022話 吸血姫/彼女の本心
「ああ! いと尊き御方。後光がさしておられます。いえ、本当に後光がさしていますと悪魔としては忌み嫌ってしかるべきなのですが……。いや! あなた様の後光であれば私、全力でその光、浴びさせていただきます!」
「あ、ああ、そうですか……」
突然現れたナイスミドルは何故だかサリユに感謝を述べたかと思ったら、途端に膝を崩して感涙に咽び始めた。
その姿は一種、狂信者のようにも見え――または危ないクスリでもやっているのでは、と疑いたくなるほどに彼の様子は――おかしかった。
「お前は……何者だ?」
突然の出来事、唐突な彼の行動に気圧されて――というか引いているのだが――彼が何者か、その疑問を問う機会を逸していたが、満を持してサリユは質問をした。
サリユの問いに男は慌てふためく態度を見せて、膝を屈した態勢のまま上半身の姿勢を正した。
「自己紹介もろくにせず、自分が言いたいことばかりのべつ幕なしに言ってしまい、大変申し訳ございません! 私、ルル・シンリと申します。以後お見知りおきを、というか、永遠なるお見知りおきを」
「永遠って……。それで、お前の目的は? 見たところ……悪魔? と見受けるが?」
「おお、なんと! 私の正体を看破されるとはさすが至高なる御方。そうです! 私は悪魔でございます!」
「ああ、それは分かってる」
(謎の声さんのお陰もあって、鑑定は完了してるからな)
しかし、その一端である種族しか知ることは出来なかった。
ステータスや所持魔法、スキルに関しては一切が分からない。
鑑定の妨害を受けている印象ではなく、これは単にサリユと同等、それ以上の実力だということだ。
だとしたら、何故――という疑問が生じるのはごく自然のことだろう。
それほどの実力者が何故、サリユに跪く態度をとっているのか。
表面だけを見ればただの変態――頭のねじが外れたおかしな人物と認識できなくもない。
だが、その内に潜む実力の可能性を知れば、その態度が何か別の目的があっての行動と推測するのは至極当然のことだ。
ルル・シンリ、彼の目的は?
しかし、そのような目的、隠して然るべきものだ。
まずもって話すわけがない。
期待せずに質問したサリユはいつでも戦闘してもいいように隙を見せず、油断せずに男の動きに注意していた。
だが、対して男――ルル・シンリは余裕を見せているのか、隙だらけの態勢で膝を屈する姿勢を崩さない。
その様子は本当にサリユを崇高なる存在として敬っているようにも見える。
(でも、そんなはずないよな……)
ここまで怪しい人物が怪しくないわけがない。
怪しい可能性がある時点で、その相手には何かしらの思惑、自分のメリットを考えているのである。
彼に何かしら目的があるのは自明だろう。
だが、彼の態度を見れば見るほど、これが演技だとは正直思えなかった。
跪く態勢を一向に解く気配もなく、その顔は今この瞬間ここにいるだけで幸福だ、と言わんばかりに蕩けていた。
なんというか、大の大人がイヌに対してする態度ではない。
はたから見ればこの光景は奇怪そのものだろう。
それをただ目的遂行のための演技と捉えるには羞恥心などの感情を廃しすぎている。
それとも悪魔には感情がないのか。
よく聞く文句ではあるが、さてどうだろうか……?
「で、目的はなんだ? 何故俺たちに近づいた?」
聞きたい答えが返ってくるとは微塵も思っていないが、一応聞くに越したことはないだろう。いや、こうも直球で問い掛けるのは悪手か?
警戒せずに率直な質問をする、という点では相手の油断を誘うことも出来そうだが……。
いっそのこと、その油断の隙にやってしまおうか?
いや、だめだ。
未だ、相手の底を測りかねている。情報が何もない状態で戦闘を行うほどサリユは愚かではない。
サマンサ・ヴァンプの時は相手が完全に敵であると判断できた――そもそも戦う以外に選択肢がなかった――ので戦闘をしたのだ。
できるのであれば無駄な戦いは避けたい。
戦うとしても最小限の力で勝利を収めたい。
全力を尽くした戦闘の後、そのまま連戦になる場合も想定できる。
今この時でさえ、いつ吸血帝が襲ってくるとも限らない。
だからこそ、この場で男の油断した際の隙を狙う選択肢をとることは出来ない。
今ここで無理に戦闘を引き起こすメリットがデメリットを上回らないのだ。
ここは少しでも相手の情報を得ることに専念しなければ――でありながら、いつでも戦闘できるように、相手に悟られずに身構えていなければいけない。
いざという時は『狼王への謁見』をすぐさま発動し、逃走することも念頭に置いておかなければ。
様々な逡巡の上、サリユは相手の動きに注意して、悪魔の返答を待った。
悪魔はサリユの言葉に「これは失礼しました!」と焦りとともに自身の失態を恥じるように頭を下げ、質問の返答をした。
「私の目的はあなた様にお仕えしたい――この一つにございます! なにとぞ、あなた様の従僕、部下の末席に加えていただければと存じます!」
「じゅ、従僕⁉ 本気か?」
「それはもちろん!」
正気の沙汰ではない。
怪しいどころではないだろう。
突然、部下に加えてほしいなどと信じられる奴の方が気が狂っている。
なんだ? この悪魔の真の目的は?
何を企んでいる?
しかし、悪魔の次の発言でサリユはさらに混乱することになった。
「突然の申し出、そのように困惑されるのも当然と思います。まずもってこのような見ず知らずの悪魔、すぐに信じろという方が難しいでしょう」
(ああ、その通りだ)
「ならば、ここに主従契約を私と交わしていただきたい!」
悪魔は事前に用意していたのか、懐から一枚の紙を取り出した。
「羊皮紙に書かれたこれは、魂に刻まれる契約です」
呪術契約の一種。
神話の時代、人間と悪魔の間に交わされた契約の一つである。
人間が黒魔法と召喚魔法を混成することで召喚された悪魔。
その悪魔が人間の頼みを一つ聞く代わりに、こちらも一つ人間に代価を支払わせるために生まれた呪術魔法。
それは魂に刻まれし契約であり、違えることは叶わず。
言葉で、身体で拒否したとしても魂がそれを許さない。
魂は人間のあらゆるシステムの中枢に位置する根源的な小さき宇宙である。
「これでも信じてもらえないのであれば誓約によってこの身も従属いたします」
悪魔にとって身体とは器であり、それを取り換えることは容易である。ただし、何百年、何千年と馴染んだ身体は魂とのシンクロ率も高く、長生きの悪魔ほど誓約は自身の力を人質に取られることと同義である。
《鑑定……。悪魔からの承認により鑑定が可能。閲覧推奨》
なんと、悪魔から自分の情報を開示してきた。
本当に何を考えている?
その内容は驚愕のものだった。
この悪魔はアリスと同様に神話の時代から存在している。
魔物はその生きている年月によって内在する魔力量や所持魔法の数などに影響がある。
単純に長生きの分、強いということだ。
その点、この悪魔は桁違いの強さを誇っている。
魔力量もアリス並みであり、所持魔法は見たことのないものが幾つも羅列されている。
そして種族は……。
(悪魔執事?)
悪魔の最高種族は言わずもがな『悪魔王』である。
しかし、彼の種族である『悪魔執事』は通常の進化過程では行きつかない種族である。
詰まるところ、『悪魔王』になりえる存在でありながら、それを蹴って『悪魔執事』の種族を手にしたのである。
基本ステータスもスキルも当然『悪魔王』の方が強力である。
なので普通であれば『悪魔執事』という選択肢をとる悪魔はいない。いや、そもそもこの選択肢まで進化できる悪魔がほとんどいないのだが……。
(よく分からない。本当に分からない……)
知れば知るほど目の前の悪魔が何を考えているのか分からなくなる。
いや、この情報が偽証である可能性もある。
魔法で自身の情報を書き換えることは可能だ。
だが――
本当にサリユに従属したいというのだろうか?
しかし、そんな存在がこの世にいるのか?
自ら従属する存在が……?
それもこんな犬ころに?
悪魔が……?
だが、魂の契約までするメリットは――純粋にサリユに従属したいという目的以外に考えられるだろうか?
従属というのが目的のための行動ではなく、それが目的そのもの……だというのか?
そんな歪な願望がこの世に存在する――?
(いや、否定しちゃ悪いか。それこそ願いの形はそれぞれ……)
サリユは最終確認として謎の声に質問した。
(あの紙に書かれているのは本当か? 本当に俺に従属を示すものか?)
《確認……。間違いなく従属を誓う呪術契約です。個体名サリユのサイン、血判をすることで契約魔法は発動されます》
謎の声曰く、ルル・シンリに嘘はないようだ。
なら――
「契約するか? ルル・シンリ、お前を俺の部下にする……か」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」
ルルは今までの生の中でこれほどの幸福があっただろうか、と感激しながら涙を流してサリユに感謝の言葉を告げた。
しかしそのやり取りに、今まで彼らを傍観していたアリスが割って入った。
「待ってください! 本気ですか! 相手は悪魔ですよ? こいつの言っていることを信じるんですか?」
「そうだな……」
そう、アリスの言はまったくもって正しい。
けれど、契約、誓約、そして彼の言動、それらすべてを鑑みた上で、この場で演技をするメリットをサリユは見出せなかった。
今では彼の言っていることは本心からのものであるとさえ思っている。
普通に考えればおかしい。
何か裏がある。
だが、突き詰めて考えれば考えるほど、この悪魔は純粋に――
おかしい奴なのではないか?
そのような結論に至ってしまう。
だからこそ、サリユはもう考えることを諦めたのである。
「大丈夫だ。こいつはこういう奴なんだろう。俺は信じるよ。それに仲間は欲しいところだったんだ」
「それなら私が!」
「アリスが……?」
「い、いえ……。で、でも! 信じられません! そもそもお前はどこから来た! 何故ここにいる!」
何故かアリスの態度がこの悪魔に対しては厳しかった。
サリユに対するそれとは大きく異なる。
「…………」
「言えないのか! 何か後ろめたいことがあるから言えないんだろ!」
実はサリユも気になっていたことだ。
何故第八階層にいるのか。
アリスの詰問にルルは目を細めて、険しく眉根を寄せた。
「いえ、言えます。後ろめたいことは……あるのかもしれません。しかし、それは誤解されるリスクを考えてのことです。あなた様に誤解され、従属を反故にされるのが……嫌なのです」
「自ら従属したいなどと……意味の分からないことを!」
「理解してもらおうとは思いません。ですが、これは真の意味で私の願望なのです。生まれてからずっと思い続けた願いなのです」
「頭がおかしい! それが本当なら……お前は――!」
「やめろ、アリス」
「……!」
サリユの制止にアリスは目を見開き、唇を噛んだ。
「ですが……! これはサリユ様のため……」
「本当に俺のためなのか?」
「そ、それは……ほ、本当ですよ?」
「そうか」
「……はい」
顔を俯かせ、サリユから視線を逸らす。
その言葉は、それこそ本当なのだろうか?
「それで、えっと……ルル・シンリといったか?」
「よろしければルルとお呼びください」
「そうか。ならルル、お前は何でここにいるんだ? それは俺も気になる」
「……そうですか。未来の主がそうおっしゃられるなら、嘘偽りなく真実をお話しします」
「そうしてくれ」
「はい」
ルルは土下座の姿勢をやっと解いて、しかし片膝はついたまま、未だサリユを見上げる態勢で話を続けた。
「私はセルジュ・キルク・クローノスという人物の頼みでここに来ました」
「セルジュ……? お前! やっぱり敵だったか! パパを……! パパを!」
「アリス! 落ち着け。冷静になれ」
「でも!」
「アリス!」
サリユは『狼王への謁見』を発動させた。
アリス相手には行動を止めるほどの効果は発揮されない。しかし、動きの鈍化、そして精神への多少の影響はあるはずだ。
サリユの見立て通り、アリスは「すみません」と言って荒げた呼吸を整えた。
「ルル、話の続き、お願いできるか?」
「ええ、お望みならば幾らでも。セルジュという人物は昔からの友人……というには気心も知れてませんので知人程度の関係でしょうか。そこまで深い仲ではありません。しかし交友関係が希薄である私にとっては数少ない知人なのです。なので、セルジュの頼みはたまにではありますが聞いていました。私は悪魔の身、時間は無限にあると等しいので……暇なのです」
ルルは微笑みを交えてサリユの顔を見上げる。その表情は優しいものだった。
しかしそれを見て横のアリスは眉間を狭め、ルルを睨んだ。
どうにもアリスはルルのことを――存在そのものを毛嫌いしているようだ。
最初の印象とはそう拭えるものではない。
ましてや未だに彼のことはよく分かっていない。
そんな中、サリユはアリスほどルルの印象は悪くない。
先程まではアリス同様にルルのことを疑っていた。
だが、考えて出た結果がルル・シンリという存在を受け入れるというものだったのだ。
そうしてからは不思議なことにルルに嫌悪感を抱いていない。
変な奴だとは思うが……。
サリユはアリスの表情に嘆息を吐きながら、ルルの話の続きを聞いた。
「セルジュの頼みはシンプルでした。ただ地下迷宮ヴィグリスの第八階層に行って、吸血帝に会ってきてくれ、と」
「それだけなのか?」
「はい、それだけです。正直セルジュが裏で何を企んでいるのかは分かりませんが、まあ、暇だったのでその頼みを引き受けたのです。それが百年ほど前だったでしょうか」
「百年……それからずっとか?」
「はい。吸血帝……というかグリーセスと呼んだ方がよろしいでしょうか? 彼と話すのが思いのほか楽しかったので、ちょくちょく第八階層には来ていました。今日もそれで来ていたのです」
「そういうことか」
(ここでもまたセルジュか……)
大魔法使い――彼は何を企んでいるのだろうか。
アリスの件に関しても元々を辿ればセルジュが関係している。
確かにそのセルジュの関係者と分かれば、アリスのように冷静さを欠くのも頷ける。
「やっぱり! お前は信じられない! 本当はセルジュに何を頼まれたの? それとも……いいや、そうだ! お前ら、グルだろ! 最初から手を組んでパパを!」
「いいえ、私はセルジュに吸血帝に会ってくれ、とそれしか頼まれていない」
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
「信じられない!」
「……はぁ」
ルルはアリスの激情に呆れた表情で溜息を吐いた。
「なに、その態度?」
「いいえ、少し馬鹿々々しくなっただけです」
「……!」
「それより、私はお前に認められようとは思っていない。うるさいから黙っていてくれないか?」
「私は……! 私はサリユ様のために……!」
「本当にそうなのか? 先程も主が言っておられたが――待ってください! それより! 少し前から気になっていたのですが、あなた様のお名前はサリユ様なのですか?」
「ああ、そうだが? 気軽にサリユって呼んでいいぞ」
「おお! なんと! こんな会って間もない私に寛大なる御心遣いありがとうございます!」
「ちょっと!」
アリスは自分が置き去りにされていることに苛立ち、ルルに対して声を荒げた。
「うるさい。大きな声を出さずともお前の声は聞こえている。まあ、そうだな。話を戻そう。本当にサリユ様のためを思って、私を疑っているのか?」
「そうだ! それ以外なにがある!」
「何がある? つくづく私を怒らせるのが上手いな、お前は。それが真実でないことぐらいサリユ様も気づいておられるでしょう。しかし我が主はこの世界よりも大きな寛容さをお持ちなのだ。その慈悲をここまで無残に踏み潰すとは到底許されることではないぞ、小娘!」
その威圧は最初に現れた時以上のものだった。
意識して出した威圧だからだろうか。そこに練りこまれている魔力の質がとても重い。
流石のアリスもその威圧感には身を震わせた。
だが、アリスも負けじと魔力のオーラを放つ。
「ほう、確かに膨大な魔力量だ。それだけならばれっきとした神話級だ。けれど――それだけなのだよ。まだまだ、未熟だな」
ルルは放った威圧の形を変化させた。
形――そう、威圧の形とでも言えばよいのだろうか。
放つオーラを収束し、アリスに向かって一点に集中放射させる。
それをまともに受けたアリスは身体をわなわなと震わせ、その事実に驚愕の表情を見せた。
「分かるか、小娘? 熟練された魔力操作はこの域まで達することができるのだ。お前のそれはただの放出だ。小物ならばそれで怖気づくかもしれない。しかし、私には……ましてやサリユ様には通用しない」
「なに? なに? なんで……!」
「見苦しい。何故そんなにも目を逸らす? それをサリユ様のせいにするなど万死に値する」
「いや、俺はそんなに怒ってないぞ」
「おお! 慈悲深いサリユ様! こんな小娘にも寛大さを向けられるとは! 素晴らしい!」
こいつは……本当に……。
会って数分の相手だが、こいつの性格が何となく分かってきた。
こいつはサリユの前ではどこまでも本心を話しているのだ。
逆に――
「それで? いつまで偽り続ける? うん? いや、それとも自覚がないのか? だとしたら余計、たちが悪い。その醜さ、見ていて気分が悪くなる」
「どういうこと! 私は何も……!」
「やはり自覚がないのか。本当に醜悪だ。サリユ様の横に立っているのが本当に――憎らしい」
「何を言ってる! 訳が分からない!」
「思考停止だな。頭を使わないというのは幼子だけの特権だぞ? まさかその年で未だ子供と言い張るのか?」
「私は子供じゃない!」
「だったら、何故!」
何故……。
――父に会いに行かない?
ルル・シンリの言葉がどこまでも鋭くアリスの胸を貫いた。
そう、そこに行き着く。
怖い?
自分が父を助けられない事実を知ることが――怖い?
なんだ、それは。
意味が分からない。
繋がっているようで、繋がっていない。
そんな意味不明な理由を納得できるわけがなかった。
父グリーセスを助けに行った時点ではまだ彼女にも意志が存在していた。
しかし、自分の力ではどうしようもない相手と対面して、冷静に――悟ったのだ。
憤怒も、情熱も、希望も、全ての熱が冷やされて、そして不安が生まれた。
本当に父に会えるのか?
そう――『自分が知っている父』に会えるのか、と。
そこにはもういないのではないか。
父ではなく、そこにいるのは吸血帝なのではないか。
それが怖かった。
その事実こそが嫌だった。
だから停滞を選んだ。
進まないことを選んだ。
希望を見るのをやめた。
未来を思い描くのをやめた。
だから過去にしがみついた。
だから第七階層のあの家に留まった。
思い出が詰まったあの家に……。
もうそれだけで、幸せだと言い聞かせて――
目を逸らし続けて百年を生きたのだ。
「アリス……ずっとそこに居続けるのか?」
「……はい? どういうことですか? 言っている意味が分かりません」
「小娘! サリユ様がここまで――」
「いいよ、ルル」
サリユは怒りを向けるルルを止めて、アリスに優しく微笑みを向けた。
「……どうしてそのような顔をなさるんですか、サリユ様……」
「イヌの表情なんかわかるのか?」
「…………」
アリスは一筋の涙を頬に描き、サリユに何かを懇願するように苦渋の顔を向ける。
自分でも分からない。
何をどうしたいのか。
だけど、それを言えない。
口にはできない。
プライド? 体裁を保つ?
胡乱な意志が邪魔をする。
その意志にいくらの価値があるのか。
分からない。
けれどそれを頑なに信じている。
意固地になっている。
それはまさに――子供のように。
「私は……」
「小娘、お前の役目はなんだ? 今この場での役割はなんだ?」
「それは……サリユ様に道案内を――」
「ならば、それは私が代わろう。というか元よりそのつもりだ」
「お前なんかに任せられるか!」
「……? それはお前が決めることではない」
ルルはサリユに視線を向けた。
それに対してサリユは頷く。
「ルルでも大丈夫なら、ルルに任せるが?」
「えっ⁉ ど、どうしてですか? こんな怪しい奴……」
「さっきも言ったが俺はこいつを仲間にしようと思うんだ。だったら案内役をルルに任せる方がいいだろう? これ以上アリスに迷惑かけたくないしな」
「私は! 私は迷惑なんて!」
「でも、実際手を借りてる。借りる必要のないものは借りるものではないだろ? お返しも出来ないしな」
「お返しなんて! そ、それに! そもそもこの第八階層からは抜け出せない。扉は閉ざされているんですよ!」
「ああ、それに関しては――」
アリスの言葉に対してルルは彼女には視線を向けず、サリユに自身の声を届けた。
「それに関しては問題ありません。あの扉の細工はサリユ様には一切影響ありません」
「どういうこと!」
ルルはアリスの声に反応しなくなった。彼はサリユにしか視線を向けない。
「第九階層への扉には確かに吸血帝の魔法が施されています。しかし、その魔法には発動対象があるのです」
「対象?」
「はい、そこの」
ルルの視線がようやくアリスの方へ移動した。アリスにとっては向けられたくはないタイミングだったが――
「まさか、私だけ?」
「そうだ。お前だけだ。お前だけを閉じ込めるための魔法だ」
「そんなの……なんで……」
分からないのか、アリス。
吸血帝の――いや、君の、アリスの父親の願いが――
いや、それはアリスの父の願いでもあるし、吸血帝の呪いでもあるか。
「アリス――」
サリユの声に反応してアリスは震えた喉を自覚しながら、溜飲する。
胸やけが激しい。気持ち悪い。
やめてください。
その先の言葉は分かっている――分かりたくないのに。
「ここまででいいよ。世話になったな、アリス」
「さ、サリ、ユ……様……」
待ってください!
待ってください!
どうして突然こんなことに?
どうして?
どうして!
「そうだ……。この悪魔が……」
この悪魔が来てから……!
「お前が、お前が来てからだ!」
ルルに向けて幾度目かの怒りの瞳。
サリユと一緒の時はこんなにも感情を露わにはしなかった。
どこまでも大人のように――振舞っていた。
だが、綻びは一瞬で大きな崩壊に変わる。
「『血壊』!」
小さな血の塊――球体をルルに向けて放った。
それは血の爆弾である。
「ほう」
しかし、突然の攻撃に対してルルは余裕の表情だった。
「『重圧』」
ルルに近づいた無数の『血壊』は次々と爆ぜる――はずだった。
ルルが身動き一つせずに魔法を発動した瞬間、『血壊』は爆ぜることなくそのままドロドロの液状となって地面に落ちた。
「なんで」
あの剣士でさえ斬ることでしか対処できなかった。
しかし目の前の悪魔は身体を動かすこともせず、一言、魔法を唱えるだけで『血壊』を打ち破った。
アリスはすぐさま剣士の時と同様に埋められようもない実力の差を感じた。
自分ではこの相手に勝てない。
その冷静さだけは自己嫌悪に落ちたくなるほどに正常だった。
しかし、あの時のようには引けられない。
せっかく会えたサリユに……。
独りはもう……。
アリスは気を引き締めて、ルルを視界に据える。
これが自分勝手であることも、サリユのためでないことも分かっている。
けれど――
「ここまでして、まだ諦めないのか? 本当に醜悪だよ。その姿、見ているこっちが恥ずかしくなる」
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!」
激情するアリスにルルは首を振って、これは処置なしと判断した。そして、徹底的に痛めつけてやろうと決めた。
しかし、そんなルルの前に一匹のイヌが――サリユが割って入る。
「我が主!」
「お前はそこで見てろ」
「……! 承知しました」
サリユの放つ威圧感を感じ取り、ルルはおとなしくサリユの後ろへ控えた。
そのオーラはルルに負けず劣らず、凄まじい魔力の質だった。
量もさることながら、その魔力はどこまでも研ぎ澄まされている。
ルルはそんなサリユの魔力を見るだけで、えも言われない幸福感を胸に抱く。
「ああ、やはり、やはり素晴らしい! この世全てを内包せしは我が主……!」
そんな幸福に満ち足りた表情をするルルに反して、アリスは固唾を飲んでその姿を見つめていた。
「どうしてですか? どうしてサリユ様が!」
「はあ、そうだな……。どうしてだろうな?」
正直、あまり深く関わるつもりもなかったのだが、どうして彼女にここまで――
その答えは何となくサリユには分かっていた。
「お前の性根を叩き直してやるよ、アリス!」
「サリユ様……! どいてください! その悪魔はあなたを騙してる!」
「だったらそれを証明してみろ。俺を倒して!」
「なんで! 意味が分かりません!」
「いいだろ。もうめんどくさい。言葉をひねくり回すのも、屁理屈を述べるのも。だから手っ取り早く、暴力で解決しよう」
「そんなの……そんなの……!」
混乱しているアリスにサリユは鼻を鳴らして挑発する。
「どうした? 怖いのか? こんなイヌ一匹に怯えているのか?」
「それは……そんなわけ……!」
それが挑発であることぐらいアリスにも理解できていた。
しかし、もう沸点はとうに超えていた。
自分がどうしたいのか、もう分からない。
何故サリユと相対しているのか、この現状も分からない。
けれど――
「私は強いですよ。サリユ様なんか一捻りです」
「だったらやっとみろ」
「手加減しませんから」
「御託は良いからかかってこい!」
「……!」
アリスはサリユの言葉を開戦の合図とし、その瞬間――そう、それはまさしく一瞬という時間概念に相応しい速度でサリユとの距離を詰めた。
そして――イヌと吸血姫の戦いが始まった。




