第一歩
数日後、結城くんが「うまくいった!」という報告と共に、先輩と私の元に、ハンナさんを部室に連れてきた。毛利先輩と和歌山くんは、ちょうど買い出しに出かけていて、部屋には私と久世先輩だけ。お茶とお菓子で出迎えると、二人は並んでソファーに座る。
結城くんはもちろん、ハンナさんも仏頂面ではあったが幸せそうで、だけど、久世先輩と目が合った瞬間、眼光に鋭さが増した、気がする。
「やあ、ハンナ、久しぶり。結城翔太を粗末に扱ったら、僕が許さないからね」
かつて口説いた男が何を言うか、と突っ込みたくなる台詞を吐く久世先輩に、結城くんが苦笑しながら、切り返す。
「先輩こそ、他の女の子みたいに、百瀬を扱わないでくださいよ。俺の大事な友達なんだから」
一瞬の沈黙の後、
「違う!」
叫んだのは私だ。
「結城くん。誤解してるでしょ? 私と先輩は、ただの他人だから」
「他人っていうのは、酷いなあ。もっと密接な関係だろ」
背後からそっと擦り寄らせて、ぞくりと背筋が泡立った。
「……先輩、冗談言わないでください」
低い声で呟くと、先輩は私からぱっと距離を取り、両手を上げて、アハハと笑う。
「彼女は僕にとって、大事な専属パティシエだよ。粗末に扱ったりなんかしないさ」
ね、と笑顔を向けられて、私はおずおずと頷いた。
「まあ、はい。良くしてもらってると、思います」
使い勝手のいいキッチンを提供してもらっているだけじゃなく、材料まで用意してもくれている。食べているのはほとんど先輩だから、当然と言えば当然だが、お菓子作りの良い練習の場になっているのは、確かなことだ。
「ほら。それに、彼女には振られてるんだ。僕みたいなのはタイプじゃないんだって。他にお目当てがいたらしいよ。だから、他の女の子みたいにってのは、できないんだ」
てへへ、とばかりに舌を出す先輩。
ちょ、ちょっと待ってよ。そんなこと言って、勘づかれでもしたら、どうするの?
せっかく友達路線を歩き始めたのに、気まずくなったら悲しいじゃない!
恐る恐る、結城くんを見ると、彼は驚いたように目を見開く。
「嘘でしょ!」
これって……や、やばい?
「先輩を振る女の子なんているんですか! 先輩よりいい男がいるはずないのに!」
「……」
「……」
少なくとも、この場に二人、いる。
私とハンナさんは同時に押し黙り、ややあって、私たちは同時に噴出した。
彼女の、初めて見る笑顔に、思わず見惚れる。
「ハンナ!」
結城くんも驚いていることから察するに、よほどレアなのだろう。
「わあ、君って、笑うとさらにキュートだね!」
彼氏の前だと言うのに、ためらいなく甘い言葉をかける久世先輩を無視して、ハンナさんは私の手を取る。
「わたし、あなたにかんしゃしてる。ありがとう」
たどたどしい口ぶりでそう言うと、彼女は照れたようにはにかんだ。
「いえ、あの、こちらこそ」
「これ、おれい。たべて」
ずいと差し出されたのは、ホーローの大きな保存容器。
視線で、開けて、と促され、蓋を取ると、
「うわあ、可愛い」
中には、真っ白のババロアのようなお菓子に、黄金色のソースがかかった丸いお菓子が入っていた。それを見た先輩が、隣で叫ぶ。
「ダンプフヌーデルン!」
何かの、呪文?
怪訝な顔で見つめると、先輩は満面の笑顔で話し始める。
「小麦粉やバター、卵、砂糖なんかを混ぜた生地に、プルーンジャムを入れ込んで、けしの実砂糖やバニラソースをかけて食べる、ドイツの郷土菓子だよ。噛めば噛むほど甘みがじわーっと染み出てきて、しっかりした食べ応えがある、満足感たっぷりのお菓子だよ。焼き菓子なんかと違って保存しやすいものじゃないから、日本ではなかなかお目に掛かれないんだよなあ。見たの、久しぶりだよ」
食べたいなー、食べたいなー、と先輩は視線で訴えてくるが、ハンナさんの許可がなければ、流石に無理だ。ちらりとハンナさんを窺うと、彼女はこくりと頷いて、
「これ、みなみさんに、つくってきたの」
と、堂々と口にした。
「ってことは、彼女と仲良しの僕も、食べて良いよね。さあ、美波ちゃん。半分こしよう」
どこをどうまとめたら、そういうことになるのかはわからないが、先輩がご機嫌に言って伸ばした手は、ぱちん、とハンナさんに振り払われる。
「わたし、あなた、きにくわない。これはぜんぶ、みなみさんのもの」
「…………」
完全に、嫌われてる。
強張った顔の先輩がこちらを見るが、私にはどうしようもない。
「ハンナさん、ありがとう」
とりあえずと、ハンナさんにお礼を告げると、彼女は両の手を後ろで繋いで、もじもじしながら、小さく言う。
「わたし、あなたとおともだちになりたい、な」
「えっ!」
クールと噂の彼女が、こんなことを言うなんて!
「ハンナ、日本人に対して、不信感があったらしいんだけど、俺と仲良くなったのをきっかけに、打ち解けてみたいと思い始めたんだって。百瀬は、俺の知ってる中で一番良い奴だって話したら、友達になりたいって言い出してさ。お願いしてもいい?」
彼女をフォローするように前に出る結城くんは、もうすっかり、ハンナさんの彼氏って感じだ。そう思っても、それほど悔しくならないのは、やはり私は、結城くんへの思いを吹っ切りつつあるということなのだろう。だとすれば、
「いいよ。喜んで」
ハンナさんと友達になるのに、何の障害もない。
私が頷くと、ハンナさんはぎゅうと抱き着いてきた。
何て言うか、すごく可愛い。結城くんの気持ちがわかる、かも。
ほんわかした気分になりながら、ふと横を見ると、ダンプフ……何だっけ? をじーっと見つめながら、暗いオーラを纏っている先輩が目に入る。
何ていうか、もう、仕方がない人だなあ。
はあ、とため息をついていると、ハンナさんから腕を引っ張られる。
「みなみ、ともだちのしるしに、おはなあげる。とっておきのがさいてるから」
嬉しそうに駆け出すハンナさんの背中を追いかけながら、自然と笑顔になる。
今なら多分、彼女と結城くんがいつまでも幸せにいられますようにと、心の底から願うことができるだろう。
*
「あー、やっぱり、ハンナはだめだ。君の方が断然、いい女だね。結城翔太は選択を誤った」
ハンナさんと別れて、部室に戻ってくると、先輩はちらと私を見て、しみじみとそう言った。どうやら結城くんも、帰ったようだ。
「何か、素直に喜べません」
「えー、素直に喜びなよ。君は今のところ、この学校の誰よりも、いい女だよ」
肩を竦める先輩に、言ってやりたい。
お菓子を作ってくれるか、くれないか。
そんな基準で、いい女かどうかを決める男から、いい女なんて言われたくない。
「何せ僕が今、一番付き合いたいって思う女の子なんだから」
先輩はふわりと笑って言いながら、私の髪の毛をひと房救い取ると、そっと口づけを……
「うわあ!」
後ろに飛びのくと、先輩は「くくくっ」と喉の奥で笑った。
「ちょ、先輩ってホントに日本人ですか!」
「うーん、一応、国籍はね。幼い頃は色んな国に住んでたから、文化は多々染みついてるかも。あと、母はイギリスとのハーフで、父は中国とのハーフ」
何と言うか、複雑だ。
だけど、彼が何人であれ、あんなキザな行動が不思議と似合ってしまうのだから、何だか悔しい。
「ねえ、結城翔太も言ってたけど、僕よりいい男なんていないよ。付き合ってみたら、わかると思うけど」
ぱちん、とウインクする彼は、本当に、本当にカッコいい。
確かに、外見だけで言えば、先輩よりいい男はいないかもしれない。
だけど、
「先輩のこと、やっぱり全然、タイプじゃないですから」
私がため息交じりに言うと、
「あーあ、また振られちゃった。悲しいなあ」
先輩はひょいと肩を竦めながら、ちっとも悲しくなんかなさそうに言う。
「だけど、前言ったことは……訂正します。先輩はタイプじゃないですけど、嫌な奴ってわけじゃありません。少しはいいところも、あると思います」
女性に対する基準は最低だけど、同性への友情はある、のだろう。
先輩は結城くんのことを心から思っているようだったし、その気持ちを結城くんも受け取っている。
和歌山くんがああも先輩を慕うのも、毛利先輩が何だかかんだ言いながら、先輩と一緒にいるのも、きっとそこに「友情」があるからだ。
私にはまだないそれを持ちえる彼らが羨ましい、なーんて、少し、ほんの少しだけだけど、そんなことを思っていると、先輩が何食わぬ顔で、ハンナさんのくれたお菓子の箱を手に取った。
「ダメです。それは全部、私が食べます」
先輩に友情があるのと同じで、私にも友情がある。
友達となったハンナさんを裏切ることはできない。
「少しだけ、いいだろ? 僕のこと、いいところもあるっていったじゃん! あれ、食べて良いですよって、振りなんじゃないの?」
眉根を下げた、情けない顔でこちらを見つめる先輩からそっと目を逸らし、私はぼそぼそと言う。
「……だから、それはダメだけど、今度、私が変わりにドイツ菓子、作ります。週末、ハンナさんの家に遊びに行く約束をしました。レシピ、教えてくれるって言ってたし……私が作ったのなら、好きなだけ、食べていいですよ」
それが、折衷案だ。
「美波ちゃん」
先輩が、ふと真剣な顔になった。
「何ですか?」
「大好き。やっぱ、付き合おっか?」
「勘弁してください」
これは、先輩との友情を培う第一歩だ。
多分。




