沈黙
「じゃあ、美波ちゃん、また遊びにきてね」
帰り際、そう言って笑ったアカネさんに、私は意を決して声をかける。
「あのっ! 最後に、聞きたいことがあるんです」
こんな、扉の前で別れの挨拶してるときじゃなくて、もっと前に尋ねれば良かった。それはわかっているのだけど……どうも、最後の最後まで踏ん切りがつかなかったのだ。
「なあに?」
明るく尋ねるアカネさんをじっと見つめて、「よし」と心の中で気合を入れた。
「『神様』って、どんな人でしたか?」
予想外の質問だったのだろう。
アカネさんはしばらく目を丸くして固まった後、しみじみと言う。
「とても……そう、とてもきれいな、男性だったわ」
そこで一旦言葉を切ってから、申し訳なさそうに続ける。
「ごめんなさい……何だか記憶が曖昧で、よく思い出せないの」
「そう、ですか」
相手は「不思議な力」を持ち、「神様」と呼ばれるくらいの人だ。
簡単に情報が入ると思ってはいけないのかもしれない。
落胆しつつも、気を取り直して、私は尋ねる。
「覚えていることって、あります? 何でもいいので、教えてもらえると嬉しいんですけど」
アカネさんは少しだけ考えた後、
「私が彼に会ったのは二回だけ。ボル、シチ? とデザートをいただいたのは、二回目よ。一回目に会った時に、誘われたの。それで、一回目は、石井戸公園だった」
「石井戸公園、ですか」
私もよく知る、近所の大きな公園だ。
思わず、ごくりと、唾を飲む。
「そう。そこでね……ぼんやり池を眺めてたら……彼が声を掛けてくれたのよ。どうしてかは今でもわからない。間違いなく初対面だったのに、私は彼に、心の落ち込みを……そして、『願い』を話した。そうしたら、彼は……」
消え入りそうな声で言ってから、アカネさんは、辛そうな顔で、こめかみを抑える。
「ばあちゃん、大丈夫!」
「大丈夫ですか?」
私と和歌山くんが慌てて駆け寄ると、アカネさんはふんわりと微笑んだ。
「大丈夫よ、でも、ごめんなさい。やっぱり、よく思い出せないわ」
「いいんです、いいんです」
ぶんぶんと首を振る私を見て、彼女は一瞬、真顔になった後、ぽつりと言う。
「……生姜味のクッキー」
「へ?」
「クリスマスによく食べる、人の形をしたクッキー、あるでしょ? あれを、もらったわ」
ジンジャーマンクッキーだ。
一番最初に、久世先輩がリクエストしたお菓子。
先生がよく、作ってくれたもの。
「…………ありがとう、ございます」
丁寧にお礼を言ってから、私と和歌山くんは部屋を出た。
私たちが見えなくなるまでずっと、アカネさんは、笑顔で手を振ってくれていた。
*
帰り道、夕焼けで赤く染まったアスファルトを、和歌山くんと二人、並んで歩きながら、私はずっと「神様」のことを考えていた。答えが出るわけでもないのに、冷え冷えとした心で、悶々と悩み続けていたのだが、和歌山くんに突然「百瀬」と名前を呼ばれて、急に現実に引き戻される。
「わっ!」
思わず声を上げると、和歌山くんは私を窺うように見て、恐る恐る「あの、いいか?」と聞いてくる。長いまつ毛の影が、オレンジ色に染まった頬に落ちて、その横顔はいつも以上にきれいだった。
「うん、いいよ」
可愛いなあ、といつもながらのほのぼのとした気持ちになっていると、
「百瀬、改めて言いたいんだけど、本当にありがとう。ばあちゃんが元気になったのは、百瀬のおかげだよ。感謝してる」
突然、真面目な顔で言われて、深々と頭を下げられた。
「そ、そんな……ボルシチってわかったのは、久世先輩のおかげでしょ?」
照れくさくて、もごもごと言うと、彼は先ほどと同じ、真面目な顔のまま、ゆっくり首を振った。
「実際にばあちゃんから話聞いてくれたのは、百瀬だろ? ヒントくれた先輩にも感謝してるけど、百瀬にはそれ以上に感謝してるんだ。聞き上手な百瀬じゃなかったら、ばあちゃんもあそこまで色々思い出さなかったかもしれないし。それに……先輩が『神様』のこと、話してくれたのも、多分、百瀬のおかげだから」
「え?」
「先輩、ばあちゃんの気持ちを汲んで、『神様』のこと、今まで俺に話してなかったわけだろ? それを今になって話してくれたのは、多分……俺が、百瀬と」
彼は一旦、言葉を切ってから、覚悟したように、一気に言う。
「俺が百瀬と仲良くなって、色々気づいたことがある。それで、先輩、俺を認めてくれた気がするんだ」
「へ?」
予想だにしない展開に、思わず変な声が出た。
「俺さ、昔はいつも、守られてばっかりだった。すごく貧弱で、泣き虫で、弱虫だった。だから、守ってくれる強いものが好きだったんだ。守ってくれるばあちゃんとか、堂々としてる先輩とか。……今でも強いものが好きで、弱いものは苦手。自分と重ねちゃって、見てられない。いや、弱いもの虐め嫌だし、やめさせるけどさ……弱い奴と仲良くなるなんて、できないと思ってた」
尻すぼみに言ってから、和歌山くんは弱弱しく笑う。
「百瀬にきつく当たってたのも、まあ、一番は、先輩への悪影響あるんじゃないかって思ってたからなんだけど……何だかお前、先輩には反抗的なわりに、周囲の目、やたらと気にするし、弱っちい奴だって気がしてたっていうのも、あるんだよな。情けないけど」
私は基本的には低姿勢だ。
もちろん限界を超えた時には言い返すし、やり返すけど、人に嫌われたくないし、平穏な日々を愛しているから、限界までは必死に我慢する。プライドなんて、くそくらえ、喜んでへこへこしましょうってタイプだ。和歌山くんはきっと、そんな私の態度にイライラしていたのだろう。
「前に、先輩に百瀬と仲良くしろって言われて……その時、百瀬は弱いから嫌いだって、無理だって、言ったことがある」
そ、それはまた……見事な嫌われっぷりだったんだね。
ちょっとだけ、ショックかも。
「でも、百瀬は、全然弱くなかった。俺を助けてくれた。田中ってやつも、助けてくれた。それで俺、反省して、気づいたんだ。俺が『弱い』って思ってるものって、ただの俺の決めつけだったんだって。ーーだって百瀬は、人に気を遣いまくって、へこへこしてて、いかにも弱っちいのに、俺より強かったから。気づいたら、居ても立ってもいられなくなって、とりあえず、田中と話してみた」
「…………田中くんと?」
彼のことは、私もよくは知らない。
ただのクラスメイトで、挨拶以外の会話はしたことがない。
知っているのは、リリアたんファンだということだけだ。
「今までの俺なら、虐められてんのに反論もできないの弱弱しいって、嫌ってた男。だけど、話してみたら、弱くないところもあった」
和歌山くんは、にこりと笑う。
「あいつのリリアたんにかける情熱の強さは、俺もを圧倒するほどだった。どんな変な目で見られても、いやがらせされても、リリアたんへの愛を貫くって、力強く語ってた。本人から聞いたんだけど、持ち物ピンクに統一すんの、親からも良く思われてなくて、それを了承させるために猛勉強して、偏差値十以上も上げたらしい」
「それは、すごいね」
確かに強い。
精神力が。
「先輩にそれを話したんだ。先輩が俺に、『神様』のこと話してくれたのは、みっともなくて、弱いばあちゃんでも俺が受け入れられるって、確信したからなんだと思う」
和歌山くんは、ちらり、と私を見て、言う。
「だから、やっぱり、百瀬のおかげだよ」
彼の顔は真っ赤に染まっていて、それは、夕焼けのせい、なんて言葉では誤魔化されないくらいの赤で、言うなら、ボルシチのような、深紅だ。
「俺、だから……百瀬にすごく、感謝してる。お前が俺を、変えてくれたんだ」
肩をぎゅっと掴み、潤んだ瞳で私を見つめる和歌山くんは、相変わらず可愛くて、それでいて、カッコよかった。
華奢で、美少女顔で、ツンデレな彼のことを、カッコいいと思ったのは初めてだった。そして、そう思った瞬間、私の顔も、一気に熱くなる。
「……あ、あり、え、ええと」
ありがとう、そう一言、言えばいいだけなのに、上ずった声で言葉にならないうめき声を発していると、
「お前、顔真っ赤!」
自分のことを棚に上げて、和歌山くんが言った。
私は思わず突っ込む。
「竜ちゃんもでしょ!」
あ。
あ。
あああっ!
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙の後、
「あー、あの、えっと、ごめん。そう、ご、ごめんね。アカネさんと話しすぎて、口調がうつっちゃったみた」
「いいよ」
「へ?」
和歌山くんの顔の赤さは、もう限界点を突破している。
死ぬんじゃないかってくらい、真っ赤だ。顔も、耳も、首まで赤い。
「別にいい。友達だし、ばあちゃんのこと名前で呼んでるのに、同級生名前とか、変だし。だから、その……竜、ちゃん、で」
消え入りそうな声で言ってから、和歌山くん……いや、竜ちゃんは、突然、全てを振り切ったように、大声で宣言した。
「俺も、美波って呼ぶからな!」
「……うん」
その後、私たちの間には再び、沈黙が落ちた。
だけどそれは、やけにくすぐったくて、なのにとても幸せで、互いのことを思っていると分かる、温かい沈黙だった。




