S01話 彼もまた
とある神殿の奥、限られた者しか入室を許可されていない『神龍の間』の中心にて、魔法陣が展開されていた。
そこには神龍ボルクニス=リヴァルサンが魔法陣を眠たげな眼でつまらなそうに眺めている。
白銀に輝く龍鱗。翼は動くたびに雪のように美しい鱗粉が空気を舞う。
「ボルクニス様、そろそろでございます」
「そうか……。やっと――勇者が誕生するか」
神龍による魔法――いや、それはもう神の御業と呼ぶにふさわしい奇跡のような術式は遂に、この時、勇者の誕生を持って完成する。
異世界転移――その応用による『異世界転生』を作為的に行う神の魔法。
異世界転移はもともと存在する魂、身体、精神、それらをそのままこちらの世界に引き寄せる儀式魔法のことを指す。
その難易度は幾人もの、且つ、選りすぐりの魔法師を集めた上で、膨大な魔力を消費する大掛かりな儀式魔法である。
しかし対して、今、神龍が行おうとしている魔法は異世界において死んだ魂と精神だけをこの世界へ呼び寄せ、用意した身体に宿らせるものである。
身体と言う物質体を移動させるための消費エネルギーを節約することによって、世界渡りの際にその分の膨大なエネルギー、魔力を転生後の身体に宿すことが可能であり、より強力な存在を召喚したいならば後者の魔法を行使した方が良いように思えるが――その魔法を行使する際の魔力――だけでなく生命力は絶大なものであり、魔法師1000人を集めてもそのエネルギーには達しないと言う。
まさしく、この魔法を扱える者はこの世界を見渡しても、かの神龍ボルクニスしかいないだろう。
そして今、神龍はその魔法を完成させた。
神龍に話しかけた老人、名をベルトリス・カリルール・ベンサリア。
彼は評議国内における実質的な最高権力者であり、責任者である。
同時にこの神殿の管理も務めている彼だが、魔法師としてもその実力は世界で五本の指に入るほどである。
神代において大魔法使い、賢王と同じ時代に生きていたならば、恐らく肩を並べていた――いや、その肩すら押しのけて、先に進んでいたであろう人物であったと神龍は客観的に分析している。
「魔法陣へのエネルギーは十分でございます。ありがとうございます、ボルクニス様」
「世辞はよい。早く、魔法を発動せよ」
「ははっ。それでは、恐れながら私の手を持って魔法を発動させます」
ベルトリスの掌が魔法陣の方へと向けられた。
魔力も生命力も詠唱も不要。
ベルトリスはただ念じればいい。
――勇者を召喚する
ただそれだけを念じて、この魔法は発動する。
魔法陣が煌々と光り始めた。
同じくして神殿内がその光に包まれ、真っ白く空間を染め上げる。
発光は十数秒で収まった。
光が魔法陣の中心へ収束すると同時に、先程までいなかった存在がそこに現れる。
「ここは?」
少年と言って差し支えない容姿である。
青年と呼べるほどには背丈もなく、顔つきもあどけない。
しかし、彼に内在するエネルギーは魔力探知、鑑定の魔法を使わなくても尋常でないことは肌で感じる。
「ここはお前のいた世界とは異なる世界だ。我はボルクニス=リヴァルサンである。お前をこの世界に召喚した者。お前を勇者として召喚した張本人である」
「……人のようには見えないがな」
「はっは! 転生して間もなくの言葉がそれか! そうだな……我は見て通りに龍である。お前の世界には龍はいたか?」
「いや……存在はしなかった。けど、フィクションには語り継がれていたな」
「そうか、我の存在は神話と同義か……。まあ、この世界でもそれはあまり変わらぬが……」
少年は神龍を懐疑の眼で見つめている。
異世界転生――その事実については前世での、そういったラノベ知識などで得ていたのでそこまで驚きはなかった。
いや、それよりも、異世界転生できたことに感動すら覚えている。
前世では何も出来なかった……。
つまらない日常だった。
彼の目からは全てが灰色だった。
しかし、この世界では……!
彼は手を握り、拳を作る。
自分でも理解できない膨大なエネルギーが身体の奥底から漲ってくる。
「では、後は頼むベルトリス」
「かしこまりました。この度は――」
「だからそんな世辞は良い」
「はい、失礼いたしました。それでは――」
「ああ、頼むぞ」
ベルトリスは無言で深く頭を下げて、神龍に感謝の意をその姿勢で示した。
「それでは、こちらへ勇者よ」
「……分かった」
ベルトリスの先導に従って、勇者と呼ばれた少年は『神龍の間』を立ち去った。
二人が消えたのを確認し、神龍は小さく嘆息を吐く。
「また、この時が来たのか……。此度も何事もなくすべてが進めばいいが。さて、そろそろ、あ奴らが手を出す頃合いか?」
神龍の呟きは誰にも聞かれていない。
その呟きは『神龍の間』に響くだけ――
――――――――――――
少年はベルトリスと呼ばれていた初老の男の背中を追って、神殿内の廊下を歩いていた。
神殿内は壁も天井も至る所が真っ白で清廉としており、尚且つ荘厳な彫刻の数々に人知を超えた領域のような雰囲気を醸し出していた。
「こちらです、勇者」
ようやく到着した一室は廊下と同様に真っ白な壁や天井が広がる空間であり、中央には椅子を囲むように大きな円卓が設置されていた。
その円卓の周りには幾人かの人物が座っている。
「おいおい、重役出勤かよ、勇者様」
「やっと主役の登場ですね」
「真打とは遅れてやって来るもの。まさしく勇者と呼ばれるにふさわしい立ち居振る舞いだね」
三人、広い円卓にそれぞれ離れた位置に座している。
一人は少年よりもやや年上と言った風の強気そうな青年。
一人は少年と同年代と思われる優しい笑顔を浮かべる少女。
一人はこの中で一番の年上と思われる、何が面白いのか笑顔を顔に張り付けさせている男性。
「勇者よ、彼ら、彼女らがこれからあなたの仲間となる方たちです」
「ん?」
ベルトリスは少年の疑問に軽く頷き、円卓の席を勧めた。
「詳しい話はこれから行います。まずは席について腰を落ち着かせてください」
「ああ……」
少年は少女の対角線上の席について、椅子に腰を預けた。
ベルトリスはそれを確認し、円卓の中央に人差し指を向けた。
「こちらをご覧ください」
円卓の中央に魔法陣が現れたかと思えば、そこから突然、液晶画面のようなスクリーン映像が映し出された。
そこには、どこかの山脈を下から上へとカメラアングルが移動して、最終的には雲をも貫く厳かな山々を俯瞰した位置で山脈を捉えていた。
「まず、勇者よ。あなたにこの世界について説明しなければいけない。この世界には今見て分かるように魔法というものが存在する。人々にはどんな者にも魔力が内在しており、しかしてその魔力量は生まれた段階で、一種の才能のように定められている。魔力量が多いものは多くの魔法、威力の高い魔法、精密な魔法を扱うことが出来る。魔法師の大半はその才能を持った者の中でもさらに、才能に特化した者だけが目指すことが叶う。しかし、それをまさに人為的に行う術が存在する。それが――」
「異世界転生?」
「うむ、半分正解といったところか。正確には異世界転生を人為的に行うことは普通出来ない。一般的には何人もの術者――魔法師によって儀式魔法という形式で行われる。その異世界転移の魔法によって召喚される異世界人には世界を飛び越えた際の衝撃の影響によって常人とは比べられない力と魔力と特殊な能力が授けられると言われている」
ベルトリスは少年に顔を向けて、深い皺をより一層深くし、説明をした。
彼は見た目からも分かる通り、かなりの高齢である。
しかしその老体など嘘のように顔つきは鋭く、厳しい印象を受ける。
目と眉は吊り上がっており、口元は常時、への字である。彼が笑ったところを誰も知らない程には、彼はいつだって不愛想に顔を渋面にしていた。
「けれど今回は違ったはずだ。俺は元の世界で死んだ。そしてこの世界で生き返った。つまり――」
「そうです。我々――いや、あの方が今回行ったのは異世界転生の魔法。異世界転移とは似て非なるものです」
ベルトリスの説明は続いた。
彼の言曰く、異世界転生の魔法は転移の魔法と比べても魔法を使用する際の魔力量が尋常ではないらしい。
人間で換算すれば、最低でも二系統の魔法を扱える魔法詠唱者を100人揃えて、儀式魔法を完成させなければいけない。
またこの魔法には魔力だけでなく、生命力も必要となる。
この生命力も魔力同様に尋常ではない量を必要とする。
これも人間で換算すれば1000人程度の命を対価にすれば十分だと言われているらしい。
何故、「らしい」と言われているのかは言わずもがな、この転生の魔法を扱った例は人間においては成し遂げられていない。
これらは全て神龍の概算らしい。
最後に異世界転生の魔法における恩恵について。
これは転移の魔法とは比べられない程に異常な能力を転生者に付与するらしい。
その理由は死を体験しながら、魂だけで世界を飛び越える力がそれを可能とすると神龍は言っていた。
魂には強度があるらしく、生きている間に死の寸前を体験するか、もしくは死そのものを体験した魂はそれだけで耐久度がけた違いである。
しかしそこには条件がある。死を体験した魂と言うだけでは転生は叶わない。
死を体験しながらも、意識を保つ。その胆力がなければ転生に耐えられる魂は出来上がらない。
神龍の存在をはぐらかしながらベルトリスは少年に向けて異世界転生の仕組みについて説明した。
「そして、その魔法で召喚されたのがあなた――勇者です」
「そうか……」
円卓を囲む者たちが一斉に少年に目を向けた。
ある者は好奇な目で――
ある者は納得の目で――
ある者は憧憬の目で――
しかして少年はそんな様々な思惑、感情が内包された眼差しを意に返さずに現状の理解に努めていた。
自分がどのような境遇に陥ったのか。
これからどうするべきなのか。
どうしていくのか。
「それじゃあ、彼らも俺と同じ境遇なのか?」
少年がベルトリスに向けて疑問を呈した。
この部屋に来てから気になっており、今まで保留にしていた疑問について。
彼らは何者なのか?
一番、可能性として考えられるのは自分と同じ立場の人間だということだろうか。
それがベターであり、真っ先に思いつく考えだろう。
しかし、少年のそんな考えはすぐに一蹴された。
「いいや、この者たちは転生者ではない。まして転移者でもない。この者たちはれっきとしたこの世界の住人です」
「そうそう、俺たちはあんたのような稀有な境遇の持ち主じゃないぜ、勇者様」
「そうとも」
「ええ」
ベルトリスの回答に続いて青年がそれを肯定すると、他二人もそれに追随した。
「この者たちは世界各国を私が旅をして見つけ、勧誘してきた者たちです。それぞれに凄まじい基礎能力と類稀なる特殊な力を宿しています。そして――この世界の平和の為ならば――と手を貸してくれた正義感にあふれる方達でもあります。私自らが保証しましょう。この者たちは決して悪事を働かず、あなたの為に戦ってくれる」
「おいおい、それは流石に買い被りすぎだぜ。俺は強者と戦えると思ってあんたに付いていったんだ。全部、自分の為さ」
「それには同意見だね。この世界――とか規模の大きな話になると僕にはどうにも要領をえなくてね。あなたに付いていけば面白く暮らせそうだと踏んで、ここまで来たんだ」
「私は彼らとは違います。勇者様と一緒にいることは一族の決まりであり、これは連綿と受け継がれてきた掟なのです。正義の為、平和の為、私は全力であなたのお役に立ちます――勇者様」
それぞれが自身の言い分を言った。
その様子にベルトリスは僅かに口角を上げる。
「あなた方には共に世界を旅してもらい、各地に棲息する『王獣』を討伐してもらいたいと思っております。あなた方ならきっとその任を任せられるでしょう」
ベルトリスの言葉に円卓を囲む者たちは一気に静まり返った。
青年は目を見開き、男性は唾を飲み込み驚きを表す。しかし唯一、少女だけは顔色を変えずに、視線を少年に向けるのみ。
そんな静寂のなか、戦端を切って、まず初めに口を開いたのは青年だった。
「お、おい! 待てよ! 『王獣』だって⁉ それはおとぎ話の話だろうが! そんな魔物が本当に存在するのか?」
青年は額の汗も構わずに唾を飛ばす勢いで疑問を投げつけた。
対して、疑問を投げかけられた当人であるベルトリスの様子は平然としたものだった。青年の疑問にコクリと首を縦に振るだけで顔色一つ変えない。
「『王獣』は現に存在する生き物です。魔物の中でも特に凶暴で特別な力を有しています」
「そして人々はその力に対抗できないと悟って、いつからかその魔物たちと敵対することをせずに、逆に信仰の対象として祀ったと言われている。だからこそ『王獣』とそれらの魔物は呼ばれている」
「その通り」
青年の言葉にベルトリスはゆっくりと首肯した。
「怖気づきましたか?」
ベルトリスが青年に向けて真顔で首を傾げる。しかし少年には少しだけベルトリスが笑っているように見えた。
「まさか……! 逆にワクワクしてきたぜ! あの伝説の王獣と戦えるなんて俺は幸運だ!」
「そうですか……他はどうです?」
「僕は特に構いません。面白そうじゃないですか、王獣。いいでしょう、僕はこの旅に同行します」
「私の意見は初めから変わっていません。王獣だろうがなんだろうが、私は勇者様についていきます」
ベルトリスの言葉に男性と少女はそれぞれ不満を口にしなかった。逆に喜んで同行するとまで言っている。
そんな彼らの答えにベルトリスは真顔で頷いて、最後に少年に顔を向けた。
「最後に――あなたに答えを聞きましょう。と言ってもあなたにだけはこの要請に首を振っても断る事は叶わないませんが。もし断ったとしたらこちらでも対処は考えています。だから――今この意思確認はまったくもって意味のないものなのですが……すみません。これは私の我儘であり、単純な興味です。その上で答えてください――。あなたはどうする?」
ベルトリスの声はどこまでも力強く、震えるように奥底が叫びたくなるほどの厳しさをはらんでいた。
そんなベルトリスの問いに少年は静かに彼を見つめて口を開いた。
「俺は――王獣を倒すよ。それでいいんだよな?」
「はい、それでいいです」
ベルトリスは一瞬、目を瞑って、しかし、すぐさま普段の真顔に戻れば、もう言うべきことは終わったと言わんばかりに席を立って、出口に身体を向けた。
「旅立つ日程などは全てあなた方に任せます。必要なものがあれば何なりと言いなさい。それでは説明は終わりです」
そう言い残して、ベルトリスは部屋から消えた。
残されたのは少年を含めて四人。
これから彼らと一緒に旅に出るのか……と、少年は感慨深げに三人を見つめた。
――――――――――――
円卓での説明が終わると四人はそれぞれに無言で部屋から出ていった。
自己紹介も無しか、と少年は幾分か呆気にとられながらも、自分も異世界転生したばかりで実は混乱している。
ここでまた新たな情報を与えられても正直覚える自信はなかったので、これはこれで有り難かったのかもしれない――なんて思いながら部屋を出れば、すぐ扉の横で少女がこちらを見つめて待っていた。
「先に出て行ったんじゃなかったのか?」
「いえ、あなたを待っていたんです。先ほども言ったとおり、私は勇者様と一緒にいるのが役目なのです」
「ずっと?」
「はい、ずっとです。ああ、いえ、流石に用を足す際や入浴される際は同行を遠慮させていただ方がよろしいですよね? 勇者様がお望みならば、一緒にお風呂に入ることもやぶさかではありませんが……」
「いや――大丈夫。というかいつも一緒にいなくても良いぞ? 役目だなんだと詳しいことは知らないが、結局それはお前の意志じゃないんだろ? なら、誰かに見られている時だけの同行でも俺は構わない」
「いえ、それは出来ません。これは……」
「君の意志なのか?」
「それは……あまり考えたことはありませんが、私はそう教えられてきたのです。これが私のすべきことなのです」
「そうか……まあ、節度を守ってくれれば同行しても構わないが」
「そうですか――それは良かった」
少女は胸を撫で下ろして嘆息を吐いた。
そうして、落ち着いたところで少女は目を開いて、ハッとした表情で少年に頭を下げる。
「そう言えば自己紹介が遅れました。私の名前はエミリス・ライゼン・リューメルヘンです。以後お見知りおきを。差し支えなければ勇者様のお名前も訊いてよろしいですか?」
「あっ、ああ、俺の名前か……」
こういう時は前世の名前を言うべきなのだろうか、と少年は迷った。
いや、言うべきではないだろう。
もう、あの頃の自分はいない。
後悔が無いといえば嘘になる。
後悔ばかりと、悔恨ばかりの前世だった。
しかし、だからこそ前世の自分はもういない。
ここから自分は新たな一歩を踏み出す。
「俺の名前はまだ決まっていない。決まったら教える」
「……そうですか。分かりました。その時を楽しみに待っています」
「ああ」
そうして自己紹介も終えたところで、二人は一緒に円卓の部屋から離れた。
先程と同じ真っ白な廊下を歩く。
この廊下、どうにも方向感覚が狂うほどに同じ造りの壁が続いている。果たして自分たちは正常に前に進んでいるのか怪しくなるほどである。
そんなどこまでも同じような景色が続くかと思える廊下を進んでいくと、ようやく、今までとは違う景色――外に出ることが出来た。
ここは中庭だろうか。
緑色の芝に、中心には白色の噴水から水が湧き出ていた。
その中庭で見覚えのある人物を発見する。
「おう、お二人さん。さっきぶりだな」
そこには筋肉質な身体を露わにしながら大剣を振っている青年がいた。
先程は服を着ていたので、てっきり見たままに細身の体型だな、と勘違いしていた少年だが、こうして実際に彼の身体を見てみれば、その隆起した筋肉は本物で、身体の至る所には歴戦の結果だろうか――刀傷や痣が残っている。
青年は大剣をドサリと芝の上に突き立てると、こちらに近づいて片手を上げた。
「よう、勇者様とお嬢さん」
「ああ、こんにちは」
「こんにちは。それと私はお嬢さんではありません。エミリス・ライゼン・リューメルヘンというれっきとした名前がございます」
「おお、そうかい。それは失礼した。それじゃあ、こちらも自己紹介をしなくちゃな。俺の名はリゼル・セルレッテ。リゼルと気やすく呼んでくれて構わない。これから俺たちは正真正銘の仲間だからな。よろしく!」
「よろしく」
「はい、精々、勇者様の役に立ってください」
「……お前さん、口が悪いな。というか、まあ、俺が仲間になったからには、そりゃあ役に立つのはもちろん、逆にお前たちが俺の足手まといになるかが心配だけどな」
「はははっ、そうですかリゼルさん。今のは冗談ですか? 冗談だとすれば趣味の悪い冗談です」
「なんだよ、まったく……勇者様も大変だな。こんな奴が一緒で」
「……そうだな」
「勇者様⁉」
エミリスは目を瞬き、振り返って少年を見上げた。
彼女の驚愕の表情に少年はつい笑みをこぼす。
先程からエミリスの表情の変化をついぞ確認できなかった。
彼女はずっと微笑みを浮かべるのみ。
そうか――彼女も人間だったのか、と少年はそこでようやく得心したのだった。
「それで、勇者様の名前は?」
「ああ、それは――」
「それはまだ決まっていません」
「ん? 決まっていない? それはどういうことだ?」
エミリスの言葉にリゼルが首を傾げた。
しかし、その疑問もすぐにどこ吹く風でリゼルは「まあ、いっか」と頭を掻いて噴水の近くに戻っていった。
「まっ、これからよろしくな!」
そうしてリゼルは剣の鍛錬に戻った。
少年とエミリスはそれを見送って、その場を離れた。
「まったく、あの方、勇者様に失礼な態度でしたね!」
「……そうか? 案外、気さくな人で俺は安心したよ」
「そうですか? まあ、勇者様がそう言われるなら良いですが……」
エミリスは唇を突き出して、不満げな顔をしていた。
どうやら納得はしていないようだ。
中庭を後にした二人はまた変わり映えの無い景色が続く廊下を歩いた。
それにしてもこの神殿は思った以上に広い。
全体図が把握できない程に歩いても歩いても先が見えない。
「この神殿、本当に大きいな。お前――エミリスは外からこの神殿を見たんだよな。どのくらい大きかったんだ?」
「はい、一応、外からこの神殿を拝見しましたが……正直、外見の印象ではここまでの広さを誇るようには思いませんでしたね。恐らく空間魔法を使って広くさせているのではないでしょうか?」
「空間魔法……そうか、そんなことも出来るのか」
エミリスは少年の呟きに瞬時に首を振った。
「いえ、普通はここまでの魔法を空間に作用させることは出来ません。並の魔法師ならまず、空間に干渉させることすら敵わず、もし無理やりにでも魔法を使えば、その身を破滅させると言われています。これは、かのベルトリス様だからこそ出来る神業といったところでしょう。しかし、こんな大規模の空間魔法を常時展開させるなんてまさに神の力としか言いようがありませんね」
「へぇ、あのおじいさん、凄い奴だったんだな」
少年は転生してすぐに目に入った人物――ベルトリスの顔を思い浮かべて、なるほどと顎を引いた。
しかし少年にとってはそんなベルトリスの印象より、どうしても彼と一緒にいた龍の方に目が行ってしまうのは仕方がない。
あの龍は何者なのだろうか。
誰も龍についてのことは話していない。
そう言えばベルトリスからは神龍のことは他言無用と言われていた。
なんだかきな臭いと言えばそうだが……。
いやしかし――それほどにあの神龍の存在を隠すことも頷ける。
強すぎる存在はそれだけで混乱を招くというものだ。
あの神龍は見ただけで分かる。
この世界で一番強い存在だと――
「勇者様、どうなされましたか? 物憂げな雰囲気でしたが……。何かお考えの最中でしたら邪魔をしてしまい申し訳ありません」
エミリスの声に少年は我に返る。少しだけ考えに耽りすぎた様だ。
エミリスは眉尻を下げてこちらを窺っていた。
少年はそんな彼女に微笑を向けて「大丈夫」と首を振った。
「しかし、それにしても変わり映えのない廊下ですね。なんだか不気味というか、幾何学的というか……。人工的のように見えて、人の息がかかっていないようにも見える。一種の恐怖すら覚えます」
「……なるほどな。確かに、怖いかもな」
シンプル過ぎるからこそ恐怖が生まれる。
逆に自然的に不格好の方が愛着が生まれるかもしれない。
そうして、二人で廊下を歩いていると、正面からこちらに向かって歩いてくる人物がいた。
近づいてみれば、その人物は同じく先程、円卓にいた三人の内の一人――柔和な笑顔が印象的だった男性だった。
「あれ、奇遇だね? こんにちは、勇者様にお嬢さん」
「だ・か・ら、私はお嬢さんではありません!」
「えっ、ああ、ごめん……」
エミリスがリゼルの時同様に訂正を声高に叫んでいるが、男は先程の流れを知らないので驚き半分、引き気味半分な反応を見せている。
それからエミリスは自分の名前を、これも声高に名乗って男を困惑させていた。
「それで、勇者様の――」
「勇者様の名前はまだ決まっていません!」
「あっ、ああ、そう……」
これもまた先程同様にエミリスが男の言葉に被せ気味で声を出した。
「えっと……まあ、一応、僕の名前も言っておくよ。僕の名前はロッセル・チレット。これからよろしくね」
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしく、ロッセル」
「うん。どうやらおかしいのはこちらのエミリスさんだけか……。勇者様は普通でよかった」
「勇者様は普通ではありません! 特別な存在です!」
「あっ……そうだな」
「いや、俺は普通だ。それで構わない」
「そうよ! 勇者様は普通よ! あなたの言う通り!」
「いや、どっちだよ……」
ロッセルは首を垂れて頭を抱えていた。
流石にこれはロッセルに同情せずにはいられない。
ロッセルの言う通り、エミリスはどこかおかしな女の子だ。
「君も大変だな」
ロッセルはすれ違うタイミングで少年に聞こえるだけの囁き声で彼の耳元に呟いた。
「なんだかすみません」
少年は自分の落ち度ではないが一応、謝った。
ロッセルと別れた後、またしても廊下を歩き続けると二人はいつの間にか、とある大きな両開きの扉の前に辿り着いていた。
少年はこの場所を知っていた。
ここで少年はこの世界に新たな生命を与えられた。
つまり異世界転生した場所である。
その場所の名は――『神龍の間』
巨人専用のような大きな扉を二人で眺めていると、後ろから一人こちらに近づく足音が聞こえた。
「勇者よ、ここへの立ち入りは禁止ですよ」
「ああ、ベルトリスさん。そうなんですか?」
「ああ、まあ……。いや、勇者だけなら大丈夫ですが……君は駄目だ」
「なんでですか?」
エミリスは多少、むっとした顔をした。
しかしベルトリスはそんな表情にも無慈悲に首を振った。
「そうですか……」
エミリスは落ち込んだ顔を覗かせるが、案外、あっさりと引き下がった。
それほどにベルトリスという存在は大きいのだろう。
「入室したいのならば私もついていきますよ。どうしますか?」
ベルトリスが少年に首を傾げてこちらを窺った。
少年は少しの逡巡の後に神龍に会いたいと決める。
「お願いします」
「分かりました。それでは私の手に触れてください。こちらの部屋には私の転移魔法で入室します」
「そうですか、分かりました。エミリスは……ここで待ってるか?」
「許していただけるならば、ここで待たせてほしいと思っています」
「……そうか。それなら待っててくれ」
「はい」
少年はベルトリスの手を取って、その瞬間、その場から消えた。
次の瞬間には『神龍の間』に移動していた。
目の前には神龍ボルクニスがいる。
「なんだ、お前か、勇者よ」
「ああ、さっきぶりだ」
「ああ、さっきぶり」
神龍は欠伸をしながら眠たげな瞳で勇者を見下ろしている。
「それで、何か用か?」
「ああ、用があってここに来た」
「ふむ、そうか……我に願いでもあるか? 大抵のことならばそこのベルトリスに言えば叶うと思うが……」
「いや、ベルトリスさんでは駄目だ。俺があなたに叶えてほしい願いは……俺の名前を付けてほしいんだ」
「何? 名前……?」
神龍は眠気眼から一気に目を見開き、驚いた表情で少年を見つめた。
「前の世界では名前は無かったのか?」
「いや、あった。けれど世界が変わったんだ。この世界での名前が欲しい。それに、言ってしまえば、あなたが俺の親みたいなものだろ? この世界に俺を召喚したのはあなたなんだから」
「正確に言えば魔法を発動したのはベルトリスだ」
「いいえ、それは違います。私は本当にただ最後に手を触れたに過ぎません。真の意味であの魔法を完成させたのはボルクニス様でございます」
「ちっ、こんな時にも世辞か? いやワザとだな」
「いえ、そのようなことはありません」
ベルトリスは真顔で首を振るのみ。
実際に神龍の言い分の通りに彼は敢えてそのように言ったのかもしれないが、その真実は神龍にも図れぬことだった。
「まあ……よかろう。我にもお前を召喚した責任がある。それは言い方を変えれば親と子の関係ともいえるかもしれない。ならば我が直々に名を与える」
「そうか――ありがとう」
そうして、神龍は暫し片目を瞑って少年の顔を見つめた。
しかしそれも数秒で――実際には『思考加速』のスキルで名前を幾通りにも考えていた――神龍は名前を決めた。
少年たちには体感数秒という時間で神龍は名前を決め、口を開き、その名を少年に告げた。
「そうだな……お前の名前はルクス。これからお前の名はルクス=リヴァルサンだ」
「ルクス……良い名前だ」
「そうか、気に入ったのならば良い」
ここで遂に少年の名が新たに決まった。
ルクス=リヴァルサン
それが彼のこの世界での名前。
少年は同時に前世の名前とも別れを告げた。
――アキラ
その名とともに前世の過去と別れを告げる。
願ってもない異世界転生への喜びを胸に少年――ルクスは新たな人生の第一歩を踏み出した。