百瀬美波の失恋
「……え?」
間抜けな声で呟いて、持っていた紙箱を地面に落とした。
ボトリ、という鈍い音が聞こえて、おそらくそれは中に入っていたケーキが潰れる音で、だけど全然、そんなこと気にならなかった。いや、正確に言うと、違う。気にする余裕がなかった。
目の前の光景が、余りに衝撃的すぎたから。
夕暮れで赤く染まった中庭には、片思いをしていた結城くんと、金髪碧眼の、綺麗な女の子が、所在なさげに立っていた。結城くんが照れくさそうに何かを言うと、彼女は戸惑ったような顔をしながらも、小さく頷く。結城くんはパッと顔を輝かせ、少しだけ逡巡した素振りを見せた後、彼女をそっと抱きしめた。真っ赤に色づいた紅葉の下で、二人はじっと見つめ合っていた。
声は聞こえなかったけど、二人の間にどんなやり取りが交わされたかは、嫌でもわかる。
結城くんは女の子に好意を告げ、彼女はそれを受け入れたのだ。
告白するつもりだった相手が、自分以外の人に告白する。
まさに悪夢としか言いようのないその現場を目撃したのは、単なる不幸か、不幸中の幸いか。
はっきりと振られていないから、これからも友達でいられるけれど、鎮火のきっかけを失った恋の炎は心の中で燻り続け、私はいつまでも苦しむことになるだろう。
小さく息を吐いてから、下を向く。
灰色のアスファルト、その割れ目から力強く伸びる雑草、真っ直ぐ並んで歩く数匹のアリ、ひしゃげてしまった白い紙箱。
ゆっくりその場にしゃがみ込み、紙箱を拾う。
結城くんと親しくなったのは、お菓子がきっかけだった。
入学してすぐ調理部に入った私は、放課後は大抵お菓子を作っているのだが、四月のある日、私は作ったクッキーの全てを焦がしてしまうという大失態を冒してしまった。
捨てるのもったいないから仕方なく持ち帰ったそれを、教室でぼんやりと見つめていると、いつの間にか教室にいた結城くんが、
「百瀬、それ、食わないの?」
と、話しかけてきた。
サッカー部の彼は部活が終わって教室に戻ってきたタイミングだったらしく、物欲しそうにじーっと、こちらを見ていた。
「多分、美味しくないし」
苦笑いで答えると、彼はぶんぶんと首を振って、「うまそうだよ!」と断言した。
「焦げてるけど、良かったら」
迷惑じゃないかな、と思いながらおずおずとクッキーを手渡すと、彼は勢いよくクッキーを食べてから、
「うまいっ!」
と、顔をくしゃくしゃにして笑った。
その彼の笑顔を見て、私は一目で恋に落ちたのだ。
その日から、私は結城くんに食べてもらいたいと思って、お菓子を作るようになった。出来がいいのも悪いのも、程度の差あれ、彼はどんなお菓子も嬉しそうにしてくれたけど、中でも生クリームを綺麗に塗ったショートケーキは「最高。こういうケーキらしいケーキ、大好きなんだ」ととびきりの笑顔で絶賛してくれた。
彼を好きになってから、もう半年。
今日は、今までで一番上手に作ったホールケーキを渡して、彼に思いを告げようと思ったのに……
思わず瞳が熱くなって、目頭をぎゅうっと指で押し付ける。
そのまま目元をゴシゴシ擦りながら、その場を逃げ出した。
こんな、覗き見のようなことをしていたなんて、結城くんに知られたくない。もう恋は叶わないとわかっていたけど、それでも彼から嫌われることだけは避けたくて、そんな自分が惨めでたまらなかった。
走って、走って、渡り廊下の真ん中まできたところで、ふと足を止める。
ここから外に行って、少し歩いたところに、ゴミ捨て場がある。
失恋ケーキなんか食べる気にもならないし、ここで捨ててしまおう。
少し勿体ない気はするけれど、私の思いを詰め込んだこれを捨てたら、ぐちゃぐちゃな気持ちも少しはすっきりするかもしれない。下駄箱まで行くのは面倒だし、少しの距離だから、上履きのままでいっか。
そう思って、一歩、足を踏み出した時だった。
「――危ないっ!」
何が起こったかわからないまま、衝撃が落ちてくる。
そのまま、温かい何かに包まれて、視界がぐるりと反転し、アスファルトの冷たさを手足で感じる。
転んだのに、痛くはないのは……って、あれ?
状況を把握できず、呆然とすること数秒。
「…………っ」
呻くような声にはっとして、私の身体にまとわりついているそれを、――いや、その人を見る。
「わっ!」
立ち上がりながら、叫んでしまったのは、目の前にいる彼が、校内屈指の有名人であることを思い出したから。
二年生の、久世忍先輩。
頭が良く、運動もできて、性格は……ちょっとアレだけど、何より美しい人。
桜丘高校の王子様、なんて呼ばれている彼を間近で見るのは初めてだったけど、彼は評判通り、おとぎ話に登場する王子様のように、浮世離れした雰囲気の美形だった。
色素の薄い髪の毛はふわりと風に揺れ、琥珀色の瞳が細められている。白い肌には長いまつ毛の影が落ちていて、男の人に言うのも変かもしれないが……すごく綺麗で、何だかとても色っぽい。
一瞬、全てを忘れて、彼に見惚れ、その後、直前まで彼に抱き込まれていたことを思い出す。
一気に顔が熱くなり、
「……あっ……あの」
上擦った声を出した私を見て苦笑してから、彼はふと視線を落とした。
「大丈夫じゃ、なかったね」
重々しい声で語られたことに驚いて、慌てて下を見ると、膝小僧が見事に擦り剝けて、血が滲んでいる。床には持っていたケーキの箱と、その横にはサッカーボールが転がっていて、私はようやく事態を把握する。
先ほど私は、このボールが当たりそうになっていたのだろう。そしてそれを、久世先輩が助けてくれたというわけだ。
久世先輩について、外見への賞賛とは違い、中身の方は良くない噂も多い。だけど、噂は所詮、噂でしかなかったようだ。身を挺して知り合いでもない私を助けてくれた先輩は、とても優しい人だ。
「大丈夫です。このくらいの怪我、へっちゃらです」
先ほど心に負った大怪我に比べれば、このくらいの傷、どうってことありません。
シャレにならない冗談は心の中に留めたまま、笑顔を作ると、先輩は小さな声で、
「違う」
と、呟いた。
意味が分からず、「何がです?」そう聞き返そうとした瞬間、
「すみませんっ!」
背後から声を掛けられた。
「え?」
振り向くと、ジャージ姿の男子生徒が立っていた。
彼は久世先輩を見てはっとしたような顔をした後、隣の私をちらりと見る。
彼も先輩のことは知っているだろうし、彼と私の関係が気になっているのだろう。
「ちょっとコントロール狂っちゃって」
キョロキョロと視線を彷徨わせた後、思い出したように申し訳なさそうな顔になった彼に、
「君ね。……これ、見て」
先輩は怒りを無理やり押し込めたような、静かな声で言う。
視線の先は私の足元。
彼は擦り剝けた私の膝小僧を見て、深々と頭を下げる。
「本当に、すみません」
そこまでひどい怪我でないのは確かだし、いいですよ、と言ってあげたい気もするが、全くの他人に迷惑をかけているのだから、軽々しく許すのも先輩に申し訳ない気がする。言葉を迷っている私を見かねたのか、私を守ってくれた彼が一歩踏み出て、ふう、と息を吐く。
「取り返しのつかないことをしてくれたね」
咎めるような口調で言う彼に、
「す、すみません」
気圧されたように、ジャージの男子はペコペコ頭を下げている。
大袈裟な、と頭の片隅で驚きながらも、少しだけ、嬉しい。
単なるかすり傷をこうも心配してくれるなんて、どこまで優しい人なんだろう。彼は外見だけじゃなく、心まで王子様だ。失恋したばかりだというのに、胸がドキドキ高鳴って、自分の現金さに呆れてしまう。
「謝ってすむ問題じゃないんだけど」
先輩は不機嫌そうに言ってから、はあ、とため息をつくと、
「今後は、気を付けてね」
憮然としてそう呟き、右手をひらひらと振って「もう行っていいよ」とジェスチャーする。
小さく頭を下げた後、青年がボールを持って去ったのを見届けてから、私は先輩に向き直る。
「……えっと、先輩。助けてくださって、ありがとうございました」
私はボールの存在に全く気付かなかった。
彼が助けてくれなかったなら、今頃、ボールが直撃し、もっとひどい怪我をしていたかもしれない。この程度の怪我ですんだのは、先輩のおかげだ。
深々と頭を下げて、数秒後、顔を上げた時、先輩は私の前にはいなかった。
彼は廊下の隅にしゃがみ込み、深いため息をつきながら、私の落としたケーキの箱を見つめていた。
「助けられなかった」
苦しそうに呟く彼に、少しだけ違和感を覚えながらも、私は明るく言う。
「あの、私は大丈夫ですから」
先輩の隣に座ってにこりと笑うと、彼は真顔で私を見て、
「君のことは、どうでもいいんだ」
低い声でそう言った。