。挨拶だけでろくに会話もしていないが、隣の広間には、毛利先輩も和歌山くんもいるはずだ。せっかくだし食べてもらおうと皿を持ちあげた瞬間、制するように、先輩から手首を掴まれた。
「……何ですか?」
窺うように先輩を見ると、その端正な顔が、ぐっと近づいてくる。
思わずのけ反った私を見て、くすくす笑いながら、先輩は言う。
「全部、僕が食べる」
「いやいやいや、この量は一人じゃ無理でしょう」
「毛利は和菓子の方が好きだし、竜はこういう可愛い形のものは食べられない」
可愛い形のものは食べられない?
わけがわからないまま、久世先輩を見つめていると、彼はとろけるような甘い顔で微笑んだ。
「だから、君と僕の二人で食べよう」
大皿に山盛りのジンジャーマンクッキー。
これを作るのにどれだけの小麦粉と砂糖、バターを使ったかを考えると……全部食べるなんて、恐ろしすぎる。もちろん、大部分はカロリー的な意味で。
「それも、無理です」
苦々しく言った私を無視して、先輩は隅にあったスチール椅子を二つ、持ってきて、そのうち一つに腰掛ける。にこりと笑顔を向けられれば、もう隣に座るしかないではないか。
「あ、冷蔵庫の中に、パックのカフェオレあるから、取ってくれる? 君も飲んでいいよ」
長い足をひょいと組んで、にこにこ笑う先輩は、ただそれだけで人を従わせる何かを持っている。完璧な容姿なのか、飄々とした雰囲気なのか、それとも何か他のものなのかはわからないけど。
「わ、わかりました」
ため息交じりに呟いて、冷蔵庫から取り出したカフェオレを手渡すと、先輩は「サンキュ」と笑顔で言って、手を合わせた。
「じゃあ改めて、いただきまーす!」
お腹を空かせた子供みたいに元気な掛け声をかけてから、先輩はジンジャーマンクッキーを手に取った。ぱくりと頭をもぎり、腕を、そして胴体、下半身を嚙み砕くその姿は、まるでモンスターのよう……何て言うとグロテスクだけど、そうではなく、だけどパクパクと、恐るべき速さでクッキーを平らげていく先輩は、間違いなく異様だった。
「あの、もしかして昨日のケーキも、一人で食べたんですか?」
かなり大きなホールケーキだったのだけど……
「そうだよ」
何か問題でも? と言いたげに頷く先輩を見て、呆然とする。
そのモデル体型は、果たしてどうやって維持されてるのだろう?
「先輩、ただの甘党なんじゃなくて、食いしん坊な甘党だったんですね」
何だか可愛いかも、なんて思ってしまったのは、無心で食べている先輩が、思いのほか子供っぽく見えたからかもしれない。まあ、こうも食べるなら、市販品を購入するより、作った方が安いもんね。なんて、強引な勧誘も、納得してあげてもいいような気になっていると、
「それもあるけど、彼女の手作りお菓子を、他の奴にあげるもんじゃない。僕だって、そういう常識くらい、あるんだよ」
拗ねたような顔で覗き込まれて、思わず固まった。
「か、彼女って何ですか!」
「え? 僕とは結局付き合わないの? いいよ、別に、付き合っても」
逆に驚いた、とばかりに目を丸くされ、呆気に取られる。
その言い方じゃあ、まるで、こちらが言い寄ったかのようではないか。
「先輩、別に私のこと好きじゃないじゃないですか? 何でそういうこと、言うんですか」
「お菓子、作ってほしいから」
先輩は当然のように言うと、無邪気な笑顔で続けた。
「倶楽部に入ってくれたってことは、毎日、部活動の時間に、君が作ったお菓子を食べられるってことだ。だけど、恋人になれば、家で作った差し入れをもらえるし、休みの日にも作ってもらえるかもしれない。僕はできうる限りたくさん、君の作ったお菓子が食べたい」
どれだけ食いしん坊なんだ!
先ほどは違い、呆れた気持ちで思いながら、私は小さくため息をつく。
「毎日は作りません。調理部の活動は週三だったし、ここにも週三で通わせてもらいます」
ええーっ、と言う不満げな声を無視して、私はさらに続ける。
「それに、私、先輩もご存じのように、失恋したばかりなんです。そういう気持ちになれません」
「古い恋を忘れるには、新しい恋だよ。僕と付き合って、毎日お菓子、作ってよ。付き合ってみたら、君、絶対に僕のこと、好きになると思うけど」
ぐっと顔を近づけられ、慣れた仕草で頬に触れられれば、顔が熱くなる。
まあ確かに、この顔で言い寄られて、靡かない女は少ないのかもしれない、けど……
「なりません」
思わず立ち上がって、先輩を睨みつける。
私よりお菓子の無事を重視する。人の気持ちなどお構いなしに自分の気持ちを押し付けて、無邪気なのは食べてる時だけ。常に計算高く、人を操作する。
顔はきれいだが、中身は最悪だ。
「私、先輩のこと、全然タイプじゃありません。先輩は、嫌な奴ですから」
私が好きなのは、素直でまっすぐな、陽だまりのような男の子。
「それに私は、今もまだ、結城くんが好きなんです!」
仁王立ちで宣言すると、先輩はさしてショックを受けた様子もなく、「変わってるねえ」とのほほんと呟いた。
「君の好きな結城翔太、僕もまあ、知ってる奴だ。女子からの人気はなかったはずだけど、どこがいいの?」
心底不思議そうにそう言った先輩に、私は叫ぶように言う。
「あなたより、百倍素敵です!」
「ふうん、じゃあ、彼の恋がうまくいかないといいね」
意地が悪い顔で笑う彼にからかわれているのはわかったけど、何だかもう、怒る気力もない。
「まあ、そう思わないといったら嘘になりますけど、散々、惚気話、聞いちゃってますし」
ぼやくように言うと、久世先輩はハハハと声高らかに笑った。
「大丈夫。そう願うなら、僕たちシリウスが何とかしてあげる。だけど、もし願いが叶ったら、君は毎日部活に参加して、僕にお菓子を作るようにね」
そんなの無理だ。
分かっているから、苦笑いで頷いた。
「まあ、そんな奇跡みたいなことが起こったら、そうします」
先輩はにっこり笑った後、
「はい、指切りげんまーん」
と、小指を繋いで楽しげに歌った。