その男
「ヒント?」
目を見張った私をじっと見つめて、久世先輩はにっこりと微笑んだ。
「そう、ヒント、というか、アドバイスかな?」
「は、はあ」
曖昧に返事をすると、先輩は言う。
「君はさ、もっと自分の得意分野で勝負するといい」
「……得意分野、ですか?」
わけがわからず尋ねると、先輩は深く頷いた。
「そう。つまり、料理ではなく、スイーツに着目するべきだ」
いや、お菓子作りより、料理の方が得意なんですけど……
という抗議は一旦置いておいて、私は尋ねる。
「スイーツって、フルーツの砂糖漬けのことですか?」
「そうだよ。それ、よく思い出して」
今しがた、他でもない私自身が先輩に話したことだ。思い出すまでもなく、情報は全て、頭にある。黙り込んだ私を導くように、先輩は優しく尋ねる。
「何のフルーツかわかる?」
「……わかりません。甘くて酸っぱいって言ってましたけど」
甘い、のは砂糖だろう。
酸っぱい、ということは、柑橘系か何かだとは思うけど、それ以上はわからない。
何かの果実、と言っていたから、アカネさん自身もわからなかったのではないだろうか?
というか、フルーツの種類がわかったところで、料理のヒントになるとは思えないのだけど……
「大きさは?」
「一センチか、一・五センチくらい、でした」
このくらいよ、そう言って手を動かしたアカネさんを思い出して、ふと、考える。
柑橘系で、一センチか、一・五センチ?
カットしたものだとしても、そんなに細切れにするだろうか?
「そうだね、小さいね」
私の思考を読んだように先輩は微笑むと、さらに続ける。
「そのくらいの果実で、かつ、酸っぱいもの、君ならわかるよね?」
私は一つ頷いて、
「クランベリー、ですか?」
「おそらくは。それで、クランベリーの砂糖漬けは、どこの料理?」
「ロシア、です」
まだ作ったことはないけど、先生から教わったレシピの中にあったはずだ。
「それで?」
じっと私を見つめる先輩の意図は、一応はわかる。
「でも、デザートがロシアのものだからって、料理もロシアのものとは限らないんじゃないですか?」
ロシア繋がりで考えてみなよってことだろうけど、何だか釈然としない。
だって私は、トーストとみそ汁を一緒に食べる。
ハンバーガーを食べながら、日本茶を飲むこともあるし、ウナギを食べながら、コーヒーを飲むこともある。
「まあ、それはそうだけど」
先輩は一旦言葉を切ってから、片方の口角だけを上げて、皮肉げに笑った。
何だか先輩らしくない笑顔に少しだけ、動揺してしまう。
「少し想像してみて。『神様』は、こういう男だった、と。――彼はそう、食に執着する男だった。大雑把な性格で、ほとんどのことには無頓着なのに、『美味しいもの』には異様なこだわりがある。美味しいものを作るのには手間暇をかけるのを惜しまないし、雰囲気作りにも力を入れる。食べ物に関する何かをしている時、普段、ぼんやりとしているのが嘘みたいに、キラキラと目が輝くんだ」
先輩が語るその人物像が、あまりにも具体的に想像できてしまって、呆然とした。
その人のこと。
寝ぐせがついているのに直そうともしないことや、ぼんやりと過ごしているせいで店の看板に頭をぶつけてしまう様子、立ち食いしたあんまんが美味しくて、路上で熱く感想を語り出す姿を、鮮明に思い描けてしまう。
だって、その人はあまりにも……
「その彼がお客様を招く。お客様は体に不調があり、心に傷を抱えるご婦人だ。彼女を元気づけることを決めた彼は、最適な料理でおもてなしをすることにする」
体の不調、そう、アカネさんは当時、膀胱炎だったと話していた。クランベリーは確か、抗菌作用があって、尿路感染症に効果がある。そう、これは私が、「彼」に教えてもらったことだ。
「料理はロシア料理、それなのにスイーツはロシアのものじゃないなんて、あると思う?」
私は唇をぎゅうと噛みしめて、それから、絞り出すような声で言う。
「ありま……せん」
だけど、だけど……どうして?
「そうでしょ?」
したり顔で言う先輩の顔をじっと見つめ――
「先輩は『神様』を、知ってるんですか?」
私が口を開くより先に、そう尋ねたのは和歌山くんだった。
かなり、複雑そうな顔をしている。
「確証はないけど、そうだろうと思ってる人物がいるんだ。今まで話さないで……悪かった」
「いや、別に……構いませんけど……俺、『神様』にはむしろ感謝してるくらいだし、でも、あの……」
当事者に一番近い存在だ。事情を知らされていないのはおかしいと、私も思う。
「……僕にも関わりが深い奴なんだ。三年前の、あの件、のね。彼に関わった仲間として、アカネさんの気持ちがわかるから、言わなかった」
「…………っ!」
和歌山くんが目を見張る。
毛利先輩は全てを知っているのか、動揺した様子はない。
私も何が何だかわからないまま、二人の様子を見守ることしかできない。
「……ってことは、ばあちゃんも?」
「多分、ね。だけど、大丈夫。彼女は僕とは違うよ」
先輩は唇だけで微笑むと、私に向き直った。
「と、いうことで、話を戻そう。甘くて酸っぱい、牛肉と玉ねぎを使ったロシアのスープと言えば?」
私は少し迷いながらも、小さく答える。
「ボルシチ、ですか?」
「そう、ボルシチ」
ボルシチはロシアの伝統料理だ。
世界三大スープの一つであるこの料理は、甘くて酸っぱいというアカネさんの証言にぴたりと当てはまる。
日本で言うみそ汁のようなものらしく、具材は家庭によってそれぞれだと聞くが、必須なものが一つ、ビーツである。そして、そのビーツが入っているゆえに……
「あんなに真っ赤なのに、ビーフシチューと間違ったりしますか?」
「赤?」
首を傾げる和歌山くんに、私は言う。
「うん、ボルシチって、見た目が鮮やかな深紅色なの」
「……それなのに、ばあちゃんは、間違った?」
和歌山くんはぽつりと言った後、はっとしたように久世先輩の方に顔を向けた。
「そう、彼女はそれが、わからなかった」
淡々と、だけど、切なさを滲ませる声で、先輩が言う。
「そっか。だから、か」
呆然と呟く和歌山くんと、小さく頷く久世先輩、そして、静かに二人を見守る毛利先輩を順に見て、私は思わず呟いた。
「……どういうこと、ですか?」




