馬鹿
「百瀬、今日は本当にありがとう」
帰り道、和歌山くんが、妙にしみじみとそう呟いた。
ぶっきらぼうに言われたり、照れたようにぼそぼそ言われたりすることはあったけど、こんな風に穏やかな空気で言われるのは初めてだ。
「ううん、役に立てなかったし、申し訳ない。ごめんね」
気になることは尋ねてみたけど、手がかりは得られなかった。
「それでも、ばあちゃん、嬉しそうだったから」
和歌山くんははにかんで言った後、付け加えるように言う。
「俺、女の子の友達いなくて、連れてったこともないからさ、嬉しかったんだと思う。ばあちゃん、女の子が好きなんだ」
可愛い、可愛いと連呼されたのを思い出して、何だか照れくさくなる。
それにしても、アカネさんは本当に良い人だった。
私には祖母がいないのだが、もしいたとしたら、あんな感じだったのかもしれない。
「あのさ、私も楽しかったよ。来週末もだけど……これからたまに、遊びに行きたいな。久世先輩たちもたまに来るんでしょ? 迷惑じゃなかったら、その時私も誘ってくれると、嬉しいな」
「うん、ありがとう」
穏やかな顔で隣を歩く和歌山くんの顔をちらりと窺って、私はからかうように言う。
「こちらこそ、ありがとう。友達って言ってくれて、嬉しいよ」
疑いが晴れつつあるのは感じていたけど、言葉にして信頼を表してもらうのは、やはり言いようのない嬉しさがある。
「あ……それは、その」
和歌山くんは言いよどんでから、観念したように息を吐いた。
やがて私をじっと見つめて、申し訳なさそうな顔で言う。
「今まで疑って、悪かった」
丁寧に頭を下げられ、慌てたのは私の方だ。
「いや、別に、もういいよっ! それより、理由を聞かせて? どうしてそんなに不審がってたの? 前にも聞いたけど、よくわかんなかったから」
執着がどうとか、言っていた気がするけど、既にあまりよく覚えていない。
和歌山くんは少しだけ考えるような素振りを見せてから、ぎこちない口調で話し始める。
「久世先輩って、人に執着しない性質だろ?」
「うーん、直接関わるまでは、そう思っていたけど……」
あの渡り廊下で先輩とぶつかる前まで、私は先輩のことは、遠目に見るくらいで、噂話でしか知らなかった。そしてその噂話の内容はというと、良いものと悪いものが大体半分ずつで、そのどちらもが、先輩の「あっさりとした」ふるまいに由来するものだった。
たとえば、良いものの例を上げると、「部活内での虐めから救ってくれた、それなのに、恩着せがましくもなく、お礼ももらわなかった」というもの。そして、悪いものはというと、「口説かれてデートしてXXXまでいったのに、付き合ってはくれなかった」というもの。
だから私も今までは、和歌山くんの言った通り、人にも物事にも「執着がない」、つまり、興味が薄いのだろうと思っていたのだ。思い付きや、何となくで、行動しているだけ。人助けも、女の子を口説くのも、特別「したい」と思っているわけではない。彼は能力があり、大抵のことは楽々こなせるし、完璧な容姿と魅惑的な雰囲気から、望まずとも人から好かれてしまう。だから、強く欲しいと思うことがないのだろうと、そう思っていた。
だけど、彼と過ごす時間が増えた今、印象はがらりと変わった。
「執着っていう言葉が適切かはわかんないけど……和歌山くんとか、毛利先輩、それから、結城くんとかは、ちゃんと向き合ってると思う」
思い付きや何となくではない、先輩の意思、それが確かに感じられる。
毛利先輩とぐだぐだ喋るのも、和歌山くんをからかうのも、先輩がしたいと思ってしているのだとわかる。傍から見ていて、明らかに態度が違うのだ。
結城くんのことだって、私との約束があったことを考慮しても、彼じゃなければ、先輩はわざわざ行動を起こしはしなかったのではないかと思う。
「それは、先輩が中二になる前に、出会ってたからだ」
「中二?」
「あー、それは、その」
和歌山くんは少し迷ったように逡巡し、それから、心を決めたとばかりに、小さな、だけどはっきりした声で告げた。
「先輩、中二の時に色々あってさ、それで、人に執着しなくなったんだ。それまでは、頼られれば面倒見るし、頼られなくても気にかけてくれる、スッゲー良い先輩だったんだぜ」
それは暗に、今は、良くない先輩だと言っているに等しいと思うのだが。
「だけど、あの事件のせいで……先輩、人を信じるのが嫌になったんだと思う」
ぽつりと、小さく漏らしてから、和歌山くんははっとしたように私を見る。
事件のことは追及するなと、そういうことだろうか。
わかってるよ、と苦笑すると、彼はほっとしたように息を吐いた。
「とにかく、今の先輩は、人に執着しないようにしてる。それなのに、お前を部に入れるなんて、おかしいと思ったんだ」
確かに、和歌山くんの言う通りなら、先輩の数々の行動に説明がつく。
あのあっさりした性格。
噂話を気にもしない、飄々とした態度。
倶楽部・シリウスに入る方法が勧誘のみであること。
結城くんの件で、ハンナさんには(口説いたくせに)すげない態度だったのに、結城くんにはやけに入れ込んでいたこと。
それを鑑みると、「私」の存在は、確かに違和感がある。
だけど、それは……
「お菓子、作れるからでしょ?」
そう、当初の彼は、全く持って、執着していなかった。
何せ、膝小僧を擦りむいた私を無視して、落としてしまったケーキの心配をしていたくらいだ。ああ、思い出したら、かなり腹立たしい。
先輩が私に興味を抱いたのはお菓子を食べてからで、それはつまり、私ではなく、私の作るお菓子に興味があるってこと……って、あれ? 何だか腹立たしい通り越して、悲しくなってきた。
「だけど、お菓子作れる奴なら、他にもいる。てか、あの『グランダジュール』とか『ポルボロン』の娘とも付き合ってたことあったけど、倶楽部に入れようとはしなかったぞ。それどころか、すぐに別れてた」
彼が出したのは、近隣で有名な洋菓子店の名前だ。
うちの学校に子供が通っていることは知っていたけど、久世先輩、付き合ってたのか……。
「百瀬のお菓子、確かに美味しいよ。だけど、あいつらが持ってきたケーキと比べて、どっちがうまいってことはない。まあ、好みの問題っていうのはあるだろうけど……それでも、どう考えても、百瀬だけ異常に特別扱いだ。だから、お前が……先輩に何かしたんじゃないかと」
和歌山くんが言いたいことはわかる。
私だって、自分の作るお菓子が世界一、なんて思っていないし、むしろ、有名店のケーキと比べるなんておこがましいとすら感じる。
なのに先輩は、私だけを、倶楽部に入れた。
しかも、周囲を懐柔し、逃げ場を失くして、囲い込むという、周到な方法で。
さらには、そのために、多分、私を気遣っている(勘違いでなければ、私が非難されないよう、巧妙に立場を作ってくれている)。
何と言うか……執着、しまくりだ。
丁寧に説明されれば、和歌山くんが疑う気持ちもわかってしまった。
「変、だよね」
ぼそりと呟いてから、慌てて言う。
「だけど、本当に違う。廊下でぶつかったのも偶然だし、その時ケーキ持ってたのも偶然だし、倶楽部に誘われて心からビックリしたから」
「今はもう、わかってる。百瀬のこと、信じてるよ」
「良かった」
胸を撫でおろす私を見て、和歌山くんは小さく笑う。
「もう疑えない。百瀬って、昔の先輩にちょっとだけ、似てるんだ。昔、俺がばあちゃんのことで虐められてた時、庇ってくれたのは、先輩だった」
そう言えば、結城くんも言っていた。
昔の久世先輩は、真面目で優しくて、頼りがいがあって、誰からも好かれる人だったって。
私にはどうしても、そんな先輩、想像ができないけど……
「昔の先輩って、どういう感じだった?」
「うーん。すごい人だった。とにかく、カッコいい。まあ、基本的なところは今と変わらないけどな。あと、何て言うか……」
和歌山くんはちらりと私を見ると、
「先輩に話したらだめだぞ」
と、怖い顔で前置きして、
「…………ちょっと、馬鹿だった」
小さな声でそう言った。
そして、思わず吹き出してしまった私を見て、ぽん、と手を打った。
「あ、そこが百瀬に似てるのかも」
おい。




