助けたのは君じゃなく
「…………は?」
思わず変な声が出た。
あんな風に助けてくれて、さらには私の代わりに怒ってくれて、それでどうでもいいはずがない。彼はきっと優しい人で、これは、優しいからこその照れ隠しだ。
うん、きっと、そう。
心の中でそう納得した瞬間、先輩はとんでもないことを口にする。
「僕が助けたかったのは……この、素晴らしく美味しそうな、ケーキだったのにっ!」
呆然とする私を無視して、そっと紙箱に手を伸ばし、蓋を開ける。
先ほど、私が一度落としたせいで歪んでいたケーキは、取り返しのつかないくらいぐしゃぐしゃになっていた。
「ごめんね。僕がもっと早く動けていたら」
吐息交じりに呟かれた切なげな言葉が、自分に囁かれたものだったなら、それだけで恋に落ちていたかもしれない。それくらい、色っぽい声だった。
だけど……だけど、彼が謝罪しているのは、私ではなく、私のケーキだ。
「彼女なんて抱きとめるべきじゃなかった。君そのものを、僕の手で守るべきだったのに」
「…………」
「ケーキは味もだけど、見かけも大事だ。だけど、君がこんな風になったのは、僕のせいなんだから、気にしないで。僕は気にしない。責任を取って、食べて、あげる」
とろけるような甘い笑みを浮かべる彼に、私は思わず突っ込んだ。
「いや、先輩が責任をとる必要はありません」
私が精魂込めて作ったお菓子を、どうして彼が食べることになっているのか。
まあ確かに、結城くんに食べてもらうことは叶わなかったけど、先輩にあげる義理はない。
「私が作った、私のケーキですし」
私が淡々と言うと、先輩ははっとしたように私を見る。
「……君が作ったの?」
「そうです」
「僕にくれ!」
先輩は私の肩をぐっと掴むと、顔を近づけて、懇願するように言う。
「その箱から溢れた香りを嗅いだ瞬間、運命だって思ったんだ」
「ちょ、ちょっと! 顔近いですって」
先輩の頬に手をやり、押しのけようと力を込めるが、びくともしないどころか、さらに接近してくる。
「ボールが飛んでくるのに気付いて、思わず身体が動いた。どうしても、守りたかったから」
掠れたような声と吐息が、耳朶に落ちてきて、身体がかっと熱くなる。
彼が欲しているのは私ではなく、私のケーキだとわかっているが、声そのものが甘すぎて、麻薬のように私の思考力を奪っていく。
「……お願い。頼むよ」
「あのっ、わかり、ましたから」
どうでもいいから、とにかく早く解放してほしい。
顔は熱いし、頭は真っ白、心臓は破裂寸前だ。
「あげます。あげますからっ! どうせ捨てるつもりだったし」
早口で言うと、彼は怪訝そうに眉を顰めた。
ケーキには「好きです」と書いたチョコプレートが乗っている。よほど鈍くない限り、事情はわかってくれるだろう。頼むから、これ以上、追及しないで欲しい。
「じゃあ、私、行きます。ありがとうございました」
私は頭を下げて、そそくさとその場から逃げ出した。
今日は何だか、逃げてばかりだ。
そんなことを思いながらも、結城くんの姿を盗み見たのが、随分昔のことのように感じられた。ついさっき見たばかりの衝撃シーンの記憶が既にぼやけているのは、久世先輩のインパクトが強すぎたからだ。
失礼すぎる先輩だったけど、ショック療法という意味では良かったかもしれない。
まあ、今後はもう、関わりたくないけれど。
久世先輩は、見ているだけで幸せな気持ちになるほど、圧倒的に美しい。
だから、見ているだけ、がベストなのだ。
彼の変人っぷりは、見かけの美しさと同様に有名で(おそらく多少の尾ひれは付いているだろうけど)ジャージ姿の彼も、久世先輩が女の子を庇ったことに驚いていたのだろう。
その日の夜、なかなか眠ることができなかった私は、明け方までずっと、久世先輩のことを考えていた。ぼんやりしていれば、自然と結城くんのことを思い出し、落ち込んでしまう。失恋以上のインパクトを持つ存在を、久世先輩以外に思いつかなかったのだ。
*
昼休み、昼食用の弁当も食べずに、机に突っ伏し、熟睡していた私は、クラスの女子の甲高い声で目が覚めた。
だけど、まだ眠い。
昨日、明け方まで起きていたから、朝から眠たくて仕方がなかった。学期始めに外れくじを引き当て、最前列になった席のせいで、居眠りすることもできずに、ずっと睡魔と戦っていたのだ。再び眠りの世界に入ろうとする私を止めたのは、
「み……美波」
親友の沙織の声だ。
「お願いだから、寝かせて」
食べるの大好きな私が、昼食を取る気もしないほどの眠気を、察してほしい。
「お休み」
尻すぼみに言う私の身体を、沙織は無言で強く揺さぶった。
空手部員の彼女からこれをやられると、冗談抜きできついんだけど。
「……ちょっと、何?」
沙織には、昨日の結城くんのこと、――私の失恋については話してある。私の恋を見守ってくれいてた沙織は、私をぎゅっと抱きしめて、「今日は何でも我儘を聞いたげる! 帰りに何でもおごったげる!」と全力で励ましてくれた。
その沙織が、今の私を無理やり起こすなんて……何事?
寝ぼけ眼を擦りながら、むくりと起き上がった私の前には、予想外の人物が立っていた。
*
「……久世、先輩?」
向けられた笑顔は、桜丘高校の王子様という呼称にふさわしく、キラキラと輝いていた。彼は神秘的な琥珀色の瞳で、じっと私を見つめている。
一気に目が覚めて、私は上擦った声で尋ねる。
「な、な……何か、ご用でしょうか?」
私が言うと、彼はとろけるように甘く微笑んだ。
「うん、君に会いにきた」
台詞だけで言えば、恋人間の愛の囁きだけど、絶対に裏がある。
昨日の彼の言動を思い出せば、そんなのすぐにわかるのに、少し掠れた声で囁くように言われたら、頭が痺れて、うまく思考が回らない。
「え、いや……あの……」
しどろもどろに口にすると、先輩はその場にしゃがみ込み、私に視線を合わせて、にこりと笑った。
「昨日はありがとう。僕、あんなに素敵な贈り物をもらったの、初めてだった」
贈り物、というのは、あのケーキのことだろうか?
彼が愛を囁き、私から奪い取った失恋ケーキ。
事実を語られても困るが、そんな意味深な言い方はしないでほしい。
現在、クラスにいる全員が私に注目している。
結城くんがまだ来ていないのが唯一の救いだけど(彼はいつも、チャイムぎりぎりに登校するのだ)、それでも、私にとって、とんでもない事態なのは間違いない。
入学してから今まで、私は努力を重ね、クラスのヒエラルキーの、中の上という絶妙なポジションを手に入れた。それなのに、トップの女子たちから嫌われたら、一気に最底辺に転げ落ちてしまう。美人な彼女たちは揃って面食いで、先輩にも興味津々だ。変人とはいえ、スペックの高い先輩には憧れを抱いているようだし、誤解されたら大変だ。
「あの」
「ねえ、美波ちゃん」
反駁しようと思った言葉は、先輩の言葉に遮られる。
「……何で私の名前を知ってるんですか?」
昨日、私は名乗っていないし、渡した「贈り物」にも、名前がわかるようなものは入っていない。
「調べたんだよ。君のこと、気になっちゃってさ」
彼は照れたように笑ってから、
「あのお菓子には、好きです、としか書いてなかったし……大変だったんだよ?」
少しむくれたような、子供っぽい顔で言う。
「君ってさ、すごく奥ゆかしいんだね」
まずい。
まずい、まずい、まずい。
久世先輩は天然なのだろうか、もしくは単なる嫌がらせ?
確かに好きですとは書いたけど、あれは先輩に向けてじゃない。先輩の言葉だけを聞けば、私が手作りお菓子を持参して、先輩に告白したように聞こえるじゃないか。
身の程をわきまえない奴と認識されたら、どうすればいいのだろう。
「ちょ……誤解されるような言い方はやめてください」
私が引きつった笑顔で言うと、先輩はくすくすと笑う。
「誤解って、僕は本当のことを言ってるだけだよ? 本当に、君のことが気になって、朝から調べたんだから」
何のために?
そう問おうとした瞬間、先輩は私の手首をぎゅっと掴んで、
「さ、行こう」
と、嬉しそうに言う。
彼はそのまま私を引っ張ると、教室の外に連れ出した。
扉を出る瞬間、私に向けられたクラスメイトの不躾な視線に、絶望的な気持ちになりながら、私は先輩に従うことしかできなかった。
「さあ、着いたよ」
連れていかれたのは、部室棟の一番奥。木製の引き戸には、「倶楽部・シリウス」と書かれたプレートがかかっている。
先輩の所属が「シリウス」という、何部かよくわからないクラブなのは、校内ではかなり有名な話だ。
正式な部活動として登録されていないこの「シリウス」の活動は、本当にさまざまで、横暴すぎる教師の実態を学校側に直訴したり、いじめられていた生徒を助けたりといった正義の味方のような行動もあれば、放送室を占拠し、昼休みに朗読劇を流したり、倶楽部のメンバー総出で女子生徒をナンパし続けたりと、はた迷惑な行いもある。
噂によると、突然行われる部員主催のイベントと、一般生徒からの依頼受託という二つの柱があるらしいが、依頼を受けてもらえるかは部長次第ということだから、単に、久世先輩とその仲間が好き勝手しているだけなのだろう。
と、ともかく今、大事なのは、ここがそのよくわからない、だけど生徒から多大な支持を寄せられている部活の本拠地なのだということだ。
「どうぞ」
久世先輩はそう言って、ノックもせずに扉を開いた。
「……いいん、ですか?」
思わずそう聞いたのは、この部屋に入るのが、いかに難しいかを知っていたからだ。
久世先輩もその仲間も、校内では有名人で、……まあ、色々良くない噂もあるが、人気は高い。お近づきになりたい生徒たちはこぞって「シリウス」に入りたがっているのだが、この部活はどうしてか部員を募集していないのである。
入部する方法はただ一つ。
久世先輩のスカウトだ。
彼の許しがなければ、部の一員になれないのは当然、この部屋に入ることも許されない。
「いいよ。どうぞって言ってるじゃん」
先輩は声を出して笑い、「何当然のこと言ってんの?」とおかしそうに言うが、私にとっては大事件だ。
部屋に招かれたなんて知られたら、何人の女子から羨ましがられ……嫉妬されることか。
優越感とか、嬉しさとかを感じるより先に、そう思ってぞっとした。
絶対にばれないようにしなければ。
「ほら、早く入りなって」
先輩は、キョロキョロと辺りを見回し、立ち竦む私の背中を押すと、自らも部屋に入り、嬉しそうに言った
「ようこそ。倶楽部・シリウスへ」