恋じゃないけど
「俺はお前と違う。『良い奴』でいたかったんだよ!」
しんと静まり返った教室で、口を開いたのは久世先輩だった。
「そうだね、僕と君は違う。俺は他人に良い奴だと思ってほしいとは思わない。どうでもいいからさ。だけど君は……」
視線を受けた黒瀬先輩は、泣き笑いのような顔になり……
「俺は、みんなが……好きだから」
絞り出すような声がその場に響き、応じるように、生徒たちが黒瀬くんの周りに集まる。
「……お前だけを頼って、悪かった」
「俺たちが追い詰めてたんだよな」
「黒瀬くん……私もふらふらしててごめん。本気で好きなのは、黒瀬くんだけだよ?」
そして、そんなしんみりムードを気にも留めずに、久世先輩はにこやかに笑う。
「じゃ、僕たちはこれで」
私はその後に続きながら、唇をぎゅっと噛みしめていた。
*
「先輩、どうして初めから、本当のこと話さなかったんですか?」
部室に戻ると、竜ちゃんと毛利先輩に、見回りを交代する。
お菓子の用意をしてソファーに座ると、私は久世先輩をじっと見つめて、強く尋ねた。
「最初から、全部わかってたんですよね?」
距離を詰めると、久世先輩はきょとんと首を傾げる。
「……美波ちゃん、何か怒ってる?」
「怒ってます!」
「どうして?」
「どうしてって……」
言葉を切ってから、小さく息を吐き、ゆっくりと続ける。
「だって、久世先輩が損しすぎだから……」
そうだ、先輩は何もわるくない。
わるくないのに……
「初めから、責められっぱなしで、まるきり損してたじゃないですか?」
今思えば、久世先輩は、黒瀬先輩の企みに気づきつつ、それに乗ってあげていたのだ。
そしてクラスの人たちは、黒瀬先輩の思惑通り、久世先輩に怒りを向けていた。
血も涙もない酷い奴だと思っていただろう。
情けないことに、私もそう思った。
違ったのに。
全然違うのに!
「まあね。別に気にしないから、いっかなーって思って。ほら、言ったでしょ? 僕、人のことどうでもいいし」
怒り心頭の私とは違い、久世先輩はあははと軽い調子で笑う。
「どうでもいいって……じゃあ、全てを暴いて、黒瀬先輩を悪者にしてもいいじゃないですか? お前のたくらみはお見通しだぜ! 恥ずかしいだろう、恥ずかしいだろう! 的なこと言っても良かったじゃないですか!」
「……美波ちゃん、君って実はSなの?」
「知りませんよ、そんなの! 私は、先輩が優しすぎるから……」
尻すぼみにそう言うと、久世先輩は力なく笑う。
「そうだな……どうでも良い相手だと、人は意外と善人になれるものだよ?」
そう言った久世先輩は驚くほど優しい顔をしていて……それが何だかとてつもなく寂しく思えてしまった。
「たとえばさ、テレビで戦争や飢餓に苦しむ、恵まれない子どもたちの特集やってたら、可哀想だな、助けてあげたいな、幸せになってほしいな、って素直に思えるだろ? 関係ないからこそ、純粋に、何の思惑もなく、簡単に幸せを願える。だけど、その想いには熱がない。彼らが悲惨な運命を辿ろうと、胸が痛むことのない程度の楽な想いだ。だけど、良いところも悪いところもある、人間らしい隣人が苦しんでいる時、同じように思える?」
久世先輩の言うことは、わかる。
もちろん、助けたいとは思うだろう。だけど、その人から意地悪されたことがあるなら、いい気味だと思うかもしれないし、自分が好きな相手だったら、何とかしたくて、したすぎて、胸が苦しくなると思う。
「だから、僕は簡単に幸福を願えるんだ。そして、その逆もまたしかり」
先輩が静かに言って、瞳を伏せる。
久世先輩は、黒瀬先輩を「英雄」にするために、自己を犠牲にして企みに乗ってあげた。
だけど一方で、先輩は善を罰し、悪を優遇する。
どうでもいいから、それだけの理由で、人の幸福を簡単に願い、人が不幸になるのを許容する。
「…………」
何も言えずに黙っていると、先輩がふと微笑んだ。
「美波ちゃんって、本当に良い子だね」
ぽんと頭に手を乗せらたら、何だか恥ずかしくてたまらなくて、誤魔化すように浮かんだ疑問を聞いてみる。
「でも先輩、どうして突然、全部をばらす気になったんです?」
最後は丸く収めたとはいえ、(実は私はそれもちょっと優しすぎる気がするのだ。だって黒瀬先輩
は久世先輩を利用しようとしてたのに、最後までいいとこ取りじゃん!)今まで企みに乗ってあげる気だったのを、いきなり覆した理由がわからない。
だけど、先輩は当然のように言った。
「そんなの、美波ちゃんを侮辱したからに決まってるじゃん」
「え?」
「あいつ、美波ちゃんのことを心がないって言っただろ? こおんなに優しいのにさ」
くしゃくしゃと、幼子にするように頭を撫でる久世先輩を、じっと見つめることしかできなかった。
「私の……ため?」
「そ、だって美波ちゃんは、僕にとって、どうでもよくない子だし?」
他人の全も悪も、決めるのは気分次第。
心が少しも動かされないという先輩が、私のためなら意思を持つ。
それって、それって……!
「……先輩にとって、私は一応……特別枠、なんですか?」
嬉しいと、素直にそう思った。
「もちろん、今更何言ってるの?」
「だって、侮辱されても……いつも通りお菓子は作れますよ?」
「んー、それはそうだけど……だけど、やっぱり嫌だよ。君が悪く言われるのはさ」
先輩は照れたように言って、ぎこちなく笑った。
朝から何度も見た、完璧な微笑みではない、少しだけ困ったようなその笑顔が何よりも嬉しくて、私は思わず立ち上がる。
「先輩……私、今から先輩の好きな、ダンプフヌーデルン、作ります。前にハンナちゃんに習ったので」
「え、いいの?」
「いいんです! 作ります!」
「ありがとう、美波ちゃん! 大好き!」
もう……お願いだから、近づかないで。
すごく良い匂いがして、くらくらするから……
必死の努力で頭を無にしていると、先輩が耳元で甘く囁いた。
「大好きな君にプレゼント。学際後にね、キッチンがリニューアル改装されるよ?」
「え?」
思いもしない情報にぽかんと口を開けると、久世先輩がにこりと笑った。
「きれいなキッチンじゃないと嫌なんでしょ? ここ、調理室よりだいぶ古いからきれいにしようと思って」
それは確か、倶楽部に入りたくなかった初めのころ、無理やりこじつけた「ここが嫌」な理由で……
「ずっと改装したかったんだけど、生徒会の許可がないとできないって言われてさ。今回、仕事を引き受けるご褒美に許可をもらった。美波ちゃん、これでずっと、ここにいてくれるよね?」
何それ、何それ、何それ……!
倶楽部活動の理由は、私のためだったってこと?
間近に見る微笑みは完璧で、人間離れした美しさだけれど、壁はもう感じない。
だって、そんなの一瞬にして崩れ去った。
理由は二つ、先輩にとって、私が壁の内側にある存在だから。
その理由が、お菓子を作れる女の子、だとしても、嬉しいものは嬉しいのだ。
そして……私にとっても先輩が、特別だから。
もちろんそれは、恋じゃないけど。…………恋じゃないけどね!




