祖母と孫
「美味しいわ。本当に、美味しいわ」
作ったボルシチは和歌山くんと二人で、アカネさんのところに持っていった。アカネさんはボルシチを食べるや否や、泣き笑いの表情でそう言って、私たちに何度も「ありがとう」と、お礼を言った。やがてスープを飲み終えると、彼女は満足げに微笑んで、
「これでまた、あの人に会える。この味を忘れかけて、もう会えないかもしれないと……」
そう呟いた瞬間、慌てたように和歌山くんを見る。
「大丈夫、もう、知ってるよ。じいちゃんと会ってることも、赤色が見えないことも」
和歌山くんが優しい声で言うと、アカネさんは驚いたように目を見張った後、
「ごめんなさい、ね」
と、震える声で呟いて、頭を下げた。
「別に、俺に謝ることないじゃんか」
和歌山くんが苦笑すると、アカネさんは申し訳なさそうに言う。
「みっともないおばあちゃんは、見たくなかったでしょ」
「そんなこと、ない」
静かに首を振る和歌山くんから視線を逸らして、アカネさんは訥々と話し始める。
「私は茜色の空がきれいな日に生まれたそうで、それで、『アカネ』なの。私は茜色の空が大好きで、見るたび、自分の名前が誇らしくなったわ。名前が『アカネ』だから、私のカラーは赤なのって、昔から、私はよく話してた。好んで赤い色の服を着たし、誰かからもらうプレゼントも、ほとんどが赤色だった。誕生日に、竜ちゃんがくれたハンカチやスカーフ、手帳も、全部赤だったわね。敬老の日に書いてくれたイラストも、赤い色を主体としたものだった。どれも今は、よく見えないの」
小さく息を吐いてから、アカネさんは続ける。
「あの人に会うのは、夢の中よ。だから、本当に会えているわけじゃないってっていうのは、流石にわかってるの。ただの自己満足、自分の記憶の中のおじいさんを、都合の良いように思い出して、動かしてるだけだってね。でも、それでも、嬉しいの。あの人が頑張れって言ってくれると、頑張ろうと思えるの」
死んだおじいさんとの再会。
不思議な力、というくらいだから、幽霊との対面、というくらいのオカルト話を想像していたけど、どうやら違うらしい。
アカネさんの望みを叶えるために「神様」が行ったのは、おそらく、暗示のようなものだろう。
そしてそれが、単なる気休めだということは、アカネさん自身にも説明してあるに違いない。
彼女はそれがわかっている。だけど、だからこそ、「みっともない」と感じたのだろう。
本当に幽霊と会えるのなら、「色」を捨てるくらいわけがないと言い切れるのかもしれない。
だけど、単なる気休めのために、自分の名前の由来になった特別な色を捨てることは、彼女にとって「みっともない」ことなのだ。
だけど、和歌山くんはにっこりと笑った。
「俺は、そっちの方が嬉しいよ」
彼はテーブルの上にある、赤色のマグカップを手に持ち、そっと撫でる。
「これ、俺が昔、ばあちゃんにプレゼントしたやつだよな」
薄紅色のマグカップの下の方には、鮮やかな赤色で、A・Wというイニシャルと、「いつもありがとう」というメッセージが印字してある。おそらく和歌山くんが、オリジナルで作ったものなのだろう。
いくら赤が好きだからといって、ここまで赤色ずくめにするなんて、何て言うか……単純すぎる和歌山くんらしいな、と思う。
「この文字もね、もう、読めないわ」
「だけど、これを渡した時、ばあちゃんはまだ文字が読めた。読んで、喜んでくれたの覚えてるよ」
「そうね。とても、嬉しかったわ」
アカネさんが頷くと、和歌山くんは嬉しそうに言う。
「俺がこれをプレゼントしたのは、ばあちゃんに喜んでほしかったからだ。ばあちゃんが大好きだから、笑顔が見たくて、そうしたんだよ。そして今も、俺は、ばあちゃんが大好きで、笑顔が見たいって思ってる。――だから、ばあちゃんが笑顔になれる方法が、じいちゃんに会うことなら、それが叶って嬉しいよ。本物のじいちゃんだろうと、ばあちゃんの自己満足だろうと、ばあちゃんが自分をみっともないと思っても、思わなくても、どっちだって構わない」
きっぱりと言い切ってから、和歌山くんは続ける。
「ばあちゃんが笑顔になれるなら、それでいい。俺にとって大事なのは、それだけなんだから」
アカネさんはしばらく呆然と和歌山くんを見つめていたが、ややあって、くしゃりと、顔中を皺だらけにして、笑った。落ちくぼんだ瞳には、きらきらと、宝石みたいな涙が溜まっている。
「竜ちゃん、ありがとう。あなたはもう、小さな小さな可愛い竜ちゃんじゃなくて、頼りになる立派な男の子になってたのね。本当に……いつの間に……すごいわねえ」
つらりと、頬に流れた涙を見た瞬間、アカネさんが、「みっともない」自分をこうまで和歌山くんに隠したがった理由が、初めて理解できた気がした。
和歌山くんは、アカネさんに育てられたようなものだという。手のかかる幼少期を一緒に過ごした彼女にとって、和歌山くんはあれこれ世話を焼き、可愛がり、守るべき存在だったのだろう。
だからこそ、自分がしっかりしなければ、という気持ちがあった。頼りがいのある、立派なおばあちゃんでなければ、と思っていた。「みっともない」姿を見せるべきではないと、見せてはいけないのだと、そう思い込んでいたのだ。
だけど、子供の成長は早いものだ。
今の和歌山くんは、アカネさんにただ守られるだけの存在じゃない。
彼女に弱い部分があったって、関係ない。それすら包み込み、守っていける強さを持っている。そしてそれは……
「立派かどうかはわかんないけど、俺をすごいって思ってくれるなら、それは、ばあちゃんのおかげだよ」
和歌山くんは照れくさそうはにかむと、途切れ途切れに続ける。
「ほら、さ。だって……こんな俺にしてくれたのは、育ててくれたのは、ばあちゃん、なんだから」
ふいと顔を背ける真っ赤な和歌山くんと、感極まったように言うアカネさんを見ていたら、思わず私も泣きそうになってしまった。
二人は思い合っている。
それが当然とばかりに、互いが互いの傍にいる。
これまでも、そしてこれからも、祖母が、そして孫が、どんなに変わっても、そこにある愛情は変わらない。そう、信じられる。
羨ましいと、心の底からそう思った。




