再び、恋愛運無しの女
「そ、わかっただろ? 君は、昔の女の代わりにさせてるんだ。わかったら、早く手を切りなよ」
眉間に皺のよった不機嫌な顔で言う先輩を、私はじっと見つめて、小さく息を吐く。
「……あ、あの」
何? と問うように、先輩の眉がぴくりと動く。
こんな表情でも、彫刻みたいにきれいだなあ、なんて場違いなことを思いながら、私はゆっくりと続ける。
「『代わり』の何が悪いんですか?」
先輩が、「代わり」に嫌悪感を抱いていると勘づいてから、ずっと疑問に思っていたこと。
もしかすると、先輩のトラウマに触れてしまうかも知れない、そう恐れながらも、聞かずにはいられなかった。
「私は『代わり』でもいいです。それで、大好きな人から大好きだと思ってもらえるのなら……必要だと感じてもらえるなら、『代わり』でも十分幸せです」
先輩はまるで宇宙人でも見るような顔でしばらく見つめていたが、やがて、絞り出すような声で問う。
「屈辱的だと、思わないの?」
「すみません。思いません」
私には先輩ほどの誇りはない。
人に嫌われたくない、という思いが強くて、ご機嫌を取るためならいくらでも愛想笑いする。諍いが嫌いだから、それを逃れるためなら、いくらでもへこへこ頭を下げることができる。プライドがない、と先輩から蔑まれてもおかしくない女なのだ。
先輩から嫌われたくはない。
でも……それでも、私にも、譲れないものがある。
「私の好きは、自分の何をどう変えてでも、どんなものを捨ててでも構わないから、相手に好かれたいと思うほどの『好き』なんです」
私は今、先輩が好きなのだ。
認めるのが悔しいけど……恋愛的な意味で。
視界に入るだけで鼓動が高鳴り、声を聞けば頬が熱くなる。触れて温もりを感じれば、それを他の誰にも渡したくないと心がひりひりと痛む。
先輩も私を同じように思ってくれるならーー
たとえそれが、誰の代わりでも、構わない。
「だから、『代わり』なんて、ちっとも気にならないです。蘇芳くんの事に対しても、先輩みたいに怒る気にはなれません」
「君、ね」
先輩は普段からは考えられない厳しい顔つきで私を見つめながら、吐き捨てるように言う。
「今のあいつは、昔の女を忘れている。だけど、真琴の味を忘れれば、思い出すよ。その時、奴は君を通して、昔の女を見るんだ。それでも構わないっていうの? ああ、それを防ぐために、君は菓子を食べさせるのか? 真心込めて作った菓子を、あの男に? 自分だけを見てもらうために? あんな男のために!」
ドン、と作業台を叩いた先輩は、唇をぎゅっと噛みしめていた。
「……あの。先輩、勘違いしてると思うんですけど」
私が恐る恐る口にすると、先輩は揺れる瞳を、ゆっくりこちらに向けた。
「私、別に蘇芳くんと付き合いませんよ?」
一瞬の沈黙の後、先輩は間の抜けたな顔になる。
「は?」
「……怒ってないって言っただけで、付き合うなんて一言も言ってないじゃないですか?」
「でも、代わりで良いってーー」
「だって、好きじゃないですもん」
先輩の言葉を遮るようにして、私は早口で言う。
「私、蘇芳くんのこと、好きじゃないです。いい人だとは思いますけど、恋愛感情はありません。さっきのは、好きだったら、『代わり』でもいいってことで……好きじゃないのにあえて『代わり』に収まろうとか思いませんよ」
苦笑いすると、先輩はほっとしたような顔で「そうか」と小さく呟いた。それから思い出したように、口を開く。
「タイプって言ってなかったっけ?」
「タイプだからって、すぐさま好きになるほど、単純じゃありません。時にはタイプじゃない人を好きになって、やきもきすることも……あったりとか……」
目の前の先輩を見つめながら消え入りそうな声で呟くが、普段は察しの良い先輩は私の気持ちに気づいた風はなかった。
「そうか、そうか。そうだよね」
途端に明るい顔になった先輩が何だか憎たらしくて、私はぼそりと口にする。
「そうです。それに、先輩は『代わり』がダメってやけに口を酸っぱくして言いますけど、先輩こそ私を『代わり』にしてる』じゃないですか? 真琴さんの」
瞬間、先輩の顔は真っ青になった。
「……あ」
呆然と呟く先輩を見て、私は慌てて言う。
「いや、いいんですよ。私、さっきも言いましたが、『代わり』とか、どうでもいいので。先輩の役に立てたなら、それで十分なので!」
ちょっとした嫌みのつもりだったのだ。先輩を傷つけたくはない。
「いや……ごめん」
先輩は掠れ声で言ってから、小さく首を振る。
「良くない、よ。……いや、会ったばかりのころはそれでも良かった。だけど、今はそれじゃだめだ」
はあ、と息を吐いてから、先輩は苦悶の表情で続ける。
「認めたくはないけど……僕は……君を特別だと思ってる、みたいなんだ。真琴の味は君が思い出させてくれたのに、おかしいとは思うんだけど」
嬉しい。嬉しいけど……
だけど、先輩は辛そうで、それがとても、悲しい。
先輩を苦しめているのは、私なのだ。
「まあとにかく、その大事な君を『代わり』にはできない。今、言われて初めて、気づいたよ」
先輩はそこまで言うと、困ったように微笑んだ。
「君にお菓子を作ることを、もう強制はしない。作りたいと時にだけ、作ってくれればいい。まあ、その時には、ぜひお裾分けしてほしいけど。もちろん、真琴の味じゃなくとも構わない。君の作った物が食べたいだけだから」
真剣な声音から、先輩の本気が伝わってくる。
でも、あれほどまでに、真琴さんのお菓子を欲していたのに……
「作りますよ。毎日。強制じゃなくても。私が、先輩に食べてほしいから」
先輩が、好きだから。
そう、続ける言う気はなかった。
言葉の代わりに、先輩をじっと見つめると、彼は嬉しそうに笑って、「ありがとう」と言う。
それから少し考えるようにして、
「むやみやたらに口説くのも、もうやめるよ。君を、他の女の子と同列に扱いたくはない。今までは……君が僕のものになったら、良いように利用できるって思ってた。だけど、もう、そんなことは思わないようにする」
え?
「僕は君に、もう何も求めない。君は何をしてくれなくても、僕の大切な後輩だ」
とても優しい、慈しみ深い、邪気のない笑顔だった。
だけど、その美しい信頼が、今の私にとっては絶望だ。
たとえ代わりでもいいから、好きな人に好かれたい。
それほどの恋心なのに、先輩は私が「特別」だから、口説かないと言う。
「……やっぱり、毛利先輩の占い、めちゃくちゃ当たってる」
ぼそりと呟くと、先輩は怪訝そうな顔をした。
「毛利に何言われたの?」
「恋愛運、最悪だって言われたんです」
苦笑いで答えると、先輩は納得したように頷いた。
「ああ……君にはいつか、蘇芳なんかより、もっといい男が現れるよ。それまでは僕のところで可愛がられて。僕さ、ずっと妹がほしかったんだ」
「…………い、いもう、と?」
「うん。特別だって認めたら、言い様のない愛おしさが湧いてきた。これはもう、家族くらいにしか抱けないような愛情だと思う」
とろけるような笑顔で言われて、私はびしりと固まってしまう。
何だか、喜んでいいのか、悲めばいいのか、よくわからないな。
ーーいつか、君の恋愛運が上がった時でいい。久世と付き合ってやってくれないか?
ふと頭に浮かんだのは、いつかの毛利先輩の言葉。
私の恋愛運が上がるのは、一体いつになるのだろう?
そんなことを考えた時、
「美波ちゃん」
先輩が私にぐっと近づいた。
「来週末、隣町のケーキビュッフェ、一緒に行かない?」
それって、先輩が相手を募っていた、一流ホテルでのイベントだよね?
っていうか、顔が、近いっ!
「み、みんなで、ですか?」
「違うよ」
先輩はにっこりと微笑んで首を振る。
「二人きりで。君との時間を他の誰にも邪魔されたくない」




