023話 イヌvs吸血姫
アリスはサリユとの距離を詰め、近距離で『血の一線』を放射した。
血液で構成された放射線は鮮やかに一本の鮮血の線を風景という名のパレットに描き出す。
しかし、サリユはそれを予見したかのように『狼王への謁見』を発動させ、その効果で『血の一線』の放射する速度を鈍らせた。
そこから無駄のない動作で尾を硬質化させ――『剣』によって斬撃を加える。
攻撃の勢い――ノックバックで折角、縮めた距離を元通りに戻されてしまう。
手強い。
いや、それは――
吸血姫――アリスは目の前のイヌ――サリユの放つ凄まじいオーラに緊張していた。
これが獣一匹から放たれていい威圧感ではない。
それはアリスが今まで出会ってきた魔物のそれと一線を画するものであることは言わずもがな――それをピリピリと肌で感じる。
魔物の狩猟は得意としている。
この第八階層の様々な魔物と戦ってきた。
どの魔物も手強く、決して油断できない相手ばかりである。
しかしそのことごとくをアリスは屠ってきた。
それも余裕をもって……。
アリスの実力は相当なものであり、まずもって現代に生きる通常の魔物では正面から戦って勝つことは叶わない。
経験に乏しくとも彼女は正真正銘、魔物における最強種族の一角である。
神話級は伊達ではない。
だが、そんな吸血姫でさえ、恐怖で身体を震わさずにはいられない。
アリスの魔力量も桁違いだ。
本気を出したアリスが放つ魔力圧はここ第八階層の魔物であれば泡を吹いて気絶――いや死は免れない。
だが目の前のサリユは――レベルが違った。
そのオーラは鋭くもあり、重たくもあり、しかして佳麗であり、精緻なのである。
芸術品のように。だが、人が作りしものではない。
オーパーツ? いや、それはまったく違う世界からの――宇宙からの美しさ。
アリスの駄々洩れの魔力とは訳が違う。
それは相手を恐怖させるという目的をただ遂行するために紡ぎだされた魔力。
その魔力にアリスはどうしようもなく恐怖してしまう。
その恐怖は精神の奥底を狙って刺すように彼女を苦しめる。
睨み合っている。
牽制し合っている。
ただそれだけだというのに、アリスは一歩先の敗北を想像してしまう。
何もせず、ただ目の前のイヌを見ているだけなのに……。
しかし、それだけで両者の実力の差は決定的だった。
初めて出会ったときには感じられなかった彼の実力は、今、対峙することでようやく理解できた。
自分がどれだけ井の中の蛙であったか。
世界にはこれほどの実力者が存在するのか。
あの城の剣士も想像以上だったが、今ここに剣士と同等――いやそれ以上の強敵がいる。
突然現れた悪魔。
そしてイヌ――
吸血姫にとっては一日など人生における気にも留めない時間に等しい。
しかしそのたった一日で――どうして?
どうしてここまでの実力者に出会う?
自分は自惚れていた?
自分の実力はそんなにも劣るのか?
違う――!
(私は! 私は……!)
直径1mほどの血の塊が球状になって突如、現れた。
それは『異空間』に貯めていた血液である。
血の塊――それを仮に血球と呼称しよう。
血球は細長く形状を変化させた。
流動的な動きで形状変化させたその形は剣。
巨大な赤黒い剣は宙に浮かびながら、そのままサリユへと一直線に刺突する。
「行け!」
アリスの声に赤黒い剣の速度が上がる。
サリユへ突進する剣は鉄よりも固く、その硬質さは魔泥人形と同等である。その速度も相まって、直撃した瞬間に対象物は粉々に粉砕される。
それは言わば彼女にとっての絶死の攻撃だ。
そう彼女にとって――
今まで彼女の経験においてこの攻撃で生き残った者はいない。
全ては身体を貫いた瞬間に血しぶきを噴出させ、絶命した。
その攻撃力、且つ、発射速度により、躱すことも防ぐことも叶わない。
だが、サリユはその攻撃を真正面から防いだ。
驚きもなく、焦りもなく、表情を変えずに巨大な血の剣を防いだ。
サリユの身体から突如として炎が舞い上がる。
炎はサリユを囲うように踊った。
アリスが発射させた巨大な『血剣』が近づくとその炎は密度を上げて炎の壁となり立ちはだかった。
『血剣』と『炎の守護』が接触する。
その結末はあっけなかった。
炎の壁に接触した瞬間、『血剣』は蒸発していき、巨大な血の塊は瞬く間に焼失したのである。
彼女が誇るその攻撃は一瞬のうちに消えた。
それは……信じたくない事実だった。
ここまで?
ここまで途方もなく目の前のイヌとは決定的なのか?
だが、諦めてはいけない。
これは自分を認めさせるための戦い。
諦めるということは自分自身をも見捨てるに等しい。
だから――ダメだ。
「まだ!」
アリスはまた新たな巨大な血球を二つ出現させ、形状を変化させる。
二つの血球は薄い円に形を変え、回転し始めた。
それは先程ゾンビたちを両断せしめた魔法。
高速回転しながら『血刃』はサリユへ向かって疾風の如くアリスのもとから離れた。
サリユへ『血刃』を向けたのと同時に両手に血の塊を生み出し、剣の形に形状変化させる。
血の剣――『血剣』の二刀を両手に持って、全速力で走った。
先程と同様の光景が再現される。
二つの『血刃』と『炎の守護』が接触した。
しかし、『血刃』でさえ、その結果は同じだった。
炎の壁に触れた瞬間、その高速回転から生まれる最高の切れ味もむなしく、『血刃』は蒸発した。
(これも無理なの?)
だが、止まらない。
それならば、とアリスは接近戦を選ぶ。
炎の壁によって『血刃』が消えたのをまもなくにして、アリスがサリユの目の前まで接近し、二刀の『血剣』でサリユに斬りかかった。
サリユはアリスの攻撃に対して『狼王への謁見』で時間を作り、避ける動作をとった。
だが、アリスはそれを予想していた。
先に受けた魔法である。二度同じ手は食わない。
アリスはサリユと吸血異形恐怖の戦いからこの魔法を観察していた。
この魔法を相手にした場合、それは脅威でしかない。
まずもって厄介極まるの一言に尽きる。
だが観察して分かった。
この魔法の一つの弱点。
アリスは手を伸ばせる範囲であれば決まった動作もなく『異空間』を出すことができる。
そこから任意のものを取り出すことも。
二刀の『血剣』で斬撃を放ちつつ、サリユの後方から『異空間』を出現させ、そこから『血弾』を発射させる。
つまり『狼王への謁見』の弱点は対象が一つだということ。
ゾンビたちに対しては大規模に影響を与えていたが、それは単純にレベルが低かっただけだ。
ある程度の抵抗能力が高い者であれば、ゾンビたちが食らった広範囲の『狼王への謁見』ならば、影響を受けないだろう。
ゾンビたちの時は多少なりとアリスにも蚊に刺された程度の違和感を感じたが、サマンサ・ヴァンプとの戦闘の際はその違和感を感じなかった。
だからこそ、ある程度のレベルに達した相手には『狼王への謁見』の対象を絞らなければいけない、そう推測できる。
しかし、それは誰よりもサリユ自身が理解しているだろう。
だとしてもアリスはそれに賭けた。
弱点を見つけて、それが罠だとしてもみすみす見逃すという選択肢はない。
サリユの後方から放たれる『血弾』は発砲音もなく、無機質にサリユの身体に吸い込まれるように向かっていく。
そしてサリユの身体を――すり抜けた。
(すり抜けた⁉)
すり抜けた。
すり抜けた身体の箇所から血は噴出することもなければ垂れることもない。
何もなかったように『血弾』はサリユの身体を通過した。
そして――そこには誰もいなかった。
だが、そこには確かにサリユが――
「どういうこと?」
疑問の一言は不意に口から漏れ出た。
サリユの姿は『血弾』をすり抜けた瞬間に掻き消えた。
靄のように、霧のように、幻惑のように。
――消えた。
その光景に驚愕の感情を隠せないアリスはサリユがいたはずだった場所を眺めることしかできない。
しかし、そんなアリスの背後から急速な魔力の発生を『魔力感知』が反応する。
振り返る。だが、遅い。
そこにはサリユがいた。
サリユの背中には六つの火球が円を成して浮かんでいる。
これは――サマンサ・ヴァンプの時の……。
あの時は七つだった火球が六つに減っていること。
何故、突然背後からサリユが現れたのか。
色々な疑問が瞬時に頭を支配するが、すぐさまそれを取っ払い、目の前に集中する。
サリユは口を開けてこちらに魔法を放とうとしていた。
恐らく『火の一線』といったところか。
いや、光系統の魔法を扱ってもいた。その可能性も考えられる。
アリスは両手に持っていた『血剣』を溶かし形を変えて『血壁』をサリユとアリスとの間に展開する。
念には念を――。『異空間』から貯蔵の血液を取り出し、自分を囲うように赤黒いキューブを生み出す。
結論から言えば、サリユの攻撃はアリスの想像する可能性をことごとく裏切った。
サリユの口から放たれるは三色の放射線。
それは三種の系統の混合魔法。
まずもって正規のルートではその頂には到達できない。
二種の系統の混合魔法でさえ珍しいというのに、三種類の混合魔法など聞いたことがない。
人間の世界では二種類の系統を扱える魔法詠唱者が存在しているらしい。しかし、それは二系統を扱えるということで別系統の魔法を混合させるという意味合いではない。
だからこそ混合魔法というだけで奇跡に等しい神の御業なのだが――目の前の光景はその奇跡をも凌駕する。
炎と光と闇、三色の放射線が絡み合い一つの放射線へと生まれ変わる。
見たことのない魔法――奇跡――常軌を逸した光景……世界。
私の知らない世界。
私の知らない常識。
私の知らない――何か。
混合魔法の放射線は『血壁』を貫き、破壊し、『キューブ』に向かった。
アリスはその奇跡を目の前に混乱しかけた脳を唇を噛むことで無理矢理に落ち着かせる。
立ち止まっている暇はない。
混合魔法に『キューブ』は『血壁』よりも耐久を見せるが、それも時間の問題だろう。
このままでは『キューブ』も破壊されて、次は自身の胸に風穴があく番だ。
そこまで本気なのだ。
殺そうとしている。
(サリユ様は――本当に私を?)
アリスは自身の目がぼやけるのを自覚する。
それは涙。どうしようもなく涙。
こんな時に泣くことなどありえない。
しかし信じた相手に、心を許した相手に、自分は今殺されようとしている?
全ては自分が蒔いた種。
だけど――!
アリスは自身が立つ地面に血だまりを発生させ、その血だまりへと落ちていく。
三色の放射線は『キューブ』を貫き、アリスのもとへと向かって一直線に――だが、そこにはもうアリスの姿はなかった。
アリスの姿が『キューブ』から20m後方に出現する。
血だまりが地面に現れたと思ったら、次にはその血だまりからアリスが現れた。
――空間転移。
これも転移できる範囲は限られるが、相手の攻撃を避けるにはこれ以上に便利なものはない。
しかし、間一髪でサリユの奇跡の攻撃を避けたアリスの表情は安堵ではなく、焦燥感で塗り固まっていた。
ダメだ……。
勝てる未来が一切見えない。
三系統の混合魔法もそうだが、姿が掻き消えた絡繰りも分からない。
自分と同じ転移魔法かとも思ったが、だとしたらそもそも姿がそのまま消えるはずだ。
あれは転移ではなく、まさしく姿が掻き消えた。
そこにあったはずなのに、次の瞬間にはなくなっていた。
分からない……。
情報が少ない。
あれほどまでにサリユの戦闘を見ておきながら、まだまだそれは氷山の一角だったというのか……。
つくづく自分が未熟だということを自覚させられる。
けれど、負けられない。
だからと言って――負けられない。
負けたら終わりだ。
それは自分を否定するということに繋がる。
負けない、だけど……。
相手の強さはアリスの意志を砕き続ける。
イヌは吸血姫を圧倒する。
これが戦いか――?
――――――――――――
これは調整だ。
自分がどれほどの力を有したのか。
サマンサ・ヴァンプとの戦いでは正直、自身の力を全て確かめるには至らなかった。
だからこそ、彼女――吸血姫との戦闘は自身の力を確認するには願ってもないものだったのだ。
それに……目を背けるアリスの根性を叩き直すためでも……一応ある。
これはついでだ。
率直に言えば、どうでもいい。
元々、彼女の問題は彼女自身が解決すべきだと思っていたのだ。
しかし、現に今サリユは彼女と対峙して、強硬手段を用いり、根性を叩き直そうとしている。
つまりは、サリユにも情があるということだ。
出会って間もない彼女に対して多少なりとも好感を持ってしまったのだろう。
それに、大切な人物と別れの言葉もなく永遠の離別をするというのは誰にとっても辛いものだ。
もしかしたら自分のようになってほしくないと思っているのか?
そんなにも自分は優しいのか?
サリユはそんな考えを浮かべて、ニヒルに笑みをこぼした。
違うな。これは優しさではなく、ただの――
――傲慢というものだ。
サリユは前方のアリスに視線を向ける。
アリスは現時点でサリユの最高出力の魔法を回避したというのに焦っているように見えた。
もう少し冷静になるべきだ。
サリユは客観的に彼女がすべき行動を思考する。
彼女からの視点であれば、今まさに正体不明の魔法を目の当たりにしたのだ。迂闊には手を出せないだろう。
ならばどうする?
防御に徹するはずだ。
先程使った『血壁』もしくは『キューブ』。
いや、それで防ぎきれなかった攻撃を受けたのだ。防御は愚策に見えるか?
であれば、一矢報いるためにやはり攻撃を仕掛けてくる?
それは、最初に戻る。彼女の立場では迂闊には手を出せないのだ。
だとしたら、最後に残った選択肢は……。
転移を続ける。もしくは転移と転移の間、時空の歪みに身を隠す。
血だまりを発生させ、任意の場所に転移する魔法。
彼女の魔力量ならば、まだまだ余裕があるだろう。
流石は神話級といったところか。
今この時点における彼女の最適解の行動は転移……か。
あの転移魔法の細工は分からない。
ならば――彼女の動きを封じてしまえばいい。
サリユは先程入手した『黒泥』をアリスの足元に発生させた。
「これは!」
アリスはすぐさまその違和感に気付いた。
これはサマンサ・ヴァンプの?
どういうこと――などと疑問を呈している暇などない。
幸い、動きが鈍くなる程度で脱出できないというわけではない。
早く沼から足を出し、転移する。
地面に足が接着していなければ転移は出来ない。
だから早く――
だが、それは無理だった。
『黒泥』が急速に固まっていく。
こんな効果を有していたのか?
サリユとサマンサ・ヴァンプの戦いにおける『黒泥』はこのように固まりはしなかった。
分からない。
だが、脱出しなければ――
炎の魔法を加えることで『黒泥』は固まった。
なるほど、こういう使い方もできるのか、とサリユは冷静に分析していた。
一つずつ確かめる。
自身の力を、確かめる。
アリスはそれでも尚、脱出を試みているようだった。
足でも切断するか? だとしたらまずいな。
そこまで追い詰めるつもりはない。
――殺すつもりはないのだ。
サリユは最悪の事態を避けるべく、『狼王への謁見』を発動した瞬間にとある魔法をアリスの周囲に展開させた。
その魔法の名を『炎獄』
アリスの周囲に炎が舞い踊る。
範囲魔法である『炎獄』に閉じ込められたが最後、その灼熱の牢獄に苦しめられ、焼死する。
しかし相手はアリスだ。
死にはしないだろう。
それでもアリスにとっては厄介極まる魔法であることは変わらない。
範囲魔法は領域魔法の下位互換である。
しかし、その効果の一端は領域魔法に通じている。
つまり、展開された魔法範囲内では逃れることが出来ないということだ。
転移でもそれは不可能。
足を封じて行動を制限し、それでも、なお足りず範囲魔法を展開させる。
慎重にもほどがある。
だが、サリユはそれでも油断しなかった。
まだ、勝敗は決していない。
サリユの背後に浮かぶ『七曜』のうち、六つの火球。
一つは先程使った。残りは六つ。
一つの火球が消える。
それをもって『七曜』の異能の一つが解放される。
《解放。『炎獣化』――開始。身体能力開放。魔力量解放。スキル性能向上。――再構成》
サリユの身体が膨れ上がる。
筋肉が隆起し、牙が鋭くなり、毛が伸び、耳が大きくなる。
大きくなった身体には炎が舞い上がり、鎧のように炎がサリユの身体を纏う。
いや、炎そのもののように、その獣は炎と一体化する。
「な、何なんですか……? これは、何⁉」
アリスの何度目かになる驚きも、ここまでくると笑ってしまう。
なんだ――これは?
炎の獣は吠える。
炎を従え、支配し、凌辱し、炎とともに吠える。
「グオオオオオオオオオオオオォォォォォォ!!!!!」
その咆哮は『狼王への謁見』を超えるデバフ効果を発揮する。
それは確定的な影響を及ぼす。『恐慌状態』、『魔力減少』、『行動不可』、『可能性収束』など。絶対的な効果付与。
そう、確定事実。
その咆哮から発生する効果は決定された現実へと昇華される。
伝説級など比較できないほどに、炎の獣は神話級に一歩踏み入れている。
しかし、伊達にアリスも神話級ではない。
確定された事実を圧倒的な魔力によって抵抗する。
『炎獣化』でもアリス――吸血姫を単純な暴力で圧倒することは叶わない。
だが――現時点ではもうアリスに勝ちの目はない。
「どうする? ここで降参するか?」
煽る。
終わらせはしない。
もう少しだけ楽しもう。
「まだ……まだ! まだ終わってない!」
そうだ。
お前の意固地さはそんなもので揺らぎはしない。
もう少し俺を楽しませてくれ。
サリユは笑う。
――『爆炎』
炎獣の口から次々と巨大な火球――『爆炎』が放たれる。
未だ、アリスは『炎獄』に阻まれている。
逃走経路は確保できず、可能な手段は防御に徹するか、もしくは攻勢に出るか……。
愚策は後者だ。
だが、防御の構えを見せたところで何になる?
このままやられっぱなし?
嫌だ!
負けたくない!
けれど、この戦いは勝てない。
そんなもの誰よりもアリス自身が理解している。
だが――もう逃げたくない!
逃げる?
ああ、そうだ。
(私は逃げていた。ずっと逃げていた。ずっとずっとずっと! 逃げていた!)
でも、逃げたくない!
アリスの顔つきが変わった。
吹っ切れたように、憑き物が落ちたように、その表情は清々しいようにも見える。
ようやくか、と炎獣――サリユは笑う。
嬉しくて、楽しくて――笑う!
「そろそろ本番か……」
サリユの独り言ちはルルにだけ聞こえていた。
誰よりも楽しそうなその声音にルルはこれから仕える主の幸福を感じる。
これが主の幸せか。
これが主の望みしものか。
「サリユ様……!」
――ルルは静かに戦いの結末を待った。
炎獣はまたも吠える。
しかしその咆哮は相手に影響を与えるためではない。まして、自身の力の誇示などでは全くない。
楽しくて吠える。
ただそれだけ。
ようやく思いっきり戦える。
力をつけてからのサリユは窮屈だった。
未だ自身の力に慣れていない、それもある。
意識が追い付かない。
身体が追い付かない。
だが、それだけではない。
力の解放にはもう一つの目的がある。
あの人間への復讐。
もう一度、あの人間と相対したとき。その時は自身の力――全てを使って蹂躙する。
逃がさない。
許さない。
乞われたところで無碍にする。
歯軋りをする。
その歯軋りは未来への怨嗟か、微笑みか……。
いずれにしろ、人間と接敵した時が楽しみだ。
だからこそ、今、楽しい。
これは実験だ。
自分はどこまで通用するのか、その実験だ。
「来い! 神話の遺物! 俺がどこまでやれるか試してやる!」
サリユの荒げた声とともにアリスは巨大な血球を出現させ、それを爆散させた。
その爆発によって、『炎獄』が破られる。
炎は吹き飛び、風景に混じり――消える。
『血壊』の余波である土煙が辺りを漂う。
アリスの姿は見えない。魔力感知にも引っかからない。
きっと転移の魔法で移動しているのだろう。
時空の歪みにいれば、魔力感知を避けられる。
また、この土煙で視界も封じ、いつどこから現れるか分からない状況を作った。
即興にしてはなかなか上手く作用している。
やはりバトルセンスはある。
だが、センスだけで戦いを有利に運べるとは限らない。
視界を隠すならば、隠したところでどうしようもない状況をこちらが作り直すだけ。
サリユは自身を中心にして『炎獄』を発動させた。
灼熱の炎の円が波紋のようにサリユを中心にして広がっていく。
炎の波は途切れずに、波形を一定に、沈んでは跳ね上がる。
土煙の中『炎獄』が広がる。
これで下手に転移で出現することは出来ないだろう。
あとはどのようにしてアリスを時空の歪みからこちらに引きずり出すか。
サリユは仕方ないか、と背後の火球を二つ減らし、先程使用した異能を復活させた。
――『幻日』
それはレムスが所持していた『幻火』を再構築、進化させ『七曜』に組み込んだ異能の一つ。
それこそ、この異能は確定的な事実を形成する。
しかし先程の炎獣の咆哮とは訳が違う。
異能に昇華せし『幻日』は『七曜』に与したことでただの魔法の域を超えた。
だからこそ、その異能――確定的幻惑は神話級を超えて神獣レベルでさえある。
もちろんそれに見合ったデメリットはある。
だが、そのデメリットに余りあるメリット――その効果は絶大だ。
辺り一面に炎が舞い上がる。土煙が漂う。
しかして時空の歪みにいれば安全だ。
ここにずっと待機できるわけではない。
長居すれば魔力圧によって身体はいずれ肉槐へと変貌するだろう。
だが、アリスの身体はそこらの魔物とは別格だ。
じっくりと隙を見て、攻撃を加える。
どんなに強敵であっても集中力を切らさずにいることなど不可能だ。
一瞬、ほんの一秒に満たなくとも、その一瞬という時間だけでも隙を見せる。
それが生物だ。
だからその隙を狙って――
その――はずだった。
「よし! やっと見せた!」
土煙は漂い続けている。しかし、『炎獄』の効果は切れてしまったようだ。
炎は見る見るうちに消えていく。波紋に広がる炎の波はさざ波に変わり、いつしか地面へと沈んでいき、そのまま帰ってくることはなかった。
我慢比べはアリスの勝利のようだった。
この機を逃すわけにはいかない。
アリスは脳で意識するよりも先に行動に移した。
全身全霊、全力で今、自分が出せる最大出力の魔法を繰り出す。でなければ、アリスの勝利の可能性は潰える。
細く、目にも見えない穴に針を通すほどの可能性。
しかして、やっとその可能性が目の前に現れた。
これだけだ。
この機を逃せば、勝利はない。
時空の歪みから表の世界に現れる。
出現位置は炎獣の背後。
空中から突如とした出現したような形でアリスは宙を舞い、重力に身を任せ、落ちる勢いのまま魔法を発動する。
彼女の最大の魔法。
――『血脈繋がる血卵の呪い』
いや、それでは範囲が広すぎる。
領域を支配したところで、それを崩す策を講じていないとは考えられない。
そもそも『血脈繋がる血卵の呪い』では自分の身を破滅する対価が生じる。
流石にその対価は大きすぎる。
いや――やる価値はあるか?
アリスは心の中で首を振り、自身の思いつきを否定する。
どちらにしても領域魔法ではダメだ。
一点を狙う。
炎獣の身だけを攻撃する、そこに魔力を集中する。
魔力を練る。密度を上げる。
奇麗に、美麗に、魔力を紡ぐ。
こんなこと今までやろうと思ったこともない。
単純な暴力で、魔力は叩き付けるように荒々しく――
しかし今までのような戦い方では勝てない。
勝利のために――
自分のために――
欲望のために――
「血断許さぬ。宿りしは断絶。――これで終わり!」
――『血絶』
転移の応用。
それは一瞬だけ許された転移魔法の力業。
小さな、小さな血球――しかして内包せし魔力は絶大な――を相手の内部に転移させる。
基本的に生物の体内に対象物を転移させることは出来ない。
だが、膨大な魔力とそれを無理矢理に制御する力によって、ほんの一瞬だけ世界が禁止する禁断の――摂理の反逆を成すことができる。
サリユの体内に侵入した血球はブクブクと形状を変化させ、サリユを内部から苦しめる。
どんなに防御に優れた魔法を所持していようが、体内からの攻撃は防御不可能である。
体内を鍛えることなど出来ようはずもなく、それは生物にとって最大最悪の攻撃魔法。
血球は複数の棘を突き出した。
体内から外の世界に向かってあらゆる方向から幾つもの棘がサリユを串刺しにする。
サリユは抵抗する術もなく、その攻撃を甘んじて受けるしかなかった。
抵抗することも出来ず、サリユは体内に生じた『血絶』によって、まさしく針のむしろに苛まれる。
苦しみは一瞬。
痛みも一瞬。
その一瞬が――全てを決めた。
勝敗を決めた。
一縷の望みに賭けたアリスが勝利した。
形勢はずっとサリユに傾いていた。
だが、勝ったのは――
「恐ろしい魔法だな。その身に受けたら確実に俺は死んでたな」
串刺しになったイヌの声が聞こえる。
聞こえるはずのない声が――
「けれど、その魔法を使ったってことは俺を本気で殺そうとしたのか? まあ、いいけど」
殺そうとしたのはそっちも同じじゃないか、と悪態などつけない。
それよりも、この声は――
「どうだ? 本気になれたか? 欲望に忠実になれたか? お前のしたいことを知れたか?」
炎の獣はそこにいる。
世界が塗り替わる。
見ていた世界が嘘のように、その世界は――ここはどこ?
炎が舞い踊る。『炎獄』は消えていない。
そうだ、隙などない。
形勢など変わっていない。
世界は何も変化していない。
アリスは幻覚を見ていた。
全てはまやかし。
それがこの異能の力。
――『幻日』は領域魔法である。
あそこで彼女が勝てる選択肢は一つ。『血脈繋がる血卵の呪い』を使うしかなかった。
炎が揺らめく中、一人と一匹は対峙する。
炎獣は笑う。吸血姫は睨む。
しかし、炎獣はそれ以上、煽りはしない。
もし、冷静さを欠いて一心不乱に突貫でもしてきた場合、サリユにはその攻撃を避けることができないのだ。
それが『幻日』を使用する際のデメリット。
『幻日』を使用した後、相手が攻撃してきた場合、その攻撃は絶対に受けなければいけない。
これは誓約である。身体を縛る誓いである。
だからこそ、サリユはアリスに攻撃してもらっては困るのだ。
攻撃してくる前に片を付けなければいけない。
言葉を交わすこともせず、サリユは『火の一線』を繰り出した。
炎獣化したことでその威力は通常の十倍。火というには厳めしい炎の射光は灼熱の美しさを纏い、放射線となってアリスに向けられる。
アリスはそれに対して『血壁』を展開。
防ぎ切れるとは到底思わない。なので、防御しつつ、攻撃を加える。
『血壁』の中心から『血の一線』を放射。サリユの『火の一線』に対抗した。
だが、それはサリユにとって最悪の一手だった。
(ここで、か。確かにその一手は正しいが……。案外、焦っていないのか?)
アリスの『血の一線』は『火の一線』を貫通し、そのままサリユの身体に直撃した。
(これで一つ……。あと、もう一つか)
『幻日』を使用したのは計二回。あと一回だけ無条件で相手の攻撃を受けなければいけない。
だが、相手のダメージも相当なものだろう。『炎獄』によって常時ダメージを追っている状態であり、立っているのもやっとだ。
このまま主導権を相手に渡さない。
一方アリスは『血の一線』がサリユに命中したことに驚いていた。
威力は相手の『火の一線』の方が圧倒的に高かった。しかし、単純な力関係を跳ね除け、自分の攻撃が打ち勝ってしまった。
その理屈は分からない。
だが――好機だ。
アリスは『血弾』を連続発射。
ここに来て、アリスが最適行動をする。
連続発射、これが一つの攻撃と認められ、サリユはその全ての『血弾』を身に受ける。
(最悪だ。やばいな……けれど……)
そう、この感情はなんだ?
勝利を目前に最後の最後、逆転の目を見い出され、勝敗はまだ分からなくなった。
今、この場で相応しい感情は焦りのはずだ。
しかし、だというのに――
――楽しい
自分はどうしてしまったのだろう、と不思議に思う。
ここまで戦闘狂だったろうか。
いや、違う。
サリユは戦いを好んでいるのではない。
感情と感情のぶつかり合い。
そうだ、これが関わるという事なのだ。
前世では考えられない。
唯一の親友とだけだった。
だが、今、自分は他者と関わっている。
それがこれほどまでに感情を昂らせるのか。
アリスの表情を見る。
彼女の表情は嬉々としていた。
サリユと同じ表情。
同じ感情。
同じ欲望をもって、ここにいる。
そうだ。今この時は通じ合っている。
イヌと吸血姫、一生関わり合わないあべこべの二者は、今、感情を――交わらせている。
「そうだ! それだ! もっとお前は自分の欲望に忠実になるべきなんだよ。もっと我が儘に! けれど逃げずに! 子供でなく、大人として、真の自由を謳歌しろ!」
それだけだ。それだけだ。
それでいい!
アリスの中の何かが崩れ去る。
いや、それは消えるべきものだった。
けれど、変わらないことを選び、大切なものでもないのに大事に大事にしてきたもの。
それを今、彼女はようやく手放せた。
強引だ。
無理矢理だ。
戦うことで解決しようなんて野蛮でしかない。
なのに、どうして。
「行くぞ!」
「はい!」
サリユからの声にアリスは精一杯の声を返す。
その顔がいい。
美しい。
魅惑的だ。
魅力的だ。
それこそ吸血姫に相応しい。
いや、アリス・ヴリコラカス・セミルメラに相応しい顔だ。
サリユはアリスの顔を見て笑みをこぼす。
アリスは巨大な血球を出現させ、『血刃』を展開させる。
もう一つ、血球を生み出し、そこから『血弾』を装填――そして発射。同時に二つの『血刃』もサリユに向かって疾駆する。
それに追随するようにアリスも走る。両手に『血剣』を携えて――
対してサリユは『狼王への謁見』を発動。
アリスの行動を鈍化、その猶予を使い、残り三つの『七曜』で『火の一線』を放射する準備をする。
サマンサ・ヴァンプを倒した時と比べて三つほど火球は少ないが、それでも、『炎獣化』の効果でその威力は絶大なものへと高められている。
まず『血弾』がサリユを襲う。
サリユは『炎獄』の範囲を狭め、『血弾』を蒸発させる。
次は『血刃』だ。これは時間経過によって弱まった『炎獄』では止められない。『火の一線』は使えない。あと使えるのは……尻尾だ。
炎を纏いし尻尾を硬質化させ『火の剣』で『血刃』一気に二つ、横一線に両断する。
あとはアリス本人だけだ。
アリスは走る。
『血弾』も『血刃』も、どれもが霧散しようと構わずに走る。
手に持つは二刀の『血剣』だ。
最後は接近戦。
しかし、それはこちらにとって好都合。
剣が届かないギリギリの距離を狙って、その距離に達した瞬間、『七曜』の『火の一線』を放つ。
それでサリユの勝ちだ。
だが、アリスは最後まで足搔く。
サリユの予想を裏切り、三つの『火の一線』を放つ直前、アリスは『血剣』を形状変化させ、『血剣』だったものを『血の一線』へと変え、サリユに向けて放射する。
サリユにとって、それはこの戦いにおける初めての驚きだった。
予想を超えた。
最後の最後、極限状態の中、彼女はまだ諦めず、希望を見出していた。
「いいぞ……いいぞ! アリス!」
アリスの『血の一線』とサリユの『火の一線』が衝突する。
『血の一線』は二つ。
しかし、『火の一線』は三つ。
一つ足りない。
いや、数だけの問題でもない。
威力も拮抗とはいかず、『火の一線』に軍配が上がる。
だが、最後の手、あれは妙手だった。
誇っていい。
お前は――強い。
二つの『血の一線』は『火の一線』に打ち破れ、消えていく。
そして――三つの放射線、『火の一線』は一直線にアリスに向かった。
「ああ、負けました」
アリスは気持ち良さそうに呟いた。
負けたが……清々しかった。
こんな感情初めてだ。
アリスは炎をその身で受ける。
燃やされる。焼かれていく。焦がれていく。
彼女の身に巣食っていた何かは焼失した。
――イヌと吸血姫の戦いが終結する。




