011話 沼地竜との死闘
まず斬りかかったのはガレスだった。
王国騎士時代から愛用している聖剣を高く掲げ、一瞬の速度で振り落とす。
聖剣は未だ王国がガレスに貸し与えていた。
王国の武の象徴、宝物の一つである聖剣をただの冒険者風情に所持させることは普通あり得ないことである。
しかし、王国内に聖剣を扱える人間はガレス以外には存在しなかった。
誰もが聖剣に憧れ、ガレスが騎士を辞した後はその後継を巡って王国騎士内で争ったほどだ。
しかし、その誰もが聖剣を持つことすら叶わなかった。
聖剣は所持者を自分で見極める。
――武器が使い手を決めるのである。
聖剣はガレスを選んだ。
ガレスがどこまで落ちぶれようと、聖剣は彼を見捨てることは無かった。
王国側もその事実に熟慮を重ね、使える者に持たせた方が有用である、という結論に至った。
また、王国はガレスのパーティに直接依頼をすることで、王国騎士でないガレスに間接的に国の仕事を行わせた。
どちらにしろ、結局、王国はガレスという貴重な戦力を手放したくはなかったのである。
だからこそ、ガレスに聖剣を貸し与えた。
ガレスは強くなり過ぎた。
その結果、当人を差し置いて、彼は様々な陰謀に利用されている。
しかし、彼自身はそんなことは梅雨知らず――いや、気付いていながら、それでも、どうでもいい、と思考を放棄している。
ガレスはただ魔物を狩れればいい。
それだけがガレスの望み――。
斬りかかったガレスだが、その聖剣は沼地竜の硬質な尾で受け止められ、彼の先制攻撃はいなされた。
しかし、その瞬間、すかさずテンルが魔法を詠唱して、攻撃を加える。
――『電撃流線』
雷系統の魔法の中では中位の方に位置する。
電流を滑らかな曲線を描くように自由自在に操ることが出来る魔法。
テンルの長杖の先から閃光が煌めいたかと思えば、次にはパチパチっと音を鳴らす。
そして――
「一瞬の痛みよ、神なる怒りよ、人間の恐れよ、今、この刹那の時だけ我の力となれ『電撃流線』!」
テンルの杖から放たれた電撃が沼地竜に直撃する。
一瞬、苦悶の表情を露わにするが、すぐに体勢を立て直し、尾を振り回して攻撃を再開する沼地竜。
どうやらテンルの『電撃流線』はほとんどダメージ無く終わったようだった。
「何故……?」
驚愕に顔を引き攣らせるテンル。
しかし種明かしは簡単だった。
ただ単純に相性の問題である。
沼地竜は土系統、水系統の魔法に秀でており、その結果、雷と火の魔法系統への、ある程度の耐性を獲得していた。
「テンル、水魔法を応用させた氷魔法であいつを攻撃してくれ」
「わ、分かりました!」
剣の構えを変えずに指示を出すガレス。
テンルは気持ちを切り替え、すぐに指示された氷魔法の詠唱に取り掛かる。
こういったメンバーへの指示は主にセルティネの役割だ。しかし、こと魔物においてはガレスほど的確な判断ができる者はいなかった。
だが、だからといって何もしないセルティネではない。内心、ガレスに指示の比重をかけている後ろめたさを感じながらも、自分も負けじと戦況を把握する。
今、一番厄介なのはあの尻尾だ。
硬質で、鋭く、後衛のセルティネとテンルに掠っただけで致命傷になり得る凶器である。
では、その為には前衛のタンクを担うドリグネに頑張ってもらう他ない。
そうしてドリグネに攻撃を引き受けている間にガレスには王国自慢の聖剣で斬りかかってもらう。
勿論、セルティネも指示を出すだけではない。先だってはドリグネへの常時的な『下位回復』の連用をしなければいけない。
何だかんだ自分の負担も大きいな、と苦笑するセルティネ。
いいや、このメンバーの中で負担の少ない奴などいない、か。
セルティネは首を振って目の前の敵に視線を戻す。
「ドリグネ、お願い!」
「おおともさ!」
盾を構え、身を縮める。
そんなドリグネに向かって沼地竜の尾の先端が一直線に刺突する。
――『壁』
直撃すれば、簡単に肉片を散らばらせるほどの威力――その攻撃をドリグネは小さな盾一つで防いだ。
沼地竜の尾は硬く、タルトミススの甲羅すら一撃で破壊する硬質さを誇る。しかし、そんな沼地竜の尾の刺突を、ただのドワーフがたった一人で防いだ。
「舐めるなよ、ドラゴン風情が! 儂の盾は鉄壁、なんて自分で言うもんじゃないがのう」
口の端を上げて、挑発的に目を細めるドリグネ。
沼地竜はやや怒ったように攻撃に失敗した尻尾を地面にドンドン、と叩きつけている。
「さあさあ、来い来い来い! お前さんの全ての攻撃を受けてやるわい」
鮮やかな朱の瞳がカッと見開かれ、沼地竜は姿勢を低くし、尾に神経を集中させた。
「グガァァァァァァァァ!!!!!」
沼地竜の咆哮と共に尾による連続攻撃が始まった。
刺突によるドリグネへの集中砲火。
どうやら的を一つに絞ったらしい。他は後回しということだ。
「くっくっく、魔物が。儂にゾッコンなのは嬉しいがのう……それでは他がお留守だわい」
「はぁっ!!」
がら空きの横腹にガレスが剣を振り下ろした。
「ググググッガガガッガァァァァァァ!!!!!!」
苦しそうに口を開け、声を上げる。
沼地竜は足に力を入れ、同時に足に接していた地面が抉れる。沼地竜はすんでのところで痛みに耐え、尾による攻撃を止めなかった。
「何⁉」
沼地竜の尾による刺突は凄まじい速度を有していた。
そしてその速度は刺突を繰り返す度に速くなっていき、段々とドリグネは追い付くのに必死になっていった。
最初は余裕に防げていた攻撃が、徐々に、じわじわとドリグネの対応速度に迫り――遂にはドリグネの反応の方が遅れる始末である。
「なんじゃ、こいつ!」
ドリグネが沼地竜の攻撃を受けている間、ガレスも果敢に聖剣で必殺の斬撃を加え、テンルも攻撃力の高い中位魔法を繰り出していた。
確実にダメージを与えている。
しかし、沼地竜はどんな攻撃を身に受けても攻撃の手を緩めずに――逆に精度を上げていた。
セルティネはほぼ間髪入れずに『下位回復』をドリグネに施し続ける。
しかし、この状態もいつまで続くというのだろうか。
このままではいけない。
いつかは魔物の体力に追いつけずに、息を切らせて負けてしまう。
何か現状を変化させる契機を作らなければ……!
セルティネは即座に判断を決し、テンルに魔法攻撃を一旦やめさせ、ドリグネに対して支援魔法をするよう指示した。
テンルは焦りの表情を見せながらも彼女の指示に従い、詠唱を破棄して下位の支援魔法を連続して発動させた。
「『魔力上昇』、『体力上昇』、『感覚鋭敏』、『反応速度上昇』、『消費速度軽減』」
ドリグネはテンルの魔法によるあらゆる身体能力の付与を受け、目をぎらぎらと荒々しく輝かせた。
「これで、もう少し遊べそうじゃな……沼地竜!」
息を切らせて、何とか防いでいた沼地竜の攻撃を、向上した身体能力で完璧に対応してみせた。
いや、思った以上に反応速度が上がり、ドリグネの方がやや余裕を持って防御に徹している。
しかし、セルティネの判断にも増して、沼地竜の対応も早かった。
尾による刺突攻撃を加えつつ、おもむろに沼地竜は口を開け、その奥で何やら魔力が練り固まれていく。
次の瞬間――
――『水龍撃砲』
口から放たれた魔法は炎でも雷でもなく、水であった。
しかしてその水は細く、速く、それによって攻撃範囲は一点に絞られるものの、威力は異常なものへと変わっていく。
すかさずドリグネは『壁』を発動し、すんでのところで間に合ったものの、しかして『水龍撃砲』の前では盾など無意味だった。
容易くドリグネの構えた盾を貫通し、その奥、彼の胸をも通過する。
「ドリグネ!」
それを確認してすぐにガレスは今までで一番の剣のきらめきを見せ、沼地竜に聖剣を振り下ろす。
だが、沼地竜はそれを予期したように、身体をくねらせ足を壁に貼り付けて移動し始めた。
「何? この動き?」
今まで見せなかった回避方法だった。
そして――沼地竜の動きはここから加速度的に流麗になっていく。
ほとんど動かずに攻撃を耐えていただけだった沼地竜が柔軟な身体を活かして、ガレスの斬撃を軽やかに躱していく。
それに加え、回避をしながらも、攻撃の手は緩めない。
依然、ドリグネへの放射攻撃は続いている。
ドリグネは防御することを諦め、転がるように『水龍撃砲』を躱すが、しかしてその速度は目に見えない程に速く、ドリグネの身体は至る所を血に染めて、中身の肉すらはみ出す有様だった。
沼地竜は手加減をしていた――
いや、手加減ではなく、様子を見ていただけなのだろう。
自分たちが沼地竜にとって力を出すべき相手なのかを……。
そうして自分たちは運悪く、沼地竜に認められた、という訳だ。
だが――これで形勢は一気に逆転された。
というか、そもそもポテンシャルに差がありすぎる。
なんだ、こいつは?
化け物だ。
こんなにも強いのか?
こんなにも竜という存在は強いのか?
いや、あり得ない。
沼地竜はそもそも竜の出来損ないである。竜になれなかった種族たちだ。
しかし今、目の前に相対する沼地竜が欠陥品だとは到底思えない。
やはり、こいつが特別か。
セルティネは眉間の皺を深く刻んで沼地竜の考察を続ける。
しかして、答えが出る訳もない。
だが、この沼地竜はどこか――おかしい。
文献で読んだ沼地竜がこんな滑らかな動きに長けていたなどとは記述されていなかった。
地下迷宮の沼地竜だから――特別?
(うーん、分からない! 分からないけど、私たちはどっかで何かを見落としている……)
そこでハッとしてセルティネは周りを見回し始めた。
そして、その光景に目を見開く――
「沼地竜が……いない!」
そこには先程まで隊列を組んでいた沼地竜の姿が一匹も見当たらなかった。
これは……。
(まさか、こいつ『個性顕現者』? ユニークスキル持ちって言うこと? だとしたら……)
そこでもう一つの疑問にも考えを深める。
(そうだ、あの魔法。水を細くして放射する魔法。あれも確かどこかで読んだ気がする……そうだ! あれは水龍が扱える水系統の上位魔法『水龍撃砲』……だとしたら、こいつ! 水龍の魔法が使えるってこと?)
驚愕した。
水龍――つまりは龍である。
竜ではなく――龍。
神話に活躍したと言われる龍種族。
そして神話で語り継がれていながら、現代でもその存在が確認されている、この世で恐れられる最強の種。
そんな最強種族の一体――水龍の魔法を扱うことが出来る目の前の沼地竜……。
やはり、この沼地竜はユニークスキルを所持しているとみて間違いはないだろう。
ユニークスキルの内容は水龍の魔法を使える……いや、そこまで万能なスキルが沼地竜に授けられるとは考えられない。
何か制限がある筈だ……。
そしてセルティネは思い至る。
(そうか、水龍の魔法は同時に二つ使用することが出来ないのか! それなら他の沼地竜が消えたことにも説明がつく。恐らく『同族顕現』やシモベの召喚魔法の類だったんだ。そして『水龍撃砲』を使用したことで魔法の効果が消え、沼地竜たちが消えた……!)
召喚魔法は人間何十人単位で行われる一種の儀式魔法である。
そんな召喚魔法をたった一匹でこなせてしまう存在は……やはりこの世のどこを探しても龍ぐらいだろう。
やはりこの竜は特別だ。
しかし、沼地竜の絡繰りは理解できたが……それではどのように対処すればいいか?
正直、セルティネには妙案など思いつかなかった。というか、相手の手口を見抜いただけでも褒めてほしい。
水龍の魔法を使える。
そんな相手にまず立ち向かうこと自体が正解なのか?
どうやら自分たちは最初から間違っていたのかもしれない。
覚悟を決めたはずが、いざ、その場所が死地と分かったら急に恐ろしくなってきた。
セルティネは堰き止めていた恐怖を吐き出しそうになる。
(ヤバい、私、震えてる……? 皆、頑張ってるのに私だけ恐怖で震えちゃってる……)
ドリグネは必死に回避を試みるが、段々と肌色が赤黒い血の色で染まっていった。
テンルもドリグネとガレスのサポートの為、攻撃魔法を繰り出しながらも支援魔法を発動させ、肩で息をし始めている。
そろそろ限界だ。
ガレスは……一心不乱に斬りかかっている。
しかし、攻撃のことごとくを躱されている。
だが、それでもやはりガレスと言ったところか。
剣技の三流派を上手く混合させた上で、どうにか沼地竜の動きに対応させていた。
ガレスの連撃が実を結んで徐々に斬撃が当たっていく。
だが、決定打には程遠い。
持久戦にもつれ込めば確実に自分たちが最初に膝を崩すとセルティネは確信していた。
だが、状況を変えるきっかけが思いつかない。
どうにか、セルティネも『下位回復』を連続発動させて、ドリグネとガレスの動きを維持させているが、それもそろそろ終わりが見えてくる。
セルティネの魔力は限界を迎えていた。
「大地よ、人の叡智と努力の結晶を認めよ。これが我らの礎であり、堅牢なる精神の具現化である。『城壁』!」
ドリグネが渾身の防御魔法『城壁』を発動させた。
人が扱える防御魔法で一番の頑丈さを誇る『城壁』である。
どんな攻撃をも無効にし、これを破った者は過去に存在しない。
それは――龍であっても。
沼地竜による『水龍撃砲』が炸裂する。
しかし、ドリグネの『城壁』がそれを完全に防ぎ切った。
まさに鉄壁――最強の防御魔法である。
だが、その効果も一定時間しかない。
その間に『城壁』の効果範囲に皆を集めた。
「さて……どうする……」
ドリグネの声は途切れ途切れだった。息も絶え絶えで、そのまま倒れてもおかしくない。
ほとんど意識は朦朧としているだろう。
だというのに、ここぞというタイミングまで彼は『城壁』を温存した。
自分の為ではなく、仲間の為にそのタイミングまで待っていたのだ。
「ドリグネ、それよりも回復を……」
セルティネが手に持っている錫杖をかざそうとして、ドリグネに首を振られた。
「よい……。あとの分はガレスとテンルに取って置け。儂はもう――長くない……」
「何言ってるのよ! このまま逃げれば……!」
しかして、ドリグネは再度、首を振った。
今度はゆっくりと強い意志を胸に――首を横に振った。
「逃げれるなら、とうにしておるじゃろ? 恐らく、あ奴はそれも織り込み済みじゃよ。この階層に入った瞬間から儂らはあ奴を殺さぬ限り、後ろに戻るも、前に進むも出来んよ」
「それは……」
セルティネも薄々勘づいていた。
この階層はあの沼地竜の為の階層だ。
階層の狭さも、沼地竜しか存在しない事実も……それら全てが物語っていた。
「儂はここで全力を尽くす。文字通り全ての力――生きる為の生命力さえ使って足掻くつもりじゃ」
「そうか」
相槌を打ったのはガレスだった。
彼は覚悟を決めた者の意見を何よりも尊重し、賛同する。
ガレスもまた覚悟を決めた者だから……。
けれど、そんな二人をセルティネは許さない。
「ダメ! 死ぬのは絶対に許さない!」
「おいおい、セルティネよ……最後くらい儂の我儘を聞いておくれよ」
「だから、ダメ! 死ぬなんて……ダメ……」
ドリグネは微笑みながらため息を吐いて、セルティネに優しい声で語りかけた。
「セルティネよ、自分の死に様ぐらい決めさせておくれ。儂は逃げる最中に死ぬなんてのは、そんなの死んでも死にきれんよ」
「………」
セルティネは押し黙った。
そんなことを言われたらどうしようもない。
ドリグネがもう助からない、そんなことは彼女が一番理解していた。
後衛における神官としてメンバーの状態は逐次、把握していたのだ。
そして、その上でセルティネはドリグネが瀕死の状態であることを理解している。
「あの……ドリグネさん。あなたの覚悟を信じて、沼地竜の足を止める案を一つ提案したいのですが……」
「ほほう、何じゃ、テンル、珍しいのう」
「僕も……覚悟は決めたつもりなので……」
「そうか……そうじゃったのう」
そうしてテンルは話し始めた。
テンルの提案にガレスは静かに頷き――
セルティネは声を出して激高した――
最後にドリグネは大笑いして、テンルの提案を飲んだ――
「本当に……やる気なの?」
「ああ、やるとも。お前さんらの為なれば、こんなことお安い御用じゃよ」
目元に皺を浮かばせて、元気に笑顔を見せるドリグネ。
その表情は今から死のうとする人間の顔とは思えないほどに嬉々としている。
そして――彼らが決意を決めると同時に『城壁』の効果が切れた。
「よし、儂が先鋒じゃ、行くぞ!」
沼地竜に向かって突貫するドリグネ。
ドリグネにはもう躱す体力も、魔法を発動させる魔力も、何も残っていない。
だからこそ今の彼にはただただ一直線に突進するしかなかった。
沼地竜はやや警戒しながらも、距離的有利から考えて『水龍撃砲』を放った。
ドリグネは盾を構えて突進する。
すぐさま『水龍撃砲』によって盾は穴を空けて貫通され、ドリグネの身体にも同様の空洞が生まれる。
しかして、ドリグネは構わずに走り続けた。
「ウオォォォォォォォ!!!!」
叫びをあげる。そうでないと、自分の身体を騙せないから。
叫びをあげる。そうでないと、自分はまだ生きていると証明できないから。
叫びをあげる。そうでないと、相手に自分という存在を認識させられないから。
ドリグネは走った。走って、走って、走った――
そんな彼の猛追に沼地竜は一瞬――それは本能がそうさせたのか――後退った。
人間が死をも恐れずに、死の直前で見せる本物の叫び。
それは他者をもっとも恐怖させる生命の輝き。
魔物であってもそれは同じだ。
たかが、人間と見下しながらも、その叫びには一瞬だけでも恐怖を覚えた。
ドリグネはようやく沼地竜の目の前まで辿り着き、片手剣を沼地竜の身体に突き刺した。
表皮は尻尾と同じほどに硬い。
しかしドリグネは諦めない。
「ウオォォォォォォォ!!!!」
またも雄叫びを上げて、腐乱に剣を振り下ろす。そして、遂にはドリグネの片手剣が沼地竜の表皮を貫通し、中身の肉に突き刺さる。
沼地竜は苦しそうに見悶える。
ドリグネは最後の力を振り絞って、沼地竜にしがみついた。
身体はボロボロ。目も虚ろ。
彼はもう、とうに意識は無かった。
あるのは狂気のみ。
魔物を殺す――それだけを本能で覚えている人間の形をした何か。
ドリグネはもう――死んでいる。
「いきますよ!」
テンルが最後の確認としてセルティネに顔を向ける。
セルティネは悲しそうに、そして寂しそうに頬を涙で濡らして、頷いた。
「ええ……」
その震えた声を合図にテンルの詠唱が響き渡る。
「止まれ、止まれ、止まれ。人よ止まれ、空気よ止まれ、世界よ止まれ、時よ止まれ……『氷結三角封』!」
沼地竜を中心に三つの点が現れ、点と点を結んで三角形が地面に出現する。
そして、その三角形が回転し始めると同時に沼地竜の周りが白い煙で覆われていく。
煙――いや靄である。
その靄は冷たい空気と一緒に辺りを漂う。
靄が沼地竜を覆い隠す。
沼地竜の甲高い叫び声が聞こえる。
その声は悲鳴のように鋭く空気を震わせた。
沼地竜の姿は見えない。
靄が晴れていくと徐々に沼地竜の姿が見えてきた。
沼地竜とおぼしき黒い影がオブジェのように聳え立っている。
その影はピクリとも動かずにそこに存在する。
靄が晴れた。
そしてその光景をガレスたちは目の当たりにする。
沼地竜は――氷漬けにされていた。
ものの数十秒で沼地竜は凍ったのだ。
――ドリグネと共に……。
テンルの魔法は完璧に決まった。
しかしまだ喜ぶことは出来ない。
凍らされた不動の沼地竜がガタガタと震え始めていた。
テンルの実力では完全な氷結には至っていない。
つまり――そう、足止め程度しか出来ない。
だが、ガレスにとってはそれで十分だった。
「ありがとな、ドリグネ……」
もしかしたら初めてかもしれない。彼がメンバーの名前を言って、尚且つ感謝も述べた。
ガレスは聖剣を掲げ、瞼を閉じる。
彼が磨きに磨き上げ、剣聖に教えを乞うて身に着けた奥義。
――『天斬』
沼地竜とドリグネを内包した氷は、横一線で一刀両断された。
上半分の氷がズレ落ち、地面と激突する。
激突した衝撃で氷が粉々に粉砕した。
丁度、沼地竜の顔の部分だろうか……。
「終わった……。いや……」
ガレスは氷漬けにされたままのドリグネに視線を向ける。
ドリグネは最後の最後、テンルが魔法を発動したタイミングで、解放されたように全ての力が抜け、眠るように瞼を閉じていた。
凍らされた彼の表情はどこまでも――安らかだった。
「ちょっと、テンル! 大丈夫なの! ねぇ、テンル!」
ガレスが後方に顔を振り向けば、そこには顔や身体が皺だらけになったテンルがセルティネを支えにして横たわっていた。
よく見れば皺だけではない。髪も白髪に染め上げられ、唇もカサカサだ。
テンルの姿にはほとんど生命力が感じられなかった。
「ねぇ! 聞こえるの! ねぇ! ねぇ!」
テンルは『氷結三角封』を使った代償に魔力だけでなく、彼の生命力さえ吸い取られたのである。
テンルはこの結果を承知の上で作戦を提案した。
彼自身、死ぬことは怖かったが、何よりもパーティの役に立ちたいと思ったのだ。
ずっと後衛で守られてばかりの自分でも、いつか皆を守りたい――
エルフは長命である。
その生命力も比例して大きなものだが、それでも彼の実力では届かなかった。
死という代償でようやく『氷結三角封』の出来損ないが発動できた。
しかし、それでも、対価が見合わなくとも――彼は死を受け入れて魔法を放った。
第六階層ではセルティネの泣き叫ぶ声だけが響き渡った。
もうここには二人しかいない。
入った当初はあんなにも沼地竜がウロウロしていたというのに、今はたったの二人だ。
寂寥感と悲壮感が第六階層を埋め尽くす。
――ドリグネ・ドロンゴ
――テンル・ミーミア
ガレスとセルティネは二人の仲間を失った。