先輩と真琴さん
「こんにちは―」
扉をそうっと開けると、和歌山くん……ではなく、竜ちゃんが、笑顔で私の元に駆け寄ってきた。
「み、美波」
ぎこちなく私の名前を読んでから、小さく息を吐いた後、少しだけ固い顔で、だけど明るく言う。
「買い出し、今日は行かなくていいって言ってたけど、本当に大丈夫?」
今日、久世先輩からリクエストされたのは、昔ながらの蒸して作る、卵プリンだ。あるものでできるから買い出しは不要だと、昼休み、竜ちゃんにはメールで知らせておいた。
「うん。大丈夫。今日って、使うもの少ないから」
「そっか、まあまた、必要な物あったら言ってくれ。すぐに買ってくるよ」
「ありがとう、竜ちゃん」
名前を呼んだ瞬間、竜ちゃんの頬はかっと赤くなり、それを誤魔化すように、ぷいとそっぽを向かれた。何だかくすぐったい気持ちになって、緩んでしまった頬を抑えた瞬間、
「竜ちゃん、ねえ」
ぼそりと声がした。
「ああ……久世先輩、こんにちは。今日はプリンですよね」
突っ込みを軽やかに無視して、私が微笑むと、彼もまた、にっこりと笑顔を作る。
「そうそう。口の中でとろける今どきの滑らかプリンもいいけど、僕は、ちょっと固めの、食べ応えのある方が好みなんだよねえ」
にこにこと笑う彼に、尋ねたいことがある。
だけどそれを聞くのは、ご要望通り、プリンを献上してからとしよう。
しっかりご機嫌を取って、素直に質問に答えてもらうためには、美味しいプリンを作らなければならない。
「よし」
腕まくりをして、呟くと、先輩が私を見て、くすりと笑った。
*
「さっすがあ、美波ちゃん。今日も美味しいよ~」
満面の笑みでプリンを頬張る先輩を見つめながら、私は意を決して口にする。
「先輩……先輩は、真琴さんのことを、知ってるんですよね?」
質問ではなく、確認だった。
先輩が「神様」について私に話してから、何度も何度も考えた。そして、確信した。アカネさんの言う「神様」の正体、久世先輩もあったことがあると言うその男が――私の良く知る先生、真琴さん、だと言うことを。
「真琴さん、か。随分、親しげだねえ」
私のあまりの気迫に強張った顔をしている竜ちゃんとは異なり、久世先輩はいつもと同じような、余裕たっぷりの完璧な笑顔を湛えている。
それに少しだけ焦りを感じて、私は早口で言う。
「先輩、しらばっくれないでくださいよ。私と真琴さんの関係、知ってるんでしょう?」
アカネさんの一件で、わかったことは色々ある。が、今、一番はっきりさせたいのは、これだ。先輩が私に「執着」している理由。
竜ちゃんによると、三年前、先輩が中二(つまり、私が中一だ)の時、彼は何らかの事件により、人に執着するのを辞めにした。彼が強く思う人物は、それ以前から付き合いがあるメンバーだけ。竜ちゃんに毛利先輩、結城くんとアカネさん。
それ以降出会った人物は、ハンナさんみたいに美人でも、有名洋菓子店のゆかりの子でも、彼にとっては、特別にはなりえない。
それは私も例外ではないはずで……それなのに、彼は私を自分のホームとも言える場所、倶楽部・シリウスに誘った。さらには、彼は私を大事にしている。私の立場を慮り、時には口説き、自分を私の特別にしようと画策する。
理由は、お菓子が作れるから。
間違いはないと思うが、これだけだと弱い。
先輩にお菓子を提供できる人なら、他にもいくらでもいるのだ。
私だけ、その理由として考えられるのは、ただ一つ。
私が作るお菓子が、真琴さんの味だから、だ。
先輩は、真琴さんのお菓子を食べたいがために、私を囲っている。
真琴さんには、十歳の時から十二歳の時までお世話になった。(つまり、私が真琴さんといたのは、「事件」で久世先輩が彼に会う前までということになる)
彼に不思議な力があることは、何となくわかっていた。
私もまた、彼に救われた一人だから。
――これでまたあの人に会える。この味を忘れかけて、会えないかもしれないと……。
あの時、アカネさんはそう呟いた。
ということは、彼女が「神様」に叶えてもらった望み、夫との再会は永遠に続くものではなく、「神様」との食事の味を覚えている間、という期限付きなのだろう。
事情は知らないが、先輩がアカネさんと同じように、真琴さんに何か、願いを叶えてもらっていて、その時、食事、いや、彼の場合、お菓子を一緒に食べたなら、叶えてもらった願いが消えないように、その味を忘れるわけにはいかないのではないだろうか?
人の記憶は永遠ではなく、それは、先輩みたいな完璧超人でも同じのはずで、彼がもう一度お菓子を食べたいと思ってもおかしくはない。
そんな時、彼は私のケーキを食べたのだ。
真琴さんのレシピの通りに作った、真琴さん味のケーキを。
先輩は驚いただろう。そして、どうしても、手なずけたいと思ったに違いない。そう考えると、ああまでして、私を探し、倶楽部に入れたのにも、納得がいく。
そして、あの、ジンジャーマンクッキー。
あれは……先生の十八番だった。
久世先輩はだからこそ、あれをリクエストし、その味を確認した。そして、確信した結果――私は見事に、彼が執着する、対象となったわけだ。
「別に、何を隠すつもりもない。僕は真琴を知ってるよ。三年前、とてもお世話になった」
さらりと言われて、思わず黙り込む。
お世話になった、ということは……つまり先輩も、真琴さんとの取引を後悔していないということだろう。
アカネさんは、自分にとって大事な「赤色」を失ったとしても、それが気休めだとわかっていても、夫と再開できるのを喜んでいた。
竜ちゃんの言葉を信じるなら、先輩が失ったのは……「執着」。
大事なものだと思う。
それ以上に大切なものなんて、思いつかないくらい。
先輩はそれを捨ててまで、何を望み、手に入れたというのだろうか?
「僕はね」
私の思考を読んだのか、先輩はにっこりと微笑んだ。
「弱い男だった。だけど彼のおかげで、強くなれたんだ。だから、その件に関しては……彼に非常に感謝している」
噛みしめるように言われた言葉が、頭の中に反響する。
ーー強く、なれた。
先輩は誰に執着できなくても、強い男になりたかったの?
本当に、それでいいの?
強くなくても、誰かを思っていたい。
私はそう思うのだけど……
少しの間、沈黙が落ちて、それから先輩はふっと、小さく笑った。
「それで、美波ちゃんは何が聞きたいの?」
久世先輩の、完璧な笑顔を見ながら、おずおずと口を開く。
「真琴さんと親しいなら、教えてください。彼は今どこにいるんですか? そして……いつ、ここに戻ってくるんですか?」
彼はここに戻ってくると、私に約束した。
だけど、それがいつなのか、私にはわからない。
早く、会いたい。一刻も早く、だ。
正直、待ちきれないのだ。
私にとって、真琴さんは特別な人だから。
ぎゅっと唇を噛みしめた瞬間、先輩が苦笑する。
「残念ながら、知らない」
確かに、彼がすぐにここに現れるなら、私のスイーツより、彼のお菓子を食べたいだろう。
先輩が私を求めるのは、あくまで、彼の代わりとして、なのだから。
「……そうですか」
私は大きくため息を付いてから、ぼそぼそと続ける。
「真琴さん、ここに戻ってくるって言ったんです。約束、してくれたんです。だけど、いつ帰るかは教えてくれなかった。別れてから、一度も連絡はありませんし、もしかしたら、約束、忘れてるのかも。もう二度と、会えないのかも……」
自嘲気味に笑うと、先輩は私をじっと見つめて、静かに言った。
「彼は、戻るよ」
小さいけど、確信に満ちた声だった。
正確に難はあれど、先輩はすごい人だ。
彼が言うなら、真琴さんは帰ってくる。
私はもう一度、彼に会える。
「ありがとう、ございます」
私が笑うと、珍しくもぎこちない笑顔を浮かべ、それから小さく息を吐いた。
三年前、先輩に何があったのか、私は知らない。どういう経緯で真琴さんと出会い、彼とどんな話をしたのかも、知らない。
だけど先輩は、真琴さんに会えると、断言してくれた。
それだけで、私は先輩のことを信じられると、そう思えた。
――思って、しまったのだ。




