002話 邂逅
「よう、兄弟! どうしたんだ、池なんか見つめて?」
その唐突な呼び声にイヌは声のする方へ振り向き、瞬時に重心を後ろに移して――身構えた。
そこには自分と似た姿の――犬がいた。
(俺と同じ……犬種か? いや、まあ、俺の方が顔つきとか精悍でイケメンだけどね、てへっ……。なんて考えている場合じゃないな)
イヌは今一度、目の前の犬を見つめる。
改めて観察すれば――自分のことでもあるのだが――見れば見るほどただの犬ではない。犬というか狼と言った方がしっくりくる。
(狼か……。一応、犬としての矜持というか愛着があるしなぁ……)
目の前の犬(?)はイヌに見つめられ続けるうちに段々とその顔を寂しさに近い悲しみの表情に変容させていった。
どうするべきか、とイヌは考えた。
どこかも分からない場所で見知らぬ者とのファーストコンタクト。
(現在進行形で俺には何も情報がない。ここは目の前の同族らしい奴に頼るしかないよな)
イヌは意を決して声を出した。
「ワォォォーン、ワォォン、ワンワン!」
(えっと……、あれ? 言葉が出ない……。いや待て、そもそも犬は言語を話せないじゃないか! 目の前の同族が普通に話しかけてきたので忘れていたが……。そういえば、たまに外に散歩しに行って、すれ違う犬たちにも俺の言葉は通じなかった。というか自分自身でさえ自分の発する吠え声が何を言っているのか分からないし……。犬は同族間でも基本話せない、つまり犬語みたいな言語がある訳じゃないんだよなぁー)
しかし事実として、目の前の犬は言葉を発したように感じた。
それもイヌが知っている人間の言葉で、だ。
これはどういうことか、とイヌは再度、犬を見つめた。
そんな見つめた先、当の本人――本犬? は目をぱちくりと瞬いて鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
「お、おい。お前、もしかして俺の言葉が分かるのか?」
突然の質問にイヌは反射的に首を縦に振った。
イヌは吠えることしか出来ないので、ジェスチャーで伝えるしかなかった。
「そうか! 分かるのか! よし、色んな奴に話しかけた甲斐があった! よし、よし、よし!」
顔をパァ、と花咲くように満面の笑顔を浮かべた犬はブンブン嬉しそうに尻尾を振っている。
「けれど、しゃべれないのは不便だよな。せっかく言葉が分かる奴に会えたんだ。出来れば話せるようにもなりたいなぁ」
暫し中空を眺めて何事か考え事をする犬。しばらく時間が経って、ようやく妙案が思いついたらしく、イヌに顔を向けた。
「よし、話す練習をしよう!」
「ワン?」
(話す練習……? 訓練によって話すことが可能なのか?)
そして一方的に始まった――話す練習。
「と言っても話すというよりも思念を伝達する、と言った方が正しいけどな。一度使えれば人間みたいに口や喉を使って発音する事も出来るけど、そのプロセスは音を発生する訳じゃない。思っていることを言葉に置き換え、それを相手に伝える」
そんな感じで、話すという行為の理屈を教えてくれた。
しかしそのプロセスは分かっても実際問題、どのようにして、その思念の伝達を可能とするのか。
いや、まったく理解不能だ。
だが、目の前の犬は――
「さあ、やってみろ! 頑張れ!」
イヌを鼓舞するのみ。
(え? なに? さっきので説明終わり⁉ てか、あの説明だけで本当にできると思っているのか、こいつ……?)
首を横に振って出来ないことをアピールするが犬はそれを無視して――というかそもそもこちらの反応を見ていないように感じる――イヌの応援を続ける。
イヌはため息を吐いて、観念した。
いや、するしかなかった。
(仕方ない……。ここは頑張るしかない)
と言っても、どのような努力をすればいいのだろうか。
よく分からない。
(まあ、考えてもどうにもならないなら、フィーリングでやるしかない)
覚悟を決めて、頭の中の意識を集中させる。
(思っていることを言葉に置き換える? それを相手に伝達。改めて考えても具体的じゃないよな、これ。こういう時に必要なのは方法論の説明だろ。それを教えろよ)
と、イヌは思ったが、もしかしたら目の前の犬もその方法論を知らないのではないか。
(そういえば、色んな奴に話しかけたとか言ってたよな。こいつの反応から察するに俺が唯一、言葉が通じた存在と見てよさそうだ。だとすれば、思念の伝達方法を知らないのも納得がいく。彼のこの能力は先天的なもの、もしくは説明に窮する感覚的なもの、というところか……)
イヌは勝手に納得して、仕方ないと割り切った。
そして先程よりも脳を集中させて、神経を研ぎ澄ませる。
(うーん。集中して、伝えたいことを思い浮かべる……。そうだな、まず最初は……挨拶か? なら、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう)
現在時刻は分からないが、先程、起きたばかりと言うこともあってイヌは「おはよう」の挨拶を採用し、繰り返し頭の中で念じた。
念じて、念じて、念じて――
頭の中で「おはよう」がゲシュタルト崩壊しそうなほどに言葉を繰り返して、いつしか頭痛すら覚え始める。
しかし、そんな苦労の甲斐もあってか……。
「おぉ! 伝わったぞ! おはよう……うん、おはよう、だ!」
どうやらイヌの言葉が伝わったようだ。
そして、その瞬間――苦労して成功した思念の伝達が突然――ごく自然に出来るように感じた。
いや、それは出来る、出来ない、の問題ではなく常識というか、普通のことのように思念の伝達を行うことが可能なのだと脳が理解しているのだ。
(まさか、本当に話せるのか……?)
出来る、と脳は判断しているが、先程までの苦労を経験している意識は半信半疑だった。
「あ……、あいうえお」
(しゃ、しゃべれた!)
口を動かすたびに思っている言葉がスラスラと出てくる。
「おっ、普通に話せるようになったのか、兄弟! そうだ、一度、思念の伝達に成功すればあとは簡単だからな。長老様はそういう能力のことをスキルって呼んでたな」
何やらよく分からないことを言っている目の前の犬。しかし話せるようになった契機を作ってくれたのはこの犬のお陰だ。
恩人と言っても良いだろう。
イヌは一応、礼を言うことにした。
「ありがとう、お陰で話せるようになったよ」
「おうおう、礼なんかいいぜ、兄弟! 俺も話が通じる奴に会えて嬉しいんだ」
そう言って犬はイヌの隣に移動して池の水を飲み始めた。
「ふぅー、安心したら喉が渇いた。兄弟も疲れただろ? ほら、一緒に飲もうぜ」
イヌはそういえば、とそもそもの目的を思い出した。
彼は水を飲みたかったのだ。
イヌは軽く頷き、追随して水を飲んだ。
そして二匹、喉を潤すと、岩壁に身体を預けて横たわった。
「よし、落ち着いたところで自己紹介をしようか。俺の名前はレムス。レムス・ギー・フェンリルだ。よろしく!」
犬――レムスは弾んだ声で笑顔を向けてきた。
名前を教えてもらったので、ここは自分も名乗るべきだろう、とイヌも自己紹介をする。
「俺の名前は、えっと……アキラ。苗字とかはどうなるんだろう……? 飼い主の苗字を使えばいいのかな?」
イヌの名乗りを聞いてレムスは目を見開いた。
「お前、名前を持っているのか……?」
「あっ、ああ。えっと……持ってるのは変なのか?」
「いや、変じゃないけど、それはとても――珍しい。ほとんどの魔物はまずもって名前を与えられる機会自体がない。あとは自分で名前を付けるっていう習性も基本的には無いからな。群れを成している奴らの中で代々、首領の名前を受け継ぐとか、あとは知能がある奴らだな。吸血鬼とか貴族意識のある奴らならプライドとか地位の誇示とかで人間みたいに名前を付けているらしいけど……」
色々と説明してくれるレムスだが、その内容にイヌは目を瞬かせた。
(魔物? 吸血鬼? 何を言っているんだ。そんなのはおとぎ話とか夢物語とか――まさしくアキラの妄想話で語られる存在たちのはずだ。この現実世界にそういった存在がいる訳ない……)
そんなイヌの驚きにも気づかないレムスだが、彼もまた別の事柄で驚いていた。
「てか、お前って飼い主がいたのか? 飼い主……。魔物が魔物を飼う、そういった話は聞いたことないな……」
「い、いや、俺の飼い主は人間だ」
イヌの訂正にレムスはまたも目を見開いた。
「人間の飼い主⁉ そ、それはどういうことだよ! いや、そうだ、それはあり得ない。そんな人間がいるはずない。人間と魔物はいつだって狩るか狩られるか、その敵対関係は長い歴史のもと続いてきたんだ! それに人間は俺たちのことを差別的に見ている。そんなのはあり得ないはずだ」
その言葉にイヌの疑念が増長した。やはりどうにも話が噛み合わない。
(そもそも俺たちが魔物?)
イヌは自分の前足を見つめて、眠りから目覚める前には存在しなかった鋭い爪を観察した。
(それに俺の姿が変わっていることも気掛かりだ)
そこでようやくイヌは目の前のレムスに疑問をぶつけることにした。
その流れで自分の姿が変わったこと、ここが見覚えのない場所で、魔物や吸血鬼、それに人間との関係性の差異など、あとはここに来るまでの経緯を話した。
話し終えて、目の前のレムスを見れば、彼は何度目かになる驚いた表情をしていた。
「そうか、そう言うことだったのか。だったら名前があるのも、俺の言葉が通じたのも納得かもしれない」
「うん? それはどういうことだ……?」
「ああ、えっとな……それは――」
レムスは話し始めた。
イヌが現在の境遇になってしまった理由を。
その可能性を。
「お前は転生したんだ。それも世界を飛び越えた転生だ」
「転生? 俺は生まれ変わったのか……」
それなら自分の姿が変化した事実に対して理由がつくが……。
いや、でも――
(犬から犬に転生って……もう少し良い転生先はなかったのか! 何の面白味もないじゃないか! アキラ曰く人外転生ものが流行っていたらしいけど、人外から人外への転生って意味ではなかったんだろうなぁ……)
そして、ここでもう一つの事実にも考えをシフトする。
「世界を飛び越えた? それってつまり異世界ってことか?」
「ああ、そう言うことになるな。まあ、この世界で異世界人ってのも珍しいっちゃ珍しいが、いない訳じゃない。けれど転移じゃなくて、転生。それも獣から獣への転生はまずもって俺は知らない。それくらい珍しい事例だ」
「ん? 転移と転生は違うのか?」
レムスはゆっくりと首肯する。
「転移は元いた世界の存在がそのまま別世界に移動することだ。その移動例はあちらの世界から偶発的にこちらの世界に迷い込んでくる場合もあれば、こちらの世界から魔法儀式によって異世界人を召喚する場合もある。対して転生は一種の生まれ変わり。まあ、正直、転生自体はそこまで驚くことでもないんだよ。誰しもが死んだ後は転生して、新しい生命として生きるんだ。輪廻転生だな。しかしその転生時に前世の記憶を継承する奴がごく稀に現れたりする。けれど、それも大抵は知能が発達している人間側で発生する事があるぐらいで、兄弟のような人外から人外への記憶所持の転生は俺の知っている限りで歴史上、一切として観測されていないはずだ」
「つまり、俺の転生はかなり低い確率で起きた奇跡ってことか?」
「その通りだぜ、兄弟。お前は類に見なかった奇跡を体験した。これは本当にすごいことだぞ。少なくとも長老様からお前みたいな存在の話、聞いたことない」
イヌはレムスの説明を一通り聞いて、息を深く吐いた。
まさか――
まさか……!
(俺は異世界転生したのか……。アキラが夢にまで見た――。そして、俺に何回も話してくれた妄想のような世界に――。
――俺は異世界にやって来たんだ)
そうしてイヌは――自分が異世界転生したことを知ったのだった。