蘇芳くん
「えっと……その……」
曖昧な言葉を口にしながら、思い出していたのは、久世先輩の言葉。
ーー君を他の女の代わりにしようとしていた。
蘇芳くんに大事にしていた元カノがいた。彼にはその記憶はないが、私は彼女ではないから、すぐに捨てられる。そう思って、久世先輩は蘇芳くんに怒りを露わにし、私が彼と接近するのに反対していた。
だけど、沙織はそれは違うという。
彼女がいたのは本当だけど、私のことも、本気なのだと。
「蘇芳ね、事故に遭って怪我して、空手できなくなっちゃったんだけど……その時、元カノの記憶もなくなっちゃったらしいの。だから、その時の思いと、今の美波に抱いてる思いが一緒かはわからない」
あ、そういうことになってるんだ。
「だけどね、蘇芳の顔、同じだったんだ。恋しちゃった、って顔してるの。だから、きっと大丈夫。付き合ったら、美波のこと、大事にしてくれると思う」
沙織の声は以前のような押しつけがましさはなく、淡々と、事実のみを口にしているのだとわかる。
「だから、その、蘇芳のことは、良かったら、真剣に考えてやってほしい。蘇芳はね、私が美波のことで色々思ってたちょうどのタイミングで、美波を好きになったからアドバイスほしいって声かけてきただけなの。それを私が良いように利用しただけだから、あいつは姑息でも何でもないんだ。……私のせいで、蘇芳のこと色眼鏡でしか見れないっていうのは……何となく申し訳ない」
「うん、わかった」
私は一つ頷いてから、気になっていたことを沙織に尋ねる。
「ねえ、沙織は……蘇芳くんが、私を元カノの代わりにしてると思う? それで、怒る気になる?」
久世先輩は、「代わり」というその一点に、やけに拘っていた。
ーー一瞬でも、君を、他の誰かの身代わりとして使われるのが!
先輩が切羽詰まった様子でそう言った時、私は、先輩が、私がすぐに捨てられるような扱いを受けるだろうという事に対して憤りを感じていたと思っていた。
だけど、よく考えればそれなら、「一瞬でも」なんて言葉は使わないだろう。
ということは、先輩はすぐに捨てられるか、長く付き合うか、そういうことは関係なく、単に私が「代わり」にされるのに怒っていたということになる。
「え?」
沙織はきょとんとした顔で言った後、少しだけ考える素振りを見せてから、小さく答える。
「代わりとは、思わないかな? だって、昔好きだった人と、今好きな人への『好き』って思いって、同じじゃなくない? だから、怒る気にはならない」
真面目な顔で言った後で、はっとしたように言う。
「あ、もしかして、美波、怒ってる? 代わりにされたって?」
あ、そう取られても仕方ないよね。
私は慌てて首を振り、怒ってないよ、と示すようににっこり笑う。
「全然怒ってないよ。ただ、久世先輩がそう言って怒ってたたから」
「えっ!」
沙織は驚いたような声を出して、にんまりと笑う。
「そっか、久世先輩って、怒るんだね」
確かに、普段の先輩を見るに、怒っている姿は想像できない。目の前でそれを見ていた私だって、驚いたほどなのだ。
「あ、ああ……うん、そうだね」
私が曖昧に頷くと、沙織は苦笑いして呟いた。
「それじゃあ、やっぱり蘇芳に勝ち目はないかもなあ」
*
放課後、部室のキッチンで、私と先輩は久しぶりの穏やかな時間を過ごしていた。
今日作っているのは先輩のリクエスト、ピスタチオ味のマカロン。
私は作業に没頭し、スチール椅子に座った先輩がそれをひっそりと眺める。ただそれだけの、だけど、不思議と居心地の良い時間だ。
「先輩、聞きましたよ。沙織を振ったんですね」
カチャカチャカチャ、と泡立て器で卵白を混ぜながら、先輩に尋ねると、先輩は小さく頷いて、申し訳なさそうな顔になった。
「うん……なるべく穏便にと心がけたんだけど、彼女、君に八つ当たりはしなかった?」
何というか……こんな時でも、気遣うのは沙織ではなく、私なのか。失礼な人だなあ、と思いながらも、少しだけ嬉しいと感じてしまうのは、私の人間性にも問題があるのかもしれない。
「八つ当たりなんてしませんよ」
私はわざと素っ気なく言ってから、ちらりと先輩を見る。
「だって、沙織、先輩のこと、ちっとも好きじゃなかったんですから」
「……え?」
目を見開いた先輩の表情を見るに、どうやら本気で気づいていなかったらしい。
鋭い洞察力で、いつも名探偵よろしく全てを見抜いてしまう先輩にあるまじき鈍感さである。
「先輩の弱点って、世の女が全員自分に惚れてるっていう、うぬぼれにあると思います」
確かに先輩は素晴らしい美形だし、中身も十分魅力的だ。
だけど、それを自覚しすぎてると思う。
ジト目で見つめると、先輩はきょとんとした顔で私を見た。
可愛い!
と、無意識に思ってしまって、脱力する。
……世の中の女が全員自分に惚れてるって思っても仕方ない、可愛さかもしれない。
はあ、とため息をついてから、私はぼそりと言う。
「……説明します」
「頼むよ」
先輩は神妙な顔つきで頷くと、私をじっと見た。
カチャカチャカチャ、泡立て器を動かす手は止めずに、私は続ける。
「沙織は、先輩が私に送った、ハートたっぷりのメールを見てたんです。それで、先輩が私にちょっかい出してるって勘違いして、さらには私が先輩に惚れたら痛い目合うって心配して、好きな振りをしたんです。ほら私、親友の好きな人を奪おうとするタイプじゃないですから」
努めて簡単に説明すると、先輩は一瞬、呆気に取られたような顔をして、それから声を上げて笑い出した。
「何て言うか、それじゃあ、僕、まるで道化じゃないか!
これでもかなり、悩んだのになあ」
「……それに関しては、沙織が本当にすみません」
確かに、この件に関しては、先輩は全く悪くない。
私が素直に謝ると、先輩は未だ笑いが収まらない、とでもいう顔のまま、私をじっと見た。
「美波ちゃんって、ホント、女子にもてるよね」
「あ、ああ……沙織は本当に友達思いなので」
「沙織ちゃんだけじゃない。ハンナだって、アカネさんだって、美波ちゃんのこと大好きじゃないか! 僕より女の子に優先される人間なんて、珍しいからね、ホント」
「いや、そのうぬぼれを何とかした方がいいですから」
私はぼそりと呟いてから、「そういえば」と、思い出したことを口にする。
「蘇芳くんも、先輩が思ってるのとは違ったんですよ」
「……何が?」
先輩の口調に険が混じったのに少しだけ戸惑いながら、私は苦笑いで言う。
「えっと、蘇芳くん、私に対して不誠実な気持ちではなかったみたいです。一応、その……大事にしてた元カノと、同じように思ってくれたって、沙織が」
「何、言ってるの?」
言葉を遮るように強い口調で尋ねられ、思わず身体がびくついた。目を見張った私を見て、
「ごめん」
先輩は小さく言ってから、諭すように続ける。
「同じように思ったって? それ、もっと問題じゃない? やっぱり、代わりにしてるってことじゃないか」
先輩、やっぱり「代わり」っていう一点に拘ってる。
「蘇芳准が昔の恋人に惚れたきっかけは、空手の試合だったんだ。当時の蘇芳准は、ただ母親に強制されるがまま、空手部に属していて、部内では最弱だった。だけど、とある試合で、彼は偶発的に、格上の相手に勝利したんだ。たまたま試合を見ていた元恋人が何の気無しに声援を送ったんだけど、その声が、試合相手の意中の人物に似ていたらしい。それで相手が目を逸らしたちょうどのタイミングで、蘇芳准の技が決まった。偶然の偶然、ラッキー勝利ってやつ。……だけどそれで、蘇芳准は彼女を、勝利を導いてくれた運命の人って思うようになった」
先輩は一旦言葉を切ってから、小さく息を吐く。
「次は君。彼は洋裁部で、立場の弱い部員だった。初めは有名デザイナーの息子っていうので期待され、ちやほやされたらしいけど、腕がないのがバレて、すぐに失墜したんだ。ろくな物が作れないから、文化部マーケットでも、敷地の隅に追いやられ、適当に作ったスカートを格安で売ることになった」
「……適当って、確かに縫い方は荒かったけど、ちゃんとロンジーでしたよ?」
「だから、それが間違いなの。適当に作った、ただサイズが大きいスカートを、君がロンジーだと思い込んだ。さらには、ハンナが試着することで話題になって、売れ行きは良好。部内での地位も上がった。蘇芳准は君のことを、幸運を持ち込んでくれた運命の人って思うようになった」
「似て、ますね」
私が呟くと、先輩は深く頷いた。




