見事に外堀を埋められた件
「ねえ、今日駅前の飲茶カフェ行こうよ。色々お疲れな美波に、スペシャル肉まん、ご馳走してあげる」
「やったあ! 沙織、ありがと」
放課後、鞄に荷物を詰めながら、沙織と一緒に教室で喋っていると、扉の向こうで歓声が聞こえた。何の気なしに目を向けると、
「みーなーみー、ちゃん」
眩い笑顔を湛えた久世先輩が、ひらひらと手を振っている。
「え、何で?」
呆然として呟く私に、先輩はつかつかと歩み寄り、
「迎えに来たんだよ」
と、優しく言う。
「いえ……あの、倶楽部には入りませんって、今朝、お伝えしませんでした?」
「そう、だったね。だけど、諦めきれなくて。君のお菓子があれば、倶楽部の活動ももっと、有意義なものになりそうだと思ったから」
ため息交じりにそう零す先輩からはさっきまでのキラキラは消え失せたが、代わりにかすかな哀愁が漂っている。
伏せた瞳に浮かぶ寂し気な色と、相反してきれいに引きあがった口角が作り出したアンニュイな笑顔は、一枚の絵画のように美しく、それでいて、とても色気っぽい。はあ、ともう一度息を吐いてから、先輩は、私の隣に立っていた沙織に向き直る。
「ねえ、親友の君からも説得してくれない?」
「わ、わたし、です、か!」
突如、声を掛けられた沙織は、真っ赤な顔で先輩を見つめたまま、上ずった声で言う。
「ちょっ」
「うん、倶楽部活動は、僕自ら提案したイベント実行か、他の生徒からの依頼を引き受けるか。君も知ってると思うけど、依頼を引き受けるかの判断は、部長である僕の独断で決めてる。線引きは単純に、面白そうかどうかってことと、その時の気分、なんだけど……部員の友達の依頼を気分じゃないなんて理由で断るのは、流石の僕でも気が引けるよね」
私の言葉を遮って、つらつらと言ってから、先輩は周囲にいた、そしていつの間にかこちらを凝視していたクラスメイトたちを眺め見る。
「友達思いの彼女なら、倶楽部に入ってくれるはずだと思ったのになあ」
言いながら、先輩は顔に手をやって、わざとらしいほどのため息をついた。
この人は、私が人目を気にする性格だと知って、それを利用しようとしている。
そう気づいた時にはもう遅かった。
「……ね、美波。先輩、こうまで言ってるんだから、部活、入ったらどう?」
沙織が朗らかな声で言うと、他のクラスメイトも賛同するようにコクコクと頷いた。
「そうだよっ!」
「調理部より、絶対美味しいお菓子、作れるって」
口々に言う友人たちの目はキラキラと輝いている。
シリウスが味方になってくれるなら、校内での後ろ盾を得たようなもの。彼らへの信頼は、教師や生徒会へ対するものより圧倒的なのだ。
恨みがましく先輩を睨むと、先輩はご機嫌ににこりと微笑んだ。
断った方が、平穏に暮らせないよ?
彼の瞳がそう語っている気がして、私はぐっと唇を噛む。
「…………わかり、ました」
ややあって、絞り出すようにそう呟くと、先輩は満足げに頷いて、「じゃあ、行こっか」と、私の手を引いた。
部室へ向かうと、険しい顔の和歌山くんと、真顔の毛利先輩から、「いらっしゃーい」と声を掛けられた。「昨日、説得したから、二人とも君を歓迎してるよ」と久世先輩は言ったが、どこからどう見ても、歓迎している顔じゃなかった。憂鬱さがさらに増したが、キッチンスペースに入った瞬間、全ての感情が吹き飛んだ。
「これ、わざわざ、私のために?」
作業台の上には、真新しい調理道具一式が並べられていた。
「そう、これも。君には快適な環境で、部活動に勤しんでほしいからね」」
久世先輩が冷蔵庫を開ければ、中には小麦粉や卵、バターなどの食材が揃っている。
どれも今朝、訪れた時にはなかったものだ。
「ありがとう、ございます」
「満足してくれたら嬉しい。昼休みに奔走したからね」
さらりと言う先輩に、少しだけ感動していると「僕じゃなくて、竜がだけど」と付け加えられた。ああ、それじゃあ、和歌山くんのあの怖い顔も納得がいくかも。なんて思っていると、
「今日はこれで、ジンジャーマンクッキーを焼いてほしいんだ」
久世先輩はにっこり笑って、楽しそうにそう言った。
「……まだ、秋ですよ」
ジンジャーマンクッキーとは、生姜が練り込まれた生地を人の形に型取った可愛らしいクッキーだ。クリスマスによく見る、冬のお菓子である。
「別にいいだろ? いつの季節だって、美味しいものは、美味しく食べられるよ。それに、一説では、ジンジャーマンクッキーの由来は、ヘンリー八世が風邪予防のために生姜を摂取するよう広めたっていう話だし、秋風邪が流行ってる今、ピッタリじゃないか」
冷蔵庫の中から生姜を探して、ずいとこちらに差し出しながら、にっこりと笑う先輩に反抗することは、どうやってもできないだろう。先ほどの一連を思い出してそう悟った私は、息を一つついてから、小さく頷く。
「……わかりましたけど、所詮、素人の作るお菓子ですよ」
材料費を負担するくらいなら、プロが作ったものを購入すべきだと思うけど。そんな思いを込めて、ちらりと先輩を窺うと、彼はとろけるように甘く笑った。
「だから、いいんだよ。君がその手で作るものが、食べたいんだ」
そっと手を握られて、思わず顔が熱くなる。
昨日、君なんてどうでもいいと言われたばかりだし、口説かれているわけではないとはわかっている。だけど、わかっていても、この美しすぎる顔は心臓に悪い。
「作りますっ! 作りますから、向こうに行っててくださいっ!」
叫ぶようにそう言うと、先輩は「はいはーい」と手をひらひら振りながら、キッチンスペースから出て行った。すらりとした後姿を睨むように見送った後、作業台に向かって、必要な材料を取り分けていく。
「バターに小麦粉、砂糖と牛乳、あとは、生姜」
幸運なことに、ジンジャークッキーは作りなれている。
ジンジャークッキーは、私の敬愛する、お菓子作りの先生が、良く作ってくれた一品なのだ。
*
幼い頃、近所に「ポルックス」という名前の、小さなお菓子屋さんがあった。
入り組んだ住宅街の奥にひっそりと佇んだ、一見、店舗だとはわからないような外観の古民家で、店主は年若いお兄さんだった。
いま思えば、なかなかの美青年だったと思う。男の人にしては長めの目にかかるくらいの黒髪は、普通だったらモサくなりそうなものだけど、彼のきれいな顔と合わさって、雰囲気のあるオシャレな感じになっていた。彼は身なりには全く頓着しない性質だったというのに、不思議なものだ。
まあ、とにかく、私の先生は、その不思議とオシャレに見える彼、真琴さんである。
彼と出会ったのは、十歳になったばかりの春、学校帰りに、いい匂いに誘われて、店に迷い込んでしまったのだ。
彼は幼い私に、少し形の不格好なお菓子をただでふるまってくれ、さらには、いつでもおいでと誘ってくれた。社交辞令なんて言葉を知らなかった当時の私は厚かましくも、毎日のように彼の元に通い、お菓子を食べた。お菓子作りを手伝いたいという私の申し出を、彼はまだ早いと断ったけど、将来、お菓子作りが上達したら、お店の手伝わせてくれると約束し、秘伝のレシピを教えてくれた。
残念ながら数年後に「ポルックス」はなくなってしまい、彼も去ってしまったけど、私は今でもそれを信じ、彼に教えてもらったお菓子を練習している。
彼は去り際、こう言った。いつの日かここに戻って、必ず店を再建するのだ、と。
その時、私は彼の力になりたいと思う。
だって彼は、私の恩人だから。
そのためには、何としても、お菓子作りが上手にならねばならない。
ジンジャークッキーは、彼がよく作っていたお菓子の一つだから、私も何度も練習した。先輩だってきっと満足するだろう。
思い出の味を思い出しながら、私はお菓子作りに没頭したのであった。