空気の読めない男
「先輩っ! どうしてそんな女とっ!」
「やっぱりいちゃつく気じゃん。ホント、やめてよね」
和歌山くんの悲鳴のような声と、毛利先輩のため息交じりの声が同時に耳に入り、私はごくりと唾を飲んでから、意識して出した低い声で言う。
「そういう冗談、やめてください」
私は昨日失恋したばかりなのだ。
なんてデリカシーがない。
怒りと羞恥で顔がカッと熱くなり、その後、ふと思う。
いや、もしかして、久世先輩はそれをわかっていないのかもしれない。彼は変人だし、ケーキのプレートを見たところで状況を察することができなかったのかも。
私がまじまじと先輩を見つめると、
「冗談じゃないよ。美波ちゃんがお菓子作ってくれるなら、僕、本当に君と付き合ってもいい。だって、美波ちゃん、好きな相手にはお菓子プレゼントしたいタイプなんだよね?」
彼は悪びれもなく、にこにこしながら、
「ほら、じゃあこっちおいでよ。ここ座って」
もう一度、自分の隣をポンと叩くと、ご機嫌に言う。
失礼極まりない申し出を、私が喜ぶとでも思っているらしい。
本当に、本当にデリカシーがない人だ。
何だか怒る気も失せて、呆れたような気持ちになりながら、私はため息をつく。
そもそも先輩たちを買収し、汚い手を使う人の言うことなんて聞きたくない。
久世先輩は胡散臭いし、彼以外は明らかに私を歓迎していない。
こんなストレスが溜まる場所で料理したら、何だかとんでもないものができあがりそうだ。
私にはお菓子作りをしたいし、その場所が必要だけど、別にここの部活である必要はない。
そもそも調理部が廃部になる前に、どうにかメンバーを集めれば、何の問題もないのだ。もし廃部になったとしても、調理部の代わりに新しい部活を立ち上げれば、最悪何とかなる。
「とにかく、この部活には入りません。私は調理室のピカピカキッチンで料理するんです!」
きっぱりと言って、そのまま部屋を去る私を、先輩は驚いたように見つめていた。
*
「美波っ! どういうことよ。説明しなさいっ」
教室に戻った私を迎えたのは、仲の良い女子グループの追求と、付き合いのない女子たちの冷ややかな視線だった。
「えっとね」
私が所属するのは、クラスでも一番目立ち、発言力のある小町ちゃんが中心となっている女子グループだ。小町ちゃんの意見はそのままクラスの女子たちに反映されるから、彼女を納得させることができれば、私は今までのポジションをそのまま維持することができる。だけどもし、反感を抱かれたら。
彼女が久世先輩の大ファンだというのは、女子の間では有名な話だ。
そんなに好きならアピールしてみればいいのにと、久世先輩のことを知らなかった時の私はよく彼女に話していた。(彼の変人っぷりを知った今は、もちろんそんなこと思わないけど)だけど、その話をするといつも、普段は強気な小町ちゃんは、「私なんかがそんなことできるわけないっ!」と別人のようにあわあわとしてしまうのだった。
どうしてあんな奴を、と思うが、小町ちゃんの崇拝っぷりを思えば、先輩を非難するのはもちろんダメだし、だからと言って、そこを抜きにして事実を語れば、自慢のように聞こえてしまうかもしれない。
私は少し黙って考えた後、小さく口にする。
「昨日、結城くんに失恋したんだ」
口にした瞬間、心がちくりと痛む。
だけど、思っていたより強い痛みじゃなかったことにほっとして、私は続ける。
「告白しようと思って、ケーキ持って会いに行ったんだけど、結城くんが他の子に告白するところに遭遇しちゃってさ」
私が結城くんを好きだったこと、その理由は、グループの女子は皆、知っていた。
恋話は女子の最大の関心事で、好きな男がいて、その彼について正直に話せる人物は、女子の間ではそれだけで重宝されるものだ。私が今、このグループ内で、割と誰からも好かれているのは、ある意味結城くんのおかげなのだ。
結城くんはそれほど人気がある男子じゃなくて(私にとっては、学校一の男の子だったのだけど!)、グループには私の他に好きな女の子もいなかったから、皆、私を応援してくれていた。
「ほら、あの、留学生の綺麗な子。私には勝てないよ」
そう言って、視線を伏せると、皆の視線は今までの嫉妬と期待の入り混じったものから、一気に同情的なものに変わる。
「えーっと、それは、しんどかったねぇ」
小町ちゃんはため息交じりに言って、慰めるように私の肩を叩く。
「てか、本当に、ハンナちゃん? ……結城くんが?」
彼女が疑わしげに言うのは、相手の女の子――ハンナちゃんというらしい――が、稀に見る美少女だからだ。
金髪碧眼の美人な彼女はヨーロッパからの留学生で、一年間だけこの学校に滞在するらしい。その美しさで男子の憧れとなっているが、いつもつんとしていて、誰とも親しくする様子がないため、高嶺の花扱いされている。小町ちゃんは、所謂モテ男ではない結城くんが、ハンナちゃんと付き合えるのは、おかしいと思っているのだろうけど、私はそうは思わない。
「うん、二人でじっと見つめ合ってて、いい感じだった」
結城くんは陽だまりのような男の子だ。
カッコいいわけじゃないし、頭が良いわけでもないし、口がうまいわけでもないけど、傍にいると、明るい気持ちになれる。暗くなった心を明るく照らしてくれる。
異国に来て寂しい思いをしていた女の子が、好きになる気持ちは、よくわかる。
「元気だしなよ。結城よりいい男なんていっぱいいるって」
いないよ、と心では思いながらも、どうにか笑顔を作って見せる。
「大丈夫、大丈夫。ハンナちゃんとはタイプ違うけど、美波も十分可愛いんだから」
「そうそ、合コンしよう!」
他の子たちも私を次々と激励してくれて、じんわりと心が温かくなる。
女の子は無意識に相手と自分を重ねてしまう生き物で、そのせいでさまざまな感情がせめぎ合うから、グループに所属するのは正直、面倒なことも多い。
だけど、その反面、落ち込んでいる相手には、皆、とことん優しい。
結城くんとその恋人の悪口を言ってまで、私を持ち上げてくれるのは、彼らを貶めたいわけではなく、あなたの味方だよ、というアピールなのだ。女子ならではの美しすぎない優しさは、私の心を明るくする。
「ありがと」
と、頷いてから、私は少しだけ、声を落とす。
「それでね、全部嫌になっちゃって、持ってったケーキ捨てようとしてたら、久世先輩がもらってくれたの。それで」
一旦言葉を切ってから、慎重に言葉を選んで、続ける。
「倶楽部に勧誘されたの」
思わぬ事態に困っていることをアピールするため、わざとらしいほどの渋面を作った。
「えええっ?」
「何で?」
どっとざわめいた辺りを見渡して、私は苦笑する。
「部室にキッチンがあるんだって。あの部活、活動内自由だし、好きに使っていいよってことみたい。今度、調理部が廃部になるから……気を遣ってくれたんじゃないかな。あ、もちろん断ったけどね。私にはもったいなさすぎる話だし」
嘘じゃない。
うん、嘘じゃない。
事実だけを認識し、すこぶる好意的に解釈すれば、こういうことになる。
もったいなーい! 口ではそう言いながら、どこかほっとしたような顔を見せる友人たちに笑顔を向けると、私は心の中で大きなため息をついた。
*
「なあ、百瀬。お前、もうお菓子、作らないの?」
昼休み、沙織と一緒に総菜パンを食べていると、結城くんがそう話しかけてきた。
クラスメイトから、今朝の事件(久世先輩乱入の一件だ)のことを聞いたのだろう。彼と私の接点については、女子グループの誰かが、おそらく私の失恋事情を抜きにして説明してくれたのだろうと思うのだけど、何て言うか、本人から直接言われると……
「え、え……あの……っ、うっ」
焦りすぎて、食べていたパンをのどに詰まらせた私の代わりに、事情を知っている沙織が代弁してくれる。
「作らない、じゃなくて、作れないの。調理部なくなったんだから」
「そっかあ、残念だな。百瀬、お菓子作るのうまかったのに。もう食べられなくなっちゃうのか」
眉尻を下げて、しょんぼりする結城くんに、沙織がきつい口調で言う。
「は? あんた、これからも美波にたかろうと思ってたの? 何様?」
「そ、そんなに怒るなよ。食べたいと言えば食べたいけど、そんなことより、お菓子作れなくなったら百瀬は落ち込むかなって、気になっただけだよ」
好意ではなく、純粋な親切心。
結城くんは、ただの友達でも普通に気遣える性格なのだ。
私は彼の、こういう善良なところが好きだった。
だけど今は……痛い。その優しさが、心に突き刺さる。
「あんたには関係ないでしょ。あっち行きなさいって!」
しっしっ、と犬でも追い払うように手を振っている沙織を「大丈夫だから」と視線で制してから、私は結城くんに笑いかける。
「心配してくれて、ありがと。大丈夫だよ」
それから少しだけ考えて、付け加える。
「あのね、結城くん。これからは、女の子の手作りお菓子なんて、もらっちゃダメだよ。……彼女、悲しむから」
結城くんは抜群に人が良いけど、少し、いや、かなり馬鹿だ。進学校である桜ケ丘高校にどうやって入ったのだろう? と疑問に思うレベルで。
女の子が手作りお菓子を渡す意味も気づかないし、それを周りがどう見るかもわかっていない。私は彼にとってはただの友達なんだろうけど、それでも「彼にお菓子を渡していた女」で、そんな私を気遣う彼に、恋人がどう思うかを考えることができていない。
「し、し、し、知ってるのか!」
真っ赤になって、叫ぶように言う結城くんを、沙織は相変わらず刺すような視線で見つめている。
「うん、ラブラブなとこ、偶然見ちゃったんだ」
うまく笑えてるかな?
少しだけ不安に思いながら、茶化すように口にする。
「そっかあ。ラブラブに見えたのか。良かった」
結城くんはしみじみと呟くと、キラキラした瞳で話し始める。
「彼女、照れ屋だから、どんな時もつんけんしてて、考えが読みにくいんだよな。俺、ハンナのこと好きになった日から、色々頑張ってたんだけど、最初はどれだけ話しかけてもろくに返事もしてくれないし、何を手伝っても嬉しそうにしてもらえないし、すごく、落ち込んだ。だけど突然、花をプレゼントしてくれたんだ!」
「…………」
「それで、実は俺のこと、憎からず思ってくれてるってわかったわけ。だって、自分で手塩にかけて育てた花だよ。彼女、園芸部だから。それから、園芸部の手伝いをするようになって、どんどん距離が縮まったんだよなあ。あ、で、例の花ね。もう花は枯れちゃったから、大切に部室で保存してるんだけど、今年の春は、その花をもう一度、きれいに咲かせて、彼女に見せようと思ってるんだ。ね、百瀬、どう思う? 彼女、喜ぶかな?」
「え、えっと」
期待一杯の笑顔で尋ねられても、こちらはもう、笑顔を取り繕う余裕すらない。
「どうして、部室に……」
求められている答えとは違うとわかったが、口に出たのは、無意識に湧いていた疑問だった。
「うち、貧乏だから、六人家族なのに、1LDK住んでんの。しっちゃかめっちゃかだから、家に置いてちゃ危ないんだよな」
明るい声で、シビアなことを話す結城くんにはっとして、慌てて謝罪する。
「ご、ごめん。お家の事情に口、突っ込んじゃって」
「いいよ、いいよ。それより、ハンナ、喜んでくれると思う?」
じっと見つめられれば、答える言葉など、一つしかない。
「……うん、よろんで、くれる、よ。ぜったい」
カタコトになってしまったのは、許してもらいたい。
楽しげにキャッキャウフフする二人を想像してしまい、死にそうになったのだ。
「そうだよな。むっつりしてても、内心では喜んでくれるって信じてる。てか今は、あの仏頂面も、つんけんした態度も、可愛くて可愛くて、たまらないんだよなあ」
ひび割れた心に、留めなく紡がれる惚気がどんどん染み込んでくる。ひりひりと痛む胸を押さえて、「うっ」と呻き声を上げた私を見て、沙織がはっとしたような顔をする。どうやら沙織は、突然始まった惚気に、呆気に取られていたらしい。
「告白して、頷いてくれた時には、運の全てを使い果たしたと思った。とにかく、ハンナは世界一可愛い、最高の彼女だよ!」
うっとりとした表情で結城くんが宣言した瞬間、パコン、と沙織が彼の頭に手刀を下ろした。
「いってえ!」
うずくまった結城くんを心配する心のゆとりは私には残っていなかった。