S22話 ⬛︎⬛︎
門から上半身を這え出す、巨人。
全身は見えないものの、上半身の大きさから推察するに、全長は10メートルをゆうに超えている。
「リゼル……勝算はあるんですか?」
「ああ? そんなもん……あるわけねぇだろ!」
エミリスの問いにリゼルは嬉々とした表情で答えた。
そんなリゼルにエミリスは呆れ半分、不安半分の顔で肩を落とした。
「正直言って、私は怖いです」
「だろうな。ずっと足震えてるぞ」
「しょうがないじゃないですか! こんな敵、想像してなかったんです」
王獣と戦うことを使命としていたものの、まさかこんな巨人と相対するとは思っていなかった。
そもそも、ルクスたちの会話を聞けば、この世界の生物ではないような口振りだった。
いや、生物というよりーー
「この巨人も神なんだろうな」
リゼルの言にエミリスが肩を強張らせる。
そうだ。
これは神。
異世界の神なのだ。
「まあ、やるしかねぇだろ。ルクスにも頼まれたんだしな。それに、俺らよりロッセルの方が大変だろ」
「それは……」
確かにそうだ。
神と戦うのはエミリスたちだけではない。
ルクスに関しては言わずもがな。
四人の中で一番の比重をかけている。
そしてロッセル。
彼も一人で神と戦っている。
「その点、俺たちは二人だ」
「そうですね」
しかし、それは逆説的に二人でなければこの巨人は倒せないと言うことでもある。
それに巨人の後ろに控える虹色に輝く強大な魔力反応。
いや、魔力だけではない。
それは開けてはいけないパンドラの箱。
絶対に認識してはいけないブラックボックス。
「覚悟を決めるぞ! エミリス!」
「分かってますよ!」
決意した二人は同時に行動を開始した。
エミリスはリゼルに守護の加護と速度上昇の加護、斬撃上昇の加護を付与した。
それを一身に受けたリゼルは大剣を肩に担ぎながら、巨人の元へ走った。
加護の影響でリゼルの速度は駆け足程度で陸上選手の全力疾走を軽く超える。
疾風の如く、風を切って、リゼルは巨人に向かった。
巨人に動きはない。
それは不気味なほど、何もしてこない。
こちらの様子を伺っているのか、それともこちらには見向きもしていないのか。
しかし、これまで動きのなかった巨人が突然、床に指をめり込ませて、口を大きく開けた。
「ギャアアアアアアアアアァァァァ!!!!!」
野太くも、しかして甲高い、矛盾を孕んだ、気持ちの悪い叫び声。
その声は一瞬にして『謁見の間』をこだまし、空気を震わせた。
「なんだ⁉︎ なんだよ」
それでもリゼルは巨人に向けて大剣を振り上げて、駆けた。
そのまま勢いよく大剣を振り下ろす。
「ーー『迅雷鬼嵐』」
雷が走るように、鬼が怒りを振るうように、嵐が空気を支配するように、その剣技はあらゆる激震を剣に込め、放たれる。
同時にエミリスが詠唱を唱える。
「輝きを重しに、光を呪いに、栄光なる光明よ、今、地獄の底より、禍々しく煌めけ――『輝きの呪縛』」
エミリスの魔法により、巨人の身動きを封じた。
その間にリゼルが大剣を振り下ろした。
巨人の胸あたりに大きな剣傷が生まれる。
傷口からは黒い液体が血のように滲み出す。
「どうだ、デカブツ」
リゼルは巨人を見上げ、口の端を上げる。
しかし、巨人は何もなかったように、未だ、リゼルたちには見向きもしていなかった。
「なんだ、こいつ?」
リゼルの強力な剣撃を食らって、泣き言一つも叫ばない。
先程は突然、叫んだが、それが嘘のように、今は、またも不気味な沈黙を続けていた。
「リゼル! 今のうちに出来るだけ攻撃を与えてください!」
「いや……でもよぉー」
リゼルは口を窄めて、エミリスに不満そうな声を出した。
せっかく強敵と戦えると息巻いていたものの、相手はただの木偶の坊だったのだ。
リゼルの燃えていた闘争心は徐々に冷めていった。
「まっ、仕方ねぇか。お前が悪いんだぞ、デカブツ!」
リゼルは反応を見せない巨人に対して、大剣を振り続けた。
巨人の身体に幾つもの傷口が生まれていく。
黒い液体は床に飛び散り、巨人の身体も黒く染め上げられ、その被害はリゼルの攻撃と比例して、増えていった。
しかし、巨人は反応を示さなかった。
痛みを感じていないのか。
苦しみを感じていないのか。
巨人は声を発さず、ベールに隠された顔はどこを見ているのかも分からず、ただそこに存在しているだけ。
「ちっ、本当につまんねぇーな」
リゼルは目を虚ろにさせ、作業的に大剣を振る。
胸も躍らない。
血も沸き立たない。
そんなリゼルとは対照的にエミリスは胸を撫で下ろしていた。
これならば、早々に巨人を倒し、ルクスに合流できる。
もしくはロッセルの方に手を貸すことだってできるはずだ。
それならば形勢はこちらに傾くはず。
少し余裕が見え、緊張して強張らせていた表情を柔和しそうになったーーその時。
「ギャアアアアアアアアアァァァァ!!!」
またも巨人が突然、叫び声を上げた。
叫び声とともに巨人の身体が輝き出す。
「んだ? これは?」
輝きとともに巨人から衝撃波が発生する。
その衝撃波によってリゼルは巨人の元から距離を離さざるを得なかった。
「どうしたんです、リゼル!」
「どうしたもこうしたもねぇよ。突然……」
リゼルは輝きに目を細めながらも、巨人に視線を移した。
そしてその目に映った光景に目を瞬いた。
「これは……どういうことだ?」
エミリスも同じく、視線を移動させる。
「えっ……」
彼女も同様にその光景に息を呑んだ。
巨人の身体は燃えていた。
黒い泥を身体から溢れ出させ、その上で燃えていた。
赤い炎が巨人を包み、揺らめく炎は消える気配がない。
「何が……起きているんですか?」
どういう理屈かは分からなかった。
しかし、事実として今、その光景は彼女らの瞳に映っていた。
「苦しんでいる……いや!」
エミリスは怪訝な顔でその様子を観察していたが、巨人の動きに若干の違和感を覚えていた。
「あの叫び声は苦しんでいたんじゃなくて……喜んでいる?」
歓喜を持って、讃美歌を胸に。
それは歓び。
神の御前にて、最後の番人として、導き手として、銀の鍵の所持者の前に立ちはだかり、敬意を持って歓迎するは、かの化身なり。
巨人は泥を被って、炎を纏って甲高く叫び続ける。
これは虹の輝きへ至るための審判。
銀河へ至る。
宇宙へ至る。
新世界はすぐそこに。
「リゼル! 急いで、最高火力の技をぶつけて下さい!」
エミリスは違和感に誰よりも早く、気づいた。
異常事態。
おそらく、危険なことが起きる。
その前にこの巨人を屠らなければいけない。
それは本能か、それとも神の啓示か。
いや、相手も神だったか。
「分かった!」
リゼルはエミリスの指示に疑問を持たず、すぐさま行動に移した。
離れた距離を一瞬の内に縮め、すんでのところで急停止する。
そして、大剣を思いっきり振りかぶり、その剣技を披露する。
それは聖典流、理外剣技が一つ。
全てを塵芥にする、単純明快な純粋火力による砲撃と見紛うほどの剣撃。
屑に帰し、塵に帰し、全てを灰燼と帰す。
しかして、その力は希望。
さあ、人類の願いを、望みを、ここにーー
「ーー『瓏斬』」
澄み切った光が一線、美しく景色を二分する。
カランッ、と言う軽やかな音とともに、一瞬の静寂が生まれ、次の瞬間、轟音とともに峻烈の斬撃が姿を現す。
床は抉れ、天井からも余波で瓦礫が落ちた。
城を揺らし、倒壊するほどの威力の斬撃は巨人を絶滅せんと、全ての恐怖と希望とともに、空気を震撼させる。
「どうだ! これが俺の最高最強火力! 喰いやがれ!」
斬撃が巨人を襲う。
歓喜に震える巨人は心ここに在らずといった様子で、リゼルの斬撃にも直前まで反応を示さなかった。
しかし、その圧倒的、エネルギーを前に、初めて巨人が様子を変えた。
「グギャアアアアアアアアアアアァァァァァ!!!!!!」
巨人の皮膚が剥がれ、抉れ、溶けていく。
悶絶するように顔を上下に振るう。
しかして、斬撃は止まない。
痛みは決して消えることなく、永遠とも呼べる一瞬が巨人を苦しめる。
玲瓏な斬撃は全ての情緒を刺激する。
感嘆とともに、美麗なその輝きを、ただの凶暴な暴力と捉えるものはいないだろう。
ただの残酷な破滅を、破壊を、この時だけは美しい、と感じてしまう。
だが、唯一、その美しさを感受できない存在がいた。
巨人は慟哭を響かせ、ベールの下から黒い涙を流して、その痛苦を表現していた。
「ようやっと、手応えありかよ」
リゼルの口がニヒルと歪む。
そんなリゼルに対して、エミリスは油断なく、巨人の様子を注視していた。
巨人は頭を抱え、叫び声を上げ続ける。
それほどの威力だったのか。
いや、それもそのはずだ。
リゼルが放った斬術は聖典流の中でも単純な破壊力では一番の剣技。
それをリゼルの大剣と技術で放ったのだ。
ほとんどの生命体は粉微塵になるのが道理というものだ。
その点で言えば、この巨人は未だ、形を保っている時点で異常であることが理解できる。
ようやく、リゼルの斬撃が止んだ。
それは一瞬の出来事のようで久遠の感覚を錯覚する。
巨人は腕をだらん、と下げて、脱力状態になっていた。
流石の巨人も相当のダメージを受けたようだった。
しかし、それにしてもーー
「あれを真正面から食らって、五体満足かよ」
巨人の身体は傷や火傷の痕はあれど、切断などされた箇所はどこもなく、リゼルの『瓏斬』の本来の被害は見受けられなかった。
「リゼル、追撃して……」
エミリスは、にべもなく、追撃を指示しようとした。
しかし、言葉の途中で、巨人に異変が生じた。
「グギャアアアアアアアアアアアァァァァァ!!!」
巨人の叫び声。
「またですか?」
だが、今回は様子が変だった。
巨人はリゼルの方へ顔を向け、脱力していた腕を振り上げ、そのまま鉄槌が如く、振り下ろしたのだ。
「なんだと⁉︎」
今まで動きがなかった分、突然の攻撃に反応が一瞬、遅れる。
しかし、リゼルはすぐさま意識を次の行動に向けた。
「ーー『壁』」
大剣を盾にリゼルは『壁』を発動した。
巨人の鉄槌がリゼルの大剣に直撃する。
鉄槌の余波で床がひび割れ、リゼルも同様に上からの力に押され、若干、足が床にめり込んだ。
だが、その圧倒的な力にリゼルはギリギリのところで耐え抜いた。
「舐めるなよ! 突然、動きやがって!」
腕の筋力、脚の筋力、背中、腰……あらゆるところに負荷をかけ、全ての力で巨人の拳を押し返す。
「おりゃああああ!!!!」
腹から出た叫び声とともに大剣に叩きつけられた巨人の拳は中空に飛び、同時に巨人の上半身が後ろに反り返った。
「今です! リゼル!」
エミリスは加護とは別に『走力向上』、『筋力向上』の魔法をリゼルに付与する。
「輝きを重しに、光を呪いに、栄光なる光明よ、今、地獄の底より、禍々しく煌めけ――『輝きの呪縛』」
そして同時に高速詠唱で『輝きの呪縛』も発動させる。
エミリスの声が重なるように、何人もの人物が同時に詠唱しているように聞こえる。
これが高速詠唱。
「巨人の動きを止めてくれたか。今しかねぇよなぁ!」
神聖魔法の中でも『輝きの呪縛』の消費魔力は高い。
そう何度も使える魔法ではない。
それを知っていたリゼルはこれが最後のチャンスだと捉えた。
もう、無防備な状態で攻撃を加えることは出来ないだろう。
ここで全ての力を注ぎ込む。
先程の巨人の攻撃でリゼルはこの相手が相当危険であることを理解していた。
ただ拳を振り下ろしただけであの威力。
おそらく、無差別に暴れ回れば、この都市を一夜のうちに壊滅できるのではないだろうか。
しかし、先の『瓏斬』はリゼルの最高火力。
全力の一振りだった。
多少のダメージは与えたものの、瀕死にさせることはできなかった。
それ以上の火力を放たなければ、先と同じ二の舞は言わずもがな。
それならば、もう一度『瓏斬』を放つか?
いや、それではダメだ。
「何か急所みてぇなもんがあれば……」
巨人の身体を見回すが、一見して弱点のようなところは見受けられない。
そもそも、見て分かる弱点があったら苦労しない。
そうだ、そんなものが都合よくあるわけがないのだ。
「いや……待てよ?」
リゼルは巨人の顔を見上げた。
何故かは分からないが、この巨人は見た目に似合わず、ベールを被っている。
そうだ。
無骨な身体に対して、顔を隠すベールはどうにも不釣り合いで、当初から違和感を覚えていたのだ。
そこにどのような理由があるかは分からない。
しかし、今はそこに何か隠さなければいけない理由があると仮定するしかない。
そして、その理由は何かしら巨人にとって不都合なことがある、と……そう考えるのは、果たして都合の良い妄想だろうか。
「いいや、今はそれに賭けるしかねぇだろ!」
リゼルは大剣を担ぎ、後方にいるエミリスに顔を向けた。
「エミリス! どうにか、俺を巨人の顔に近づけてくれ!」
突然の要望に、一瞬、目を見開くが、思考を巡らして、そこで導いた解答をすぐさま行動に移した。
「『聖なる壁』で道を作ります。そこを走って下さい!」
「えっ⁉︎ いいのかよ? なんかバチ当たりそうだな」
「今は仕方ありません!」
エミリスは『聖なる壁』をリゼルと巨人の顔の間に道のように展開した。
リゼルは片手をまっすぐ揃えて片合掌しながら、『聖なる壁』の道を駆けていった。
「つーか。大丈夫か、エミリス? 頼んどいて、あれだけどよ……魔法を同時に二つ発動すんのは、結構、大変なんじゃなかったか?」
実際、ロッセルならともかく並の魔法師では同時に別の魔法を行使するのは相当な脳への負荷と魔力消費が被られる。
現在のエミリスはリゼルの見立て以上に限界寸前の状態になっている。
しかし、それはリゼルも同様だった。
「流石にさっきの『瓏斬』はやりすぎたか……」
あそこまでの火力の斬撃を負担なく放てる訳もなく、リゼルも相当な疲労を抱えている。
いや、そもそもーーリゼルは覚えていないだろうがーーシロエ遺跡でも戦闘を行い、ここに来るまで魔物とも戦ってきたのだ。
疲労の蓄積はエミリス同様、限界寸前。
未だ、動けていること自体、不思議なのだ。
だが、それでも尚、足を前に出す。
ここで立ち止まる訳にはいかない。
「楽しい戦いとはいかなかったが、こっちも限界みてぇだからよ。黙って、くたばってくれよ、デカブツ!」
迷いを払い、繰り出す剣技を決める。
この剣技に全てを捧げる。
「いくぞ!」
鬼想流ーーそれを追究した者は、基礎剣技を元に自分に適した、自分だけの剣技を生み出す。
この剣技もまた、リゼルにしか扱うことの出来ない、彼だけの剣技。
想像の先に、その者だけの剣技が世界に生まれ落ちる。
これこそ鬼想流の本来の在り方。
これこそ剣鬼が目指した剣の頂への道。
リゼルが放つは、巨人の頭を刎ねるのに絶好の剣技だった。
その剣技は「断つ」ことに特化した、空間断絶に片足を突っ込む、言わばこれもまた利外剣技。
剣鬼が扱う『断罪』と同種のその技は、リゼルによって独自の変容を見せ、リゼルの大剣に最適合された。
その剣技こそーー
「ーー『断崖』!」
リゼルは高くジャンプすると大剣を掲げ、思いっきり、振り下ろす。
大剣は真っ直ぐ縦に一線を描き、巨人の頭部を真っ二つに断絶させた。
その断絶は世界の摂理に刻まれる。
その大剣から放たれた斬撃に触れたあらゆるモノは切断される運命を押し付けられる。
巨人は今度は叫ぶ暇もなく、両断された。
声も上げられず、ただ、二つに分かれる景色をぼんやりと眺めながら、その死を受け入れるしかない。
「どうだ。今度こそ、終わりだ」
両断される巨人の手前に大剣を担ぐリゼルの背中。
エミリスもその様子を見て、勝利を確信する。
「終わってみれば、呆気ないものですね」
想定していたほどの難敵ではなかった。
確かに頑丈だった。
それにおそらく隠していた実力もあったはずだ。
いや、隠していたというより、あの巨人はどうにも意識が定まっていないように見えた。
本来の力を出す前に、こちらが倒した、と言った方が適当かもしれない。
「まあ、相手の事情なんて知りませんしね。最初から本気を出さなかったのがいけないんですよ」
エミリスは笑みを浮かべて、真っ二つにされた巨人を眺めた。
だが、その巨人にまたも異変が生じる。
切断された巨人の内側から黒い泥が噴水ののように湧き出てきた。
それは人間の血と同じものか。
それならば、巨人の身体の内側から流れ出てくるのは問題ないのだが……。
しかし、エミリスはどうにも悪い予感がして仕方なかった。
「リゼル! こっちに戻ってーー」
エミリスの声にリゼルが振り向くーーその時、異変は異常へと転じた。
「あ、あれは……!」
エミリスは瞬時に自身とリゼルに『聖なる壁』を展開させた。
エミリスの予感はどうやら現実へと変わってしまった。
巨人の内から湧き出す黒い泥から小さな物体が現れた。
それは人間のように見える何か。
フードを被った、存在X。
フードの奥は何も見えない。
ただの漆黒、深淵が続いているように錯覚する。
いや、もしかしたらそこには顔は存在しないのかもしれない。
灰色の布を身体全体に纏い、その内側は観測されない。
悍ましき身体が内包されているか、醜き身体が秘められているか。
その者は巨人の中から出現し、湧き出る黒い泥を被りながら、重力を無視して、浮遊している。
あれは何者か?
あれも神なのか?
いや、あれこそ真の姿。
巨人は仮初の姿。
あれこそは門の奥にいる時空の集合体の化身。
あれこそは銀の鍵の門を越えるための最後の審判者。
化身が纏う布の下から黒泥が濁流のように排出された。
そして、その黒泥は形を変え、幾つもの手の形になって、エミリスたちの方へ向かった。
凄まじい速さで迫ってくる黒い手は恐怖を掻き立てる。
しかし、黒い手はエミリスの『聖なる壁』によって阻まれた。
どうやらリゼルの方も同様で、『聖なる壁』によって助かったらしい。
「リゼル! 一旦、こちらに移動できますか!」
何も分からない現状では、二人、離れるのは危険と判断した。
「分かった。すぐそっちに……」
エミリスの要請に応えるべく、足を上げようとして、その違和感に気付く。
「んだよ、これ⁉︎」
床一面が黒い泥に浸っていた。
いつの間にか『謁見の間』は化身の黒泥に侵食されていたのだ。
「どうして……」
その疑問はすぐに解決した。
あの大きな巨人の身体が黒い泥に変化していたのだ。
二つに両断された巨人は首から下を黒い泥に変え、顔も徐々に溶け出し、泥に変化していた。
「リゼル、早く!」
エミリスの叫びに目を見開き、リゼルは一目散に黒い泥の中を疾駆した。
二人合流するとエミリスはリゼルに展開していた『聖なる壁』を解除した。
黒い手は未だ、二人を襲う。
「どうする? このままだとジリ貧だぞ?」
「分かっています。けれど、どうすれば……」
黒い手は『謁見の間』の支柱を次々に握り潰していく。
その握力は押して知るべし、といった感じだ。
「下手に攻勢に出れば、あの黒い手にやられます」
「んなこと、分かってる。その上で、行かねぇといけねぇだろ!」
「それは……」
しかし、お互い肉体の限界は過ぎていた。
今は騙し騙し、動かしている。
エミリスの魔力も底がつくのは時間の問題だった。
「このままではいずれ、やられる。けれど無策で倒せる相手にはどう見ても見えない」
エミリスの思考がフル回転される。
しかし、妙案は出てこない。
いや、一つだけ、この状況を逆転できる手はある。
だが、それはーー
「いいえ、悩んでいる暇はありません!」
エミリスは意を決して視線を敵に移す。
そして、リゼルに向かって手を差し出して、要求した。
「すみませんが、手頃な剣を貸して下さい」
「えっ⁉︎ あっ? なんだ? どういうことだ?」
突然の要求に目を白黒させるリゼルにエミリスは声を荒げて、差し出した手を振った。
「いいから! 早く!」
「お、おう、分かった」
予備として腰に下げていたーー普段は使わないーー短剣をエミリスに手渡した。
さて、それを何に使うのか……?
リゼルはじっとエミリスの様子を伺った。
だが、その次の瞬間、エミリスの行動にリゼルはまたも目を瞬いた。
その行動はリゼルの予想を大きく超えるものだったのだ。
「それじゃあ、いざという時、私の守りをして下さい」
「えっ、うん? どういうーー」
エミリスは『聖なる壁』の外に出て、敵に向け歩を進めた。
「私がアレと戦ってきます」
「…………はい⁉︎」
「それでは、お願いしますね」
そう言って、エミリスは単身、黒い泥に囲われた敵の元へ向かっていってしまった。
残されたリゼルは呆然とそれを眺める。
しかして、徐々に今起きた状況を理解し始め、そして、ようやく意識が追いつき、反応を示した。
「いや、どぉぉいうことだよおおおぉぉぉ!!!!」
リゼルの疑問が『謁見の間』に響き渡る。




