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異世界イヌ  作者: 双葉うみ
地下迷宮 吸血姫編
23/57

021話 化物と悪魔

「なんて、素晴らしいのでしょう!」


 ルル・シンリは灰色の城から樹海を見下ろしていた。

 彼が眺めているのはとある一匹のイヌ――


「あのお方こそ、私が幾千年、待ち侘びた……仕えるべき主人」


 口を半開きにしながら、蕩けた表情で、その恍惚とした光景を眺望する。


「腐った吸血鬼どもを、ああも容易く制圧されるとは……」


 セルジュの実験体だった死体たちはこの灰色の城に持ち運ばれ、グリーセスのスキルによって吸血鬼の出来損ない――ゾンビになった。

 確かに純粋な吸血鬼ほどの力はないが、あの吸血帝の眷属なのだ。そこらの魔物よりも基礎能力は高い。

 しかし、そんなゾンビどもをいとも容易く、赤子と戯れるように無力化した。

 そんな存在がルルのすぐ近くに……。


「ああ! 行かなくては! 早くあの方にお仕えしなければ! あの方に頭を下げ、あの方のために働き、我が純朴なる従属心を! 忠誠心を! あの方に示さなければ!」


 ルルは灰色の廊下を駆け足で走って、仕えるべき主人のもとへ向かった。

 いつもはクールさを保ち、一切の取り乱しをしないルルが、今は死に物狂いで、走り方など気にせず、真の意味で必死に走っていた。

 それは全て、自身の根源的な願望のため――


 生まれた時から芽生え――しかして、生まれてこの方、叶わずにいた唯一の願い。


 ――希望


「今日この日ほど世界が美しいと思ったことはない! 初めての感謝を! 世界よ! ありがとう!」


 ルル・シンリ――彼の瞳は生まれて初めて輝いていた。



――――――――――――



 黒き沼から這い出てきたのは――化物だった。


「グヘッ、グヘッ、グヘヘヘヘヘエエエエエエェェェェェェェェ!!!!!!」


 不気味な笑い声を腫れぼったい唇から発する。

 開いた唇からは所々抜けた歯――欠けて形が歪になった汚れた歯が垣間見えた。

 何色の感情もなく、その笑いも――楽しい、おかしい、そのような気持ちから生じるものではない。


 禍々しくあれ、と。

 醜悪であれ、と。

 反吐が出るように汚らしくあれ、と。


 それは――在り方だ。

 かの化物の在り方がそうなのだ。

 それがあの化物の常識であり、普通なのだ。


「なんだ、あれは……?」


 見たところ、ゾンビたちを贄にして召喚された化物なのだろうが、アレも吸血鬼の一種なのか?

 それにしては異形だ。

 常識的な生き物のようには見えない。

 それは今までの魔物と比べても、その異形さが際立つ。

 

《検索……。該当、吸血鬼の亜種――『吸血異形恐怖(サマンサ・ヴァンプ)』との一致率97.6%》


 サマンサ・ヴァンプ。

 それはこの世界でさえオカルトじみた存在として有名だ。


 親が子供に言った。

 良い子にしていないと夜中にサマンサが家にやって来て、食べてしまう、と。

 よく聞く、子供の躾をする際の常套句だ。

 それだけならいい――


 魔法師の師は弟子に言った。

 魔法の過信は一国を滅ぼす、と。

 魔法が扱えるというだけで、魔法を使えない者を見下し、差別したうぬぼれ屋。

 そんな自信家は自分の力を認めてくれない周りの者を見返そうと召喚儀式を行い、その力をもって、自身の価値を誇示しようとした。

 しかしその儀式で召喚されたのが――

 翌日、国は瓦礫の山と化していた。

 その歴史は抹消され、どの文献にもかの化物の正式名称は確認できない。

 ただ、サマンサ、と……。


 伝説に名高い化物。

 英雄伝説にも神話にも登場しない。

 しかして、サマンサという呼称は文献で散見される。

 それが何者か、何を成したのか、誰にも分からない。

 現代にはいない――しかし昔々には存在していたかもしれない。

 誰かが創った創作物。

 しかしそれにしてはフィクションにしても蒙昧すぎる存在。

 だが――いたはずなのだ。

 かの化物は……。

 恐怖とともに今でも語り継がれているのだから。


 そんな存在が今、サリユたちの目の前に立ち塞がっていた。

 気味の悪い笑い声を一向に止める気配もなく、ニヤニヤとこちらを観察している。

 

「なんだこいつ? 攻撃してこない? どういうつもりだ?」

「分かりません……しかし、とても危険な状況であることは分かります」

「だな」


《危険レベルB。伝説級です。権獣以上、王獣同等の魔力を感知。しかし記録にあるサマンサ・ヴァンプには遠く及ばず――サマンサ・ヴァンプの雛と推測》


(ということは、完全体のサマンサ・ヴァンプはこれ以上っていうのか? おいおい、やめてくれ)


 ゆっくりと息を吐き、頭上から見下ろす不気味な化物に視線を合わせる。

 先手を打つ。

 相手から攻撃が来ないならば、待っている道理もない。

 サリユは自動発動した『精神安定化』により、緊張を霧散させ、魔力を身体の中心に集中させた。


「行くぞ! アリス!」

「は、はい!」


 サリユは掛け声と同時に『狼王への謁見(デベモス)』を発動させた。

 魔法の効果によってサマンサ・ヴァンプが悲痛な顔を浮かばせ、大声で喚いた。


「ワアアアアアァァァァァァ!!!!」


 サマンサ・ヴァンプの喚き声によって空気が振動する。

 が鳴り声が汚らしく鼓膜を逆撫でした。


「嫌な声だ」


 サマンサ・ヴァンプの声には何かしらの魔法効果があるのだろう。『狼王への謁見(デベモス)』によって動きを鈍くさせようとしたのだが、このように喚き散らされると逆効果だったか?

 しかし、目的の動きの鈍化は成功している。


 横を見ればアリスがサマンサ・ヴァンプの声によって苦しそうに顔を歪めていた。

 サリユは『精神安定化』のスキル効果で耐性があるが、アリスには辛いものなのだろう。

 だが、チャンスは今しかない。


「アリス!」

「大丈夫です!」


 サリユとアリスは同時に疾駆し、サマンサ・ヴァンプに接近する。

 サリユは駆け足でサマンサ・ヴァンプの身体をよじ登り、頭部に嚙り付いた。

 そのまま間髪入れずに『火の一線』を口から放つ。


「ウギャアアアアアアアアァァァァァ!!!」


 化物は苦渋の顔を浮き出し、痛みに耐えきれず呻き声が止まらない。

 サマンサ・ヴァンプの頭部は鈍く赤く変色し、熱されていく。

 そのたびに痛みが神経を超えて脳を苦しめる。


 化物はサリユを振り払おうと、必死に頭を振る。

 しかし、それで素直に振り払われるサリユではない。

 噛み付く力をより一層強烈にし、『火の一線』を放ち続ける。

 同時に『狼王への謁見(デベモス)』も発動させ、サマンサ・ヴァンプに動きの制限を加える。

 その結果、サマンサ・ヴァンプは思うような行動ができず、サリユの攻撃を甘んじて受けるほかない状態に陥った。

 サリユの思惑通りである。


 サリユの攻撃に追撃する形でアリスが『血剣』でサマンサ・ヴァンプの腹部、胸部、足部、を次々に切り付けていく。

 サマンサ・ヴァンプの身体にいくつもの刀傷が刻まれていく。

 その傷は時間の経過とともに増えていく一方である。

 サリユへの対処で手が塞がっているサマンサ・ヴァンプはアリスの攻撃に対しても手をこまねいている状況。

 サマンサ・ヴァンプにとってこの状況は八方塞であった。


 これは――やれる。

 サリユは防戦一方のサマンサ・ヴァンプを見て、当初の恐怖を忘れるように勝利を確信した。

 その異形な姿形から手強い相手だと予想したのだが、実際戦ってみれば、苦戦どころか余裕すらある戦いに持ち運べた。

 このまま、確実に『火の一線』を加え、アリスによる攻撃で身体を傷つけていけば、サマンサ・ヴァンプが倒れるのも時間の問題だ。


 そう――思っていた。


 サマンサ・ヴァンプ――この化物が恐怖という名を冠しているのは、なにも見た目の異形さからではない。


「ウギャアアァァ! ウギャアアァァ! ウギャアアァァ!」


 化物の断末魔が第八階層の森を怯えさせる。

 この森ではかの化物は異質である。

 森羅万象の理を嘲り、ほくそ笑むはサマンサ・ヴァンプ。


 痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い痛い、痛いいたいたいたいたいたいたいたいたいt


 感情なぞ無い。

 感覚はとうに消えた。

 そんなものは拾っていない。


 食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい食いたい


 シクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシクシク


 涙――なのか?

 震えるは――喉。

 悲しみは――瞳に。

 門は――開かれ――

 

 ギロギロ、ギロギロ、ギロギロ……。


 繋がりし、恐怖。

 涎、クチュ、ビロ、テペタ。

 輝きしは、信仰。

 喝采などなく――

 盛り上がる拍手は、誰のもの?


 殴れ、蹴れ、怒り、死ね! 何故思い通りにならない! 糞! 屑! 死にさらせ! 嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い、踏みつぶして、踏みつぶして、許してくれと言われても踏みつぶして、踏みつぶして、それが楽しい! 嬉しい! もっともっともっと! なんで泣かないの? 泣けよもっと! ほら、泣けよ! 泣けって言ってるだろぉ! おい! 聞いてるのか! 返事しろ! やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて……。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。いいから泣けよ! 死ね死ね! 刺す刺す。グチュグチュ、グチュグチュ。血だ! 血だ! もっともっともっと! これ何? これ何? もう生きてる? 殺してください。死にたいです。死をさせてください。死をさせてください。もう生きるの嫌です。生きるの怖いです。恥だ! 醜い! 汚い汚い!


 内臓が飛び出る。

 口から飛び出る。

 耳から飛び出る。

 腸が蛇のようにチロチロと動く。

「キューイ、キューイ」と腸の鳴き声。


「ゲアアアアアアアアアァァァァァァ!!!!!」


 サマンサ・ヴァンプの叫びがさらに強くなる。

 叫びとともに化物の身体から黒い泥が湧き出て、その泥は化物の身体を這い回った。

 サリユはすぐさまサマンサ・ヴァンプから離れた。

 アリスも同様、距離を置く。

 その尋常ならざる光景にサリユとアリスは固唾を飲んで身構えることしかできなかった。


 泥がサマンサ・ヴァンプの身体を包んだ――というよりかは飲み込んだといった方が適当だろうか。

 黒い泥が収束していく。

 小さな球体に収束していく。

 そして――


 黒い球から手が這い出た。

 顔が這い出た。

 足が這い出た。

 身体が這い出た。


「これは……」


 出てきた姿は先程とは打って変わって、体長は人並みに、しかし――

 口は三つあり、顔のほぼ半分の大きさの口からは鋭い牙が見え、長く大きな舌がだらしなく垂れている。

 目玉も三つあり、その全てが瞼に収まらず飛び出て、その焦点は定まらない。

 手は祈るように重なっており、両手の自由はない。

 足は筋肉が突出しており、黒く照る腿が厳めしさをそこだけ強調させる。


「なんだよ、これ……?」

「分かりません。分かりたくありません」


 まったく同意見だ、とサリユは心の中で嘆息を吐いた。

 気持ち悪い――これほどにこの言葉を体現する存在はこの世にないだろう。いや、いるのだとしたら、勘弁してほしい。

 これに似た存在が他にもいるなどと考えたくもない。


《警告。吸血異形恐怖(サマンサ・ヴァンプ)の魔力定着が完了しています。先程より王獣に近づいています》


(そうかい。そりゃあ、困ったな。俺が油断したからか? フラグとかなんとか……)


 身体は小さくなったが、そこに潜む力は先程と比べても凄まじい。

 何より、魔力のコントロールが上手くできている。

 垂れ流しだった絶大な魔力は身体にぴったりと収まっており、漏れ出る魔力がほどんど見られない。

 これが魔力定着というものなのだろう。


 でくの坊なら、早さをもって相手を防戦一方にできた。

 しかし、身体を小さくした――ということは、もちろんこの化物は……。


 ――その弱点を克服させたのだろう。


「グギャアアアアアァァァァァ!!!!!」


 化物の断末魔、その叫びがサリユたちに向けられる。

 サマンサ・ヴァンプは叫びながら走った。

 その健脚を最大限生かし、腿の筋肉を隆起させ、地面を勢いよく蹴った。

 その速度は馬と同等、いやそれ以上の速度を有していた。

 二足歩行でこの速さである。身体は速度に耐えられず、左右に大きく振り回されている始末だ。

 そんな突進がサリユたちのもとに向かってくる。


(目の前にすると、めっちゃ怖いな)


 飛び出た目玉が地面にぶつかり、空を切り、自身の身体に当たり、その状態のまま突進してくる様は恐怖の一言に尽きる。

 けれど、避けられない速度ではない。

 でくの坊の時よりは俊敏にはなっているものの、驚きはない。

 大猿王の方が幾分か厄介だったようにも思える。

 基本ステータスもポテンシャルも精神性も、どれも大猿王の方が強かった。

 流石は長い年月、人間を退けた――人間にとっての魔物の王。


《『大猿王』の成長が今まで通りならば、二十年六か月ほどの経過で王獣への進化が可能だったと推測できます》


(そうなのか……? だとしたら、惜しいことをしたのか? いやいや、殺さなかったら死んでたのは俺だ)


 サマンサ・ヴァンプの力量がサリユの予測を超えてくるかもしれない。

 油断は大敵である。

 しかし――負ける気がしない。


「アリス……俺に任せろ」

「え? サリユ様、一匹で?」


 王獣レベルと聞いて、警戒していたのだが、サリユにはそこまでの強者にはどうしても見えなかった。

 それはひとえにサリユが強くなったのか……。


(まあ、もう負けるわけにはいかないしな。レムス……あんなことは……もう嫌だ)


 再度『狼王への謁見(デベモス)』を発動する。

 サマンサ・ヴァンプの動きが鈍くなった。


「『火の一線』!」


 サリユの口から放射された『火の一線』は真っすぐ化物の身体に向かっていった。

 しかし、その『火の一線』を化物は『防御(シールド)』で難なく防ぐ。

 続けて、サマンサ・ヴァンプが次はこちらだ、とでも言うように『黒泥』を発動させた。

 サリユが立つ地面がを黒く変色し、『黒泥』が発生される。彼の足に『黒泥』が絡みつく。

 サリユの身動きを封じた。


「なるほど。思考は存在するのか」


 見た目のわりに基本に忠実な戦い方をする。

 相手の動きを封じ、その間に攻撃を加える。

 サリユの『火の一線』を防いだ魔法もそうだ。

 攻撃を防ぐ魔法は幾つかある。『(ウォール)』、『地門』、『剛』など。

 しかしその中でも一番基本的な防御魔法を繰り出してきた。


(あの見た目なら、もっと奇怪な魔法を繰り出してくると思ったんだが……)


 サマンサ・ヴァンプは身動きが取れないサリユに対して三つの口を大きく開き、黒い霧を吐き出した。


 ――『腐敗伝染(インフェクション)


 サマンサ・ヴァンプのスキル『飢餓』の常時発動。

 それに加えての『腐敗伝染(インフェクション)』による相手の腐敗化。

 サリユの足が腐っていく。

 そこを目掛けて化物が噛み付こうと顔を突っ込ませる。

『飢餓』状態のサマンサ・ヴァンプに噛み付かれた場合、腐敗速度が格段に上がる。そして追加で噛み付いた相手の魔力、生命力を吸収する。


(本当に基本に忠実な化物だ)


 足は腐り、身体は身動きが取れない。

 この状況はある意味で絶体絶命だ。


「サリユ様!」


 アリスの声が悲痛に響く。

 当然だ。はたから見れば、追い込まれているのはサリユ。一目瞭然である。

 しかし、対してサリユは冷静だった。

 

(そこまでの相手じゃないな。強いは強いんだが)


 どうにもこじんまりしている。

 これなら巨体だった方がまだ威圧感があってよかった。


《解析完了。行動予測可能》


(よし!)


 これでサマンサ・ヴァンプの動きを読めるようになった。

 なら、もう警戒すべきことはない。


「『中位回復(ヒール)』」


 腐敗した足が見る見るうちに回復していく。

 その光景を目の当たりにしたサマンサ・ヴァンプは一瞬、驚きを見せるが、すぐさま攻撃の姿勢を崩さず、突進を続けた。


「止まらないか。スキルの効果か、それともやはり脳がいかれているのか?」


 ならばもう一度、恐怖を与えるか。


 ――『狼王への謁見(デベモス)


 サマンサ・ヴァンプの突進はサリユの目の前まで来て、すんでのところで止まった。

 

「グギギギギギギィィィィィィィィ!!!!!!」


 歯を食いしばり、目の前のサリユを睨みつける。

 サリユはそんな化物の憤怒の形相にも怖気づくことなく、負けじと睨み返した。


「そんなんじゃ、怖くない。それじゃあ、だめだ」


 そろそろ終わりにするべきか。

 サリユはゆっくりと足を上げて『黒泥』から抜け出した。

 それは――自然に。

 ただ浸かっていた水から出るように、何の苦労もなく、苦戦もなく――サリユは『黒泥』から上がった。

 その光景には流石の化物も驚きを禁じ得なかった。

 感情などないはずの化物が……サリユを前にして取り乱してばかりのように見える。


「やっぱり光魔法か……」


 サリユの足は光を纏っていた。

 光魔法を足に纏わせることで、『黒泥』を対策したのだ。

 恐らく『黒泥』は黒魔法だったのだろう。

 ペントテッテの時同様に黒魔法には光系統の魔法ということである。

 

「良い戦略だった」


『黒泥』で身を封じ、攻撃。ついでに『腐敗伝染(インフェクション)』でまたも身を封じ、それで攻撃。

 防御に関しては最低限の魔力で防御のためだけのシンプルな魔法を展開。

 忠実すぎる教科書通りの優等生。

 人間らしからぬ見た目だというのに、人間よりも人間らしい戦い方をする。

 アリスならば苦戦しただろう。

 彼女のポテンシャル、ステータスはそれこそ神話級である。

 しかし、戦術面に関してはまだまだ。

 それこそ子供の遊びの延長である。


 だが――サリユの相手ではない。


「少し実戦練習に付き合ってもらうぞ」


 サリユの背に円を描くように七つの火の玉が現れる。

 ゆらゆらと火が揺れる。

 浮かぶ焔。

 

「行くぞ!」


《了解》


 ――『七曜』


 懺悔はいらない。

 与するは祈りなどなく。

 そこに在り続ける。


 その魔法は『七天』には至らずとも強力な魔法である。

 七つの火球にはそれぞれの異能が内在している。

 しかして――今回はその異能に頼る必要はなさそうだ。


 七つの火球から同時に放射線が放たれる。

『火の一線』が七つ同時にサマンサ・ヴァンプの元に向かった。

 目の前ということもあって、その火力は凄まじいものだった。

 だが――


 効く訳がない。

 サマンサ・ヴァンプの皮膚は鋼のように固く、耐熱性も高い。

 噛み付かれた状態で魔法を放たれれば、多少は痛みを伴うが、しかし耐えられないことはない。

 実際、噛み付かれながらの『火の一線』も耐えきったのだから……。

 だからこの攻撃もこの化物にとっては許容範囲――そのはずだった。


 サマンサ・ヴァンプの身体が貫かれる。

 七つの『火の一線』がサマンサ・ヴァンプの身体に当たった瞬間――融解した。

 効くはずのない魔法が、サマンサ・ヴァンプの身体を苦しめる。

 

 化物の辛苦の叫びがこだまする。


 痛み、苦しみ、驚き、焦り、理解不能――

 サマンサ・ヴァンプは分からぬままにその攻撃を身に受けた。


 こんなことは召喚されて初めてだ。

 久方ぶりの現世に気分が上がっていたはずだった、それなのに……。

 興奮しすぎていた?

 油断した?


(いや、私は真剣だった。形態変化してからは着実の一手のもとに戦闘を行った。なのに……)


 どうすればよかった、などと答えは出なかった。

 この課題はお預けか……。

 目の前のイヌ畜生に視線を向ける。いや――イヌ畜生などとはもう言えぬな……。

 これもまた経験。

 愚者として、汚くも醜い恐怖として、この経験を甘受しよう。

 あっけない戦いであったが――


 次はいつ召喚されるだろうか?

 此度はイレギュラーなものだったが……。

 願わくば、次は……まともに戦いたいものだ。


 化物の身体は溶けていき、黒い泥と化していく。

 その泥もだんだんと蒸発し、消えて――


 ものの数分でサマンサ・ヴァンプは――消滅した。


「ふぅー」


《戦闘終了。吸血異形恐怖(サマンサ・ヴァンプ)の消滅を確認。復活することはありません》


 謎の声によると化物は消えたらしい。

 この声を信じていいのか未だ分からないが、見たところ黒い泥も霧散され、声の主の言う通りサマンサ・ヴァンプが消滅したとみて良さそうだ。


「サリユ様!」


 アリスはサリユに駆け寄り、サリユと同じ目線になって――つまり地面に膝をつけた状態――彼の顔を覗き込んだ。


「大丈夫ですか?」

「あ、ああ、大丈夫。というか……近い」

「ああ! すみません! お怪我がないか心配で! いえ、まあ、戦闘を見る限り、サリユ様は一切苦戦されていないご様子でしたが……」

「どうだった?」

「それは――」


 素晴らしい、凄い、というありきたりな言葉では収まらないものだった。

 途中からサリユとサマンサ・ヴァンプの戦闘を眺めることしかできなかったアリスはそれこそ呆然と立ち尽くしていた。

 サリユが自分だけで、と言ってきた時は、アリスは内心、疑心暗鬼だった。

 だから了承したものの、いざという時は加勢する気満々だったのだ。

 しかし……その疑念はすぐに払拭された。


 確かにサリユの強さは分かっていた。

 分かっていたつもりだったのだが……。

 その見積もりを大きく超えてきた。

 彼の強さはアリスの予想をはるかに超えたのだ。


「正直、まさかここまでとは思いませんでした」

「そうか……。けど、実際こんなものじゃないぞ?」

「そうなのですか⁉ これ以上……!」

「おう」


 目を見開いて、サリユを凝視するアリス。


「そんなに驚くことか?」

「いや、それは……この戦闘ではまだサリユ様は本気を出していらっしゃらなかったんですか?」

「そりゃあ……」


 実際、サリユは本気ではなかった。

 まだまだ隠していた魔法やスキルがあったのだ。


「でも、あの化物は相当の魔物でした……なのに」

「過大評価だよ。基本的な力関係だったらアリスもあの化物以上だぞ」

「そうなのですか……? 私にはそうは見えませんでした……」


 アリスは顔を落とし、沈んだ表情を見せた。

 落ち込んでしまった?

 自分の無力さに?

 サリユにはそこまでアリスが弱いようには見えないのだが……。

 逆に強い――いや強すぎるようにも思えるのだが……。


(さて、どうしたものか。女の子の慰め方とか分からないぞ?)


 そうして、サリユが落ち込んだアリスをどうにかこうにか慰めようと四苦八苦していると……。


 その声は――声の主は突然、現れた。

 サリユの、アリスの魔力感知にも気づかれることなく、その悪魔は現れたのだ。


「まったく、いつまで泣いているのだ小娘。我が主を困らせるな」


 その声はずしりと重い威圧感をもって発せられた。

 いや、そう錯覚するほどの魔力がその声には内包されているのだ。


「ああ! 我が主! ようやく! ようやく、御身の前に参上仕ること叶いました!」


 しかし、その威圧感も一変、今度は嘘のように纏いし空気を明るいものへと変えた。

 だが、それは、どうみても――


「我が主! 我が主!」


 サリユの目の前で土下座するような形で頭を下げ、顔を上げれば、その表情は恍惚としている。


 それは本当に――突然の出来事だった。

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