015話 死別
走った。
――走った。
走った――
……走った。
走った……。
走った、走った、走った、走った、走った、走った、走った。
サリユはがむしゃらに、出鱈目に、必死に地面を蹴って前に――、前に――、前に向かって走った。
分かれ道もよく考えず選んで進んでいく。
しかし、追っ手の追走は途切れない。
いつまでもサリユのあとを追って、その距離は離れることがなかった。
(どうしてだ? こんな迷路の中でどうして的確に俺を追える? どうして……?)
訳が分からない。
そもそも、レムスと一緒の時もどうしてか、自分たちの位置が把握されているように追いかけられた。
何か、絡繰りがあるのだろうか。
いや、そんなことが可能な力がこの世界には存在する。
魔法の類……たぶん、そうなのだろう。
探知系魔法の何か……恐らくそういうものがあるに違いない。
ならば、このまま逃げていても意味が無いのでは?
分からない。
どうすればいいのか、まったく分からない。
こうして考えると今まではほとんどレムス頼りだった。
この第七階層でレムスとの行き違いや誤解も解けたはずだが、改めて考えればサリユはレムスに助けられてばかりだと痛感した。
判断力も決断力も結局、場慣れや経験がものを言うのだ。
サリユには圧倒的に経験が足りない。
第三階層からここまでそれなりに魔物との戦闘を経験してきたが、それでも決定的な場面では判断に迷ってしまう。
正解を考えてしまう。
正確な未来を、確かな勝算を、確実な正解を求めてしまう。
そうしなければいけない、とそれはもはや強迫観念のように……。
けれど、それを求めてしまえば、いつまでも決断できないのは目に見えるだろう。
そうだ、結局、絶対的な正解などない。
そこに執着したままでは一生かけても決められるものも決められない。
だから、サリユはここで決断しなければいけない。
一匹で、自分の未来を決めなければいけないのだ。
(どうするべきなんだ? 俺はレムスの言う通りに逃げるべきか? このまま逃げ続けるべきか? けれど、それではいつかは追いつかれて、人間と相対しなければいけない)
この期に及んでサリユは未だに人間と戦うことに躊躇いを覚えていた。
レムスが必死に足止めしているというのに、自分はまだ迷っている。
決断しなければ――
人間と……戦う。
手を抜けば殺されるかもしれず、全力で戦えば……人間を殺すかもしれない。
人間……。
アキラと同じ人間を……。
分からない。
どうすればいい!
人間と仲良く……。
それは――こんなにも難しいことなのか?
サリユは歯と歯を噛んで、顔を強張らせる。
(どうすればいい……。どうすればいいんだよ、レムス! どうすればいいんだよ……アキラ!)
ここにはサリユ以外に誰もいない。
判断は全て自分にある。
自分で考えなければいけない。
自分で答えを導く――いや、答えを作らなければいけない。
サリユは必死に頭を回して、思考を続けた。
そうして……。
サリユは考えに考えた結果、立ち止まって、人間と戦うことを決断した。
「人間! こい、俺はお前と戦うことを決意したぞ!」
サリユを追いかけていた足音が止まった。
「どうした! 俺は……俺は人間と……人間と戦うことを……決めた……」
サリユの声は震えていた。
いや、正直に言えば彼は――泣いていた。
レムスは殺されるかもしれない。
そんな想像は考えたくもないが、そんな死地にレムスは自分の為に向って行った。
ならばサリユも決意を――、覚悟を決めなければいけない。
だと言うのに……サリユは涙を落とす。
決意も覚悟も感情も置き去りにして、サリユの身体は拒否反応を起こしていた。
未だ、前世での人間の優しさに縛られている。
前世は前世だ。
もうこの世界にはアキラはいない。
諦めろ。
先程の人間の対応を見たではないか。
意識では分かっているつもりなのだが、身体は正直だ。
結局、サリユは人間と敵対することが怖かった。
「…………」
おずおずと洞窟の暗闇から人影が現れた。
女性は白い祭服を身に纏い、錫杖をカラン、カランと鳴らして姿を見せる。
その表情は緊張した面持ちで、表情筋が強張っている。
彼女もまた動悸を激しくさせていた。
ガレスに言われた通りに狼を追ったはいいものの、彼女――セルティネはこの魔物を殺すことに多少の疑問を抱いていた。
しかし――魔物に仲間を殺されたことは事実だ。
沼地竜との戦いを思い出せば未だに吐き気が襲ってくる有様である。
それを思えば、彼女も魔物を殺すことには同意である。
だが、本当に――殺すべきなのか?
感情は「殺せ」と叫んでいる。
けれど、冷静な論理的意識は「殺すな」と踏み止まらせていた。
どうすれば……?
迷いに迷って……そうして考えを巡らせていると、いつしか彼女の頭は靄がかかったように、不透明になっていった。
その靄は急激な速度で思考力を奪い、その隙を狙って目の前の魔物を「殺せ」と感情が身体を支配した。
「殺すわ、魔物」
いつしか、セルティネはそんな言葉を口にしていた。
靄は晴れることなく、彼女を支配する。
「それしかないのか? もう、殺し合うしかないのか?」
サリユの必死の呼びかけに、しかし女は無言を貫いた。
どうやら、彼女は本当に殺すと決めたらしい。
先程まで、悩んでいた姿が嘘のように、目の前の女の眼差しは鋭いものだった。
「『天使の伝来』!」
女の身が光り輝いたと思えば、その眩い光がサリユに向かい、彼の全身を包んだ。
(なんだ? 攻撃か? けれど痛みは……? いや、待て!)
サリユは痛みの代わりに自身の魔力量が減っていることに気付いた。
『天使の伝来』とは相手の魔力量を激減させる魔法……だけではなく、魔法耐性低下、精神摩耗、痛覚鋭敏などの状態異常を付与する。
女――セルティネはお世辞にも攻撃魔法が得意とは言えない。
彼女はどこまでもサポーターという役職を全うしており、覚えている魔法のほとんどは支援魔法である。
しかしそんな中でも相手への攻撃手段がないわけではない。
主なものにはデバフ関連の魔法である。
仲間に支援魔法を繰り出して助けながらも、敵に対してデバフを加える。そうして戦いを俯瞰的な観点で動かすのがセルティネの戦い方だった。
ただの回復要因ではない。
でなければ、王国随一の冒険者パーティのリーダーは務まらない。
つまり、彼女単体では何の役にも立たない――というわけではないのだ。
彼女は一人でも強い。
セルティネは『天使の伝来』を発動して、すぐに唯一の攻撃魔法『神聖なる雷撃』を繰り出した。
サリユはその攻撃に瞬時に反応して、回避しようと足に力を加えて――足が動かなかった。
女は『神聖なる雷撃』を詠唱する前に、サリユに悟られないように無詠唱で『輝きの呪縛』を発動させていた。
詠唱ありならば、それなりの時間、相手を行動不能にすることが可能だが、無詠唱ならば行動を制限するのもほぼ一瞬でしかない。
しかしセルティネの狙いはこの魔法発動を悟らせないことにある。
そして行動不能は一瞬で良い。
その一瞬の隙で『神聖なる雷撃』は命中する。
魔法を放とうとしても、『天使の伝来』によって魔力は減らされ、『神聖なる雷撃』に対抗できる魔法を放つほどには残っていない。
サリユは必死に頭を回転させ――妙案を思いつく。
『収納』から魔醒石を吐き出して、その瞬間に噛み砕く。
セルティネの魔法は目の前まで迫った。
サリユはすんでのところで魔醒石によって回復した魔力を使い、『光線放射』を放つ。
セルティネの魔法とサリユの魔法が直撃する。
どちらも同系統の魔法である。
勝敗は単純な魔法の威力によって決着する。
「何で! 何で狼の魔物が光魔法を? いや、そもそも狼の魔物自体、初めて見たけど……。でも、さっきの狼は炎魔法を使ってたのに……!」
女は何やら困惑していた。しかしサリユはそれに気を取られている余裕はなかった。
放っている『光線放射』が徐々に押され気味に、ジリジリと退がっていた。
このままではいけない。
しかし魔法の威力はこれ以上、上昇させることは叶わない。
これが現在のサリユの出力最大限である。
ならば――どうするべきか?
答えは決まっていた。
だが、それを実現出来るかどうかは自分でもよくわからない。
あの時――大猿王との戦闘で最後に放った3つの魔法を組み合わせた混合魔法、あれを使えれば、どうにか……。
そう思って一応、念じてみるものの矢張りそう簡単には上手くいかない。
(どうする? 他に方法があるか? いや、魔法を切り替える? けれど、そうすると魔法を切り替えるタイミングで相手の魔法に一気に押し負けて直撃は免れない)
矢張り可能性は混合魔法しかない。
しかし、どうすれば……どうすればいいのだろうか。
《可能です。混合魔法――前回使用の三系統による混合魔法は現魔力量から計算して使用不能です。二系統による混合魔法を推奨します》
(はい? えっと……)
《このままでは魔法出力の差でこちらの『光線放射』が消失されます。早急な対処を推奨します》
(いや、そんなことは分かってるんだよ! けどね……その対処方法が……)
《ですので二系統による混合魔法の発動を推奨します》
(いやいや、そういうことじゃなくて、お前は誰だよ!)
《…………》
(黙りやがった……)
突然、頭に直接声を掛けてくる存在に驚くサリユ。
何者なのか、と訊くがその質問には答えてくれない。
しかしそれ以外には――今現在の対処法は教えてくれる。
謎の天啓に従うべきか?
いや、迷っている場合ではない。
サリユは意を決して、二系統の混合魔法を放とうと……して、どうするべきなのか首を傾げる。
(おーい、そのお前が言っている二系統の混合魔法? ってやつを教えてくれないか?)
そうして何となく謎の天啓に話しかけてみると、見事に言葉が返ってきた。
《了解しました。二系統の魔法による混合魔法を発動します。魔力残量から算出し、光と炎の混合魔法を発動することが可能です》
(えっと……じゃあ、それで)
《了解しました。それでは発動します》
その了承の言葉とともにサリユの口から『光線放射』だけではなく、同時に『火の一線』が放たれ、二つの魔法が合わさっていく。
二色の放射線が絡み合って、一つの放射線に変化する。
「えっ? 何? どういうこと! 二色の魔法? そんな――そんなことが出来るのは……!」
サリユの混合魔法に目を瞬くセルティネ。
彼女は目の前の景色がどこか浮世離れしたもののように呆気に取られていた。
理解が出来ない。
何故――何故?
そんなことがあり得るのか?
いや、あり得るだろう。
女もその事象に関しては知識として知っていた。
そして、それが実際に現象として実現可能だということも知っていた。
しかし、それはまさしく魔法師の中でもごく僅か、何十年に一度の天才でしか到達できない領域である。
ほとんどの魔法師ではまずもって一生かけても辿り着けない。
だが――目の前の光景はまさしくその奇跡とも呼べる現象だった。
二つの魔法を合体させた?
あり得ない、あり得ない!
けれど、敵対する狼は話に聞いた混合魔法のそれを発動させた。
セルティネは瞬時に『神聖なる雷撃』を止めて、すぐさま『聖なる壁』を張って、狼の混合魔法から身を守った。
セルティネが用いた『聖なる壁』はどんな物理攻撃も魔法攻撃も遮断する壁を生成する魔法である。
しかし、それを使用できる時間は限られており、魔力の燃費も凄まじい。
「くっ……!」
あともう少し耐えれば! とセルティネは踏ん張るが、狼の猛追はとどまるところを知らなかった。
混合魔法を放ちながら『収納』によって魔醒石を取り出し、噛み砕く。それによって魔力は尽きることなく、混合魔法が放たれ続ける。
「何? そんなのアリ⁉」
これはもう無理だ、とセルティネは『聖なる壁』を展開しながら、後方へ退いて、そのまま洞窟の奥へと逃げた。
狼――サリユは混合魔法を放射したまま、追うことは――しなかった。
女は暗闇へと消えて、その姿はすぐさま見えなくなった。
ここで深追いはしない。
サリユも相当に魔力と体力を消費した。
魔力は魔醒石で回復できるからと言って、体力は別問題である。
サリユは女の姿が消えたことを確認して、その瞬間、すぐに地面にへたり込んだ。
地面が冷たくて気持ち良い。
サリユは今の戦闘で相当、疲弊した。
いや、今の戦闘だけではない。
それに加えて逃げ続けたことで足はとうに限界を迎えていた。
しかし、それにしても――?
(おーい、聞こえるか? 何だか知らないがお前のお陰で助かったぞー!)
サリユは今一度、先程の謎の声に声を掛けてみるが……。
《…………》
返答はなかった。
それからもめげずに声を掛け続けてみるも、やはり返答はない。
何だったのか?
声の主の正体は? なぜ自分を助けたのか?
恐らく敵ではないようだが……。
いや、もしかしたら何かの思惑によって自分を助けた可能性はあるかもしれない。
(うーん……分からない。しかし、今は助かったことを素直に喜ぼう)
そうして一息ついて、地面に横たわっていると……凄まじい揺れが洞窟内を震わせた。
「な、なんだ!」
額に冷や汗を滲ませる。
嫌な予感しかしなかった。
「レムス……」
親友の名を口にする。
(まさか、レムスの身に……)
考えたくない想像だった。
あのレムスに至って、負けるはずがないと思っていた。
そもそも人間の限界は第五階層だと言っていたではないか。
そんな相手に後れを取るようなことなど……。
しかし同時にあの沼地竜の第六階層を突破した事実もあった。
だが、それも自分たちのように駆け抜けて第七階層に来たのかもしれない……。
(けれど、それならレムスが先に逃げろ、とは言わなかったはずだ。一緒に戦った方が確実に相手を倒せるのだから……。しかし、そうしなかったと言うことは……)
レムスは死を覚悟して、自分を逃がした?
サリユは苦渋の表情で、涙を目尻に浮かべた。
「レムス……レムス!」
サリユは一目散に元来た道を戻った。
しかし、女から逃げる時に出鱈目に道を選んだせいで、レムスがいる場所が分からない。
「レムス! レムス!」
それでもサリユは必死に道を辿る。
走って、走って、その先が行き止まりでも、引き返してまた新しい道を走る。
しかし、迷路の複雑さは増すばかりで、レムスのところへは一向に辿り着けない。
どうすればいい! 早くレムスの元へ行かなければ、手遅れに!
そうして第七階層を走り回って十数分――その声はまたしても突然に頭に降ってきた。
《魔力感知を行いますか? それならば目的の魔物を探知することが可能です》
唐突な声に一瞬、驚くサリユだが、そんなことよりも今はレムスだった。
疑問も驚きも後にしてサリユは謎の声の主に語りかける。
(ああ! 頼む! レムスを探してくれ!)
サリユの叫びとともに、突然、頭の中に第七階層の地図のようなものが浮かび上がった。
そうして、一点、赤く光る印を見つける。
「ここか!」
それを確認すると、すぐさまサリユは走って、赤い光がいる場所へと向かった。
複雑だった迷路も、地図を知ってしまえば、どうということはない。
先程が嘘のようにすいすいと目的の場所へと向っていく。
そして、ようやく赤く光る印の場所へと到着する。
しかし、そこには――
――横たわる一匹の狼がいるだけだった。
「……レムスか? レムスなのか……?」
声を掛ける。しかし、横たわる狼から返答はない。
「おい……声は聞こえてるか? サリユだよ……俺はサリユだ……」
しかし、狼から言葉は返ってこない。
狼の身体はピクリとも動く気配がなかった。
それはまさしく――
――死体のようだった。
近づいてみる。
毛皮は剥がれ、肌色の皮が晒されている。
恐らく冒険者の手によって剥ぎ取られたのだ。魔物の毛皮はよく売れるらしいから。
「おい、レムス……。レムス!」
サリユの叫びは虚しくも洞窟内に響き渡る。
レムスは死んでいる。
その事実が克明にすべてを物語っていた。
「レムス……レムス……レムス、レムス、レムス!」
呼びかける、呼びかける、呼びかける。
もう言葉は返ってこないと理解していても、言葉を掛けずにはいられない。
もうこの世にレムスと言う存在がいないことなど信じたくはなかった。
「どうして……どうして、言葉を返してくれないんだよ!」
涙が伝い――落ちて、レムスだった身体に着地する。
涙は虚しく、レムスの死体の表面を滑り落ちて、どこかで滲んで――消えた。
「おい……レムス……」
声はしぼんでいく。
親友が消える……。
もう何も分からない……。
『その時はよろしくな』
あの時のレムスの言葉を思い出す。
『その時は綺麗さっぱり俺を食ってくれ』
サリユは首を振った。
そんなこと出来るわけがない。
出会ってからそんなに時は経っていない。
けれど、レムスはもうサリユにとってかけがえのない存在だった。
なのに、その存在を……レムスの身体を食べる?
出来ない、出来ない、出来るわけがない!
しかし――
「レムス……」
このままレムスの亡骸を置いていくのか?
それとも『収納』で仕舞う?
どれも違う気がする。と言うかそもそも置いていくなどあり得ない。
では――どうするか?
どうするべきか?
「…………」
答えはとうに決まっていたのかもしれない。
サリユは目元を涙で滲ませ、赤く腫れ上がった目尻と瞼の痒みも構わず、レムスの死体に自身の牙を突き立てた。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
涙で前が見えない。
味なんかよく分からない。
しかし――食らった。
食らって、食らって、食らった。
食わねばならないと思って、食い続けた。
親友を――、兄弟を――、仲間を――、食った。
俺は俺は俺は俺は俺は……。
(なんだよ……なんなんだよ、この世界は!!)
サリユはレムスだった物体を全て胃袋に収めた。
肉も……骨でさも……。
そこにはもう何もない。
微かに血だまりが目立つのみ。
そこはただ変哲の無い地面ばかりが広がっている。
ああ、死んだのだ、とここでようやくサリユはレムスの死を実感する。
すべてが消えた……すべてが消えた……。
しかし同時にサリユの胸の内には沸々と黒く、暗く、メラメラとした怒りにも近い憎悪の感情が沸き起こっていた。
人間……人間……人間……。
前世での価値観がひっくり返った。
すべてが終わった。
いや、始まったのかもしれない。
「もう、駄目なのか……? 駄目なのか!」
サリユの叫びは一方通行である。
返答はなく、虚しくどこかに向かっていく
彼はもう一匹だった。
この先は一匹だけで歩むのだ。
「ありがとな……兄弟」
サリユは先に進む前に、後ろを振り返り、何もない場所へと呟いた。
これが――前世を含めて二度目になる親友との別れだった。
そして、これがこの世界で初めての――死別であった。
地下迷宮 探索編 ‐完‐