010話 第六階層
ガレス・ウェルナーたちは第四階層を抜け、第五階層に繋がる両開きの扉を前にしていた。
第四階層の主な魔物、泥人形と魔泥人形たちには何とか辛勝した。
特にマジックゴーレムに関してはドリグネに攻撃を一挙に引き受けてもらった上で、それでも防ぎきれなかった『光球乱射』を躱しながら、ガレスが切り掛かる。
同時に、テンルの魔法で遠距離攻撃を加え、じわじわとダメージを与えていき、ようやっとマジックゴーレムが倒れるのを待った。
戦闘終了後、躱しきれなかった『光球乱射』によって傷つけられた身体の箇所をセルティネの『下位回復』で癒してもらう。
ガレスの身体は前衛ということもあって、傷だらけである。
セルティネはその傷だらけの身体を見て、ガレスを叱った。
「なんで、こんな無茶な戦い方してるのよ! ドリグネに全部攻撃を受けてもらった上であんたが切り込む、それがこのパーティのセオリーでしょ?」
「構わない。勝ったんだから良いだろ……」
「良くないわよ! 回復させるのは私の役目なのよ!」
「まあまあ、その辺で……」
「テンルは黙ってなさい!」
「はい……」
しょんぼりと肩を落として押し黙るテンル。そんな彼の肩を叩いて慰めるのは背の小さいドリグネである。
「すまんすまん、儂が悪い。全ての攻撃を防ぎきれんかったからのう。だから責めるのなら儂を責めとくれ、セルティネよ」
「ドリグネ……! まったく……今回はこの辺にして置くけど、次は無いからね!」
「ああ、善処する」
「はあ……」
この男は本当に理解しているのか甚だ怪しいが、ここでこれ以上声を荒げても意味が無いことをセルティネも分かっている。
今は少しでも体力を回復させて第五階層に向かう準備をしなければいけない。
なにせ、次の第五階層は人間の限界といわれる領域なのだから――
気持ちを入れ直してかからなければ、すぐさま自分の首が飛ぶ、そんな世界に足を踏み入れるのだ。
比較的、安全とされる次の階層に繋がる扉の前に陣取り休憩を取る面々。
焚火を起こし、携帯食料を作業的に食べていく。
唯一、ガレスは見張りを自ら申し出て、今も他のメンバーから少し離れた位置で周りを警戒していた。
「あいつが一番、疲れてるはずなんだけど……?」
眉間に皺を寄せて、投げやりに呟くセルティネ。
彼女はいつもガレスの動きに頭を悩ませていた。
王国騎士から落ちぶれて冒険者になったガレスは相対した魔物を確実に殺そうと、自らの手で突貫することが多く、パーティはその援護をするのに精一杯になってしまうことが多々あった。
彼はどこまでも魔物を憎んでいる。
だからこそ暴走する事がある。
実力は認めている。
しかし、だからといって自身の力を過信し、単独で突貫するのはパーティを組んでいる自分たちのことを無視している、と言って良いだろう。
だけれど、そんなことを言えば、彼は「なら、俺一人で行く」と返答するのだろう。
どうして彼は他人も――そして自分でさえも大事にしないのか。
彼はどうしたいのか?
誰を救いたいのだ?
――いや、彼はその目的をすべて失ったからこそ、虚ろな瞳でただ魔物を殺す、その妄執に憑りつかれているのであろう。
そして、セルティネ――彼女はそんな彼をほっとけなかった。
――――――――――――
彼と出会ったのは冒険者組合で手頃な依頼でも探そうと掲示板を眺めていた時だった。
何やら受付から感情のない平坦な声が聞こえてきたのである。
「魔物を殺せる依頼は無いか? どんな奴でもいい。小鬼でも竜でも何でもいい。できれば、多くの魔物を殺せるなら言うことは無い」
我耳を疑った。「何だ、その要望は?」と思った。
ゴブリンでもドラゴンでもいい、と言うのは余りにも魔物の幅が広すぎる。
そして、その二匹の魔物はまったく別の理由によって冒険者の間で最も敬遠される退治依頼である。
ゴブリンは単体では腕自慢の村人でさえ勝てる最弱の魔物だが、その最も厄介なのが、群れを成した場合である。
先述したようにゴブリンは力は無いが、悪知恵が働く。
まずもって真正面からの戦闘は考えられず、予め戦術の対策を練らなければいけない。
しかして、そこまでの労力を掛けながら、対価である報酬は微々たるものである。
その理由は騎士などが駐在していない辺鄙な村からの要請が大半であり、そのことからも察せられるように多額の報酬を出せるほど余裕がないのである。
その結果、ゴブリン退治の依頼は冒険者の間で敬遠されている。
もう一つのドラゴン退治に関しては、ゴブリン退治とは真逆で強すぎるのである。
まずもって英雄と言われる一部の冒険者でなければ太刀打ちできない。
ドラゴンは強靭な身体に暴力的な力、多彩な魔法に人間を凌駕する知能を併せ持った魔物の中の最強種である。
ゴブリン以上に綿密な対策をした上で、冒険者自身の能力も高くなければいけない。
その対価に見合った報酬は払われるものの、ほとんどの冒険者にとっては自ら死に行くようなものである。
評議国の冒険者組合ならまだしも、この王国の冒険者組合でドラゴンに対抗できる冒険者は存在しない。
いや、一人だけその可能性を有した人物がいたか――
あの、王国筆頭騎士にまで上り詰めた最強の剣士――ガレス・ウェルナー
彼ならば、もしかしたらドラゴンでも斬り伏せてしまうかもしれない。
セルティネはそんなことを頭に思い浮かべながら、馬鹿な発言をしている――それこそ馬鹿者の顔を確認しようと視線を向けた――
そこには自分が先程、頭に思い浮かべた人物――ガレス・ウェルナーがいた。
「あの、すみません。ガレス様の実力は重々承知しておりますが、流石に単独での依頼の実行は組合としても推奨しかねます。申し訳ございませんが一度パーティを組んだ上で再度、お越し下さい」
「そうか……そうなのか」
やはり目の前にいるのは、かの王国筆頭騎士のガレスだった。
何故、彼がこんなところに……? と、疑問を抱いたが、まさか、あの噂は本当だったのだろうか。
王国最強の剣士――ガレス・ウェルナーが騎士の任を辞した。
王都を中心に王国各地にその噂はまことしやかに広がっていたが、その内容に国民は皆、懐疑的だった。
あの最強の騎士がどんな理由で辞めるのか、全く想像できない。
唯一、王都の魔物侵入事件が原因として影響しているかもしれないが、あの事件も結果からしてみれば仕方のないことでもあった。
少なからず王国騎士の対応に批判もあったが、実際、王都を囲む城壁には王都の都民全員がその頑強さに安心していた。
だからこそ、魔物の侵入など予想できない。
責を問うのであれば、これは王国騎士ではなく、それを予期できなかった上層部の責なのではないだろうか。
また、王国側も最強の騎士を手放すメリットが考えられない。
逆にデメリットの方が多く思い浮かぶほどだ。
どのような理由にしてもガレスが王国騎士を辞める理由は思いつかなかった――が、しかし目の前にはそのガレス本人がいる。
その事実が何よりも噂を真実たらしめた。
受付を離れたガレスにセルティネは好奇心から話しかけた。
「いいかしら? あなた、ガレス・ウェルナーよね? あの噂は本当だったの?」
「……。ああ、俺はガレス・ウェルナーだが……。お前の言う噂ってのは何だ?」
初対面の相手に直球の質問をするセルティネだが、そう言った回りくどいことが嫌いな性格が彼女の良い所でも悪い所でもある。
本音で話し合う――嘘は優しくもあるが、結局、面倒くさい。
それが彼女の考えだった。
そんなセルティネの問いかけに、しかしガレスは虚ろな瞳で、受け答えもどこか覇気がない。
これがあのガレス・ウェルナー本人なのだろうか?
同名の他人という線もあり得るかもしれない、と一瞬考えを過ぎらせるが、流石に馬鹿らしい、とその考えを一蹴する。
「噂っていうのは、あなたが王国騎士を辞めた事よ。本当なの?」
「ああ、そんなこと噂になっていたのか……。本当だ。俺は王国騎士を辞めて冒険者になった」
「どうして?」
「それは……魔物を殺すためだ」
最後の一言は力強い声で放たれた。
瞳も先程の虚ろさは無く、闘志――いや、それよりも禍々しい何かで燃えている。
そんなガレスの状態にセルティネは危うさをすぐに察知した。
そんな存在を彼女はほっとけない。
「あなた、大丈夫? 何があったの?」
「いや、何も……」
何かはあった――彼の言葉が嘘なことくらいセルティネも理解できる。
「本当のことを言いなさいよ。それとも嘘つく理由でもあるの?」
「いや……ない。ただ俺が思い出したくないだけだ。いや、思い出さないことなんて、ないか。いつもその悪夢に苛まれている……」
そうして訥々と語られるガレスの話。
魔物侵入事件によって魔物に殺された最愛の妻のこと。
妻を殺された恨みだけが自分の中を支配して、今は魔物を殺すことだけしか頭にないこと。
彼女は静かにガレスの話を聞き、話が終わると、セルティネは唐突に立ち上がって、ガレスに人差し指を向けた。
「ガレス! あなた、私とパーティを組みなさい! やっぱりあなた危ないわよ。このままじゃ、すぐに死ぬわ。いいえ、あなた、死ぬ気でしょ? それは私が許さない。だから一緒にパーティを組んで私があなたを監視する」
「どうしてお前がそこまで俺を……?」
「……ほっとけないからよ。そんな顔で……今にも死にそうじゃない」
「俺の顔……?」
ガレスは自分の顔をペタペタと掌で叩くが、無精髭がチクチクするくらいだ。
「はあ……やっぱり一人にさせられない」
ガレスは急に自分に突っかかってきた女を興味深げに眺めた。
驚き、という感情が瞳には宿っていた。
しかし、表情筋はいつの間にか感情を表すことも出来ずに、死んだように彼の顔を支配する。
それもいつしか表面だけでなく内面さえも……。
感情が死んでいく……。
「分かった。俺も丁度パーティを探していたところだ」
ガレスは事務的に彼女の申し出に答える。
そんな彼にセルティネは嘆息を吐きながら頷いた。
「それじゃあ、パーティを組みましょう。それと他のメンバーも紹介するわ」
「お前だけじゃないのか?」
「そうよ、あともう二人いるわ」
「そうか……」
セルティネは組合内を見渡し、目的の二人を探した。
その二人がドリグネとテンルである――
――――――――――――
昔のことを思い出していた。
セルティネは頭を振って携帯食料を胃に貯める。
これは食事とは言えない。
ただ胃袋を満たすための作業である。
味は悪いし、食感もドロドロしている。しかし、腹持ちだけは良い。ただそれだけで冒険者には愛されている携帯食料。
「ガレス! あんたも食べなさいよ! 次は第五階層よ! 腹が減って戦えない、じゃ話にならないわ!」
見張りをしていたガレスはゆっくり首を縦に振って、三人の元へ近づいた。
「ほれ、ガレス、携帯食料じゃ。味は不味いがそこは勘弁しておくれ」
「お前に文句は言わない」
「それもそうじゃな。儂が作った訳でもないな、ははっ」
ドリグネが笑う。対してガレスは無表情で受け取った携帯食料を食べた。
「さて、冗談を言うのもこの辺にしておくかのぅ。次は遂に第五階層じゃ」
「そうね、第五階層には――あいつがいるわ」
「大猿王……ですね」
「ええ……」
大猿王――この魔物の存在が立ち塞がっている影響で人間たちは第五階層以降の階層に行けないでいる。
もし、神話に登場する英雄たちがいれば大猿王など遊び相手にもならないだろうが――現代人においては勝つことは叶わない魔物として認定されている。
つまり今回の依頼は実質、大猿王の討伐が主目的である。
調査、というのはただのお題目だ。
大猿王が使用する魔法は土魔法が主である、と何十年前の探索隊の記録に残されていた。
その対策としてガレスたちはいつもの鎧よりも硬く軽いものを装備してきた。それなりの値段はしたが、これも危険と引き換えたらお釣りが出るだろう。
それに王国から前報酬も貰っている。
まだまだ懐には余裕があるほどだ。
「それじゃあ、開けるぞい」
「はい、片方は僕が開けます」
ドリグネが右、テンルが左の窪みを掴み、横にスライドさせていく。
扉からやや離れた位置で正面を見据えるのは、鞘に手を添え、身構えるガレス。さらにその後ろにセルティネ。
ガガガガガガ、と重厚な両開きの扉が開いていく。
開いてすぐに第五階層という訳ではない。
少し下って、その後にようやく辿り着く。
しかしこれも念には念を、である。
扉が開き、暗闇が生じる。
足音は無く、気配も無い。
どうやら、魔物は潜んでいないようだ。
「よおし、儂が先頭を行く。殿は任せたぞガレス」
「ああ」
ドリグネを先頭に第五階層へ進んでいく。
ちなみに扉はこのまま。逃げる時に扉が閉まっていては逃げられるものも逃げられない。
ゆっくりと、足をジリジリ擦らせて移動する。
遅々とした前進だが、こうして移動しなければ魔物の奇襲に対応できない。
そうして鈍重な移動をすること二十分ほど――ようやく第五階層の入り口に到着した。
入口は先程のように扉がある訳ではない。
そう、ここからは人間の手が届かなかった領域――それが第五階層。
暗く狭まった通路から大きく開けたところへ出た。
「よし、気を引き締めて行くわよ」
「おうとも」
「はい」
「ん」
各々がセルティネの掛け声に返事をして、第五階層にその第一歩目を踏み出した。
第五階層を探索すること、三十分――
しかして、懸念していた大猿王との遭遇は未だ果たしていなかった。
「どういうこったい、こりゃあ。大猿王の姿形もありゃしないじゃないか」
「油断は禁物……。だけど、おかしいわね。そんなに広い階層でもないんだけど……」
彼らは大猿王との戦闘に注力して、今回の依頼に臨んだのだ。
その覚悟は本物であった。
しかし、覚悟云々以前にその大猿王が現れなくては否が応でも彼らの緊張感も途切れるというものである。
「おい、これを見ろ……」
殿を務めていたガレスが地面を指差し、声を掛けた。
メンバーはすぐにガレスの方へ振り返り、近寄った。
ガレスが指さす先には岩壁に血のようなものが付着している跡があった。いや、これは十中八九、血で間違いないだろう。
「こっちにもある」
続けてガレスが別の箇所にも指をさす。
そちらには岩壁よりも明確にその痕跡が血であると証明していた。
地面に血色の水溜まりが出来ていた。
いや、血溜まりと呼んだ方が正しいのだろうか。
「これは――魔物の血じゃろうな」
「もしかして、大猿王の……?」
テンルが震えた声で疑問を口にした。
「まさか、大猿王は第五階層の絶対王者よ。この階層に大猿王を殺せる魔物がいる訳……」
「いや――これは大猿王の血だ」
「ガレス?」
ガレスは周囲を眺めて、頷いた。
「周りの岩壁を見てみろ。所々が抉られるように不自然な凹凸がみられる。ここで……恐らく魔物同士が争ったんだろうな」
「だから、この血が大猿王のだということか、ガレスよ」
「ああ」
ふむふむ、とドリグネは髭を掻きながら頷いている。どうやら彼はその説明で納得したようだ。
「けど、その場合、大猿王じゃなくて相手の魔物の血って可能性もあるじゃない」
「ああ、だから断定はできない。けれど、この血が大猿王のもので、そして大猿王が死んでいるとすれば、三十分も探索して遭遇しないことに説明がつく」
「まあ、それはそうかもしれないけど……」
このパーティにとってセルティネはまとめ役である。なので最後までメンバーとの議論を発展させた上で最終的な判断を行う。
セルティネも嬉々としてガレスの意見に対抗している訳ではない。
しかし今回に至っては……どうなのだろうか……?
確かに大猿王に遭遇していない事実を鑑みれば、本当に大猿王は死んだと見ていいのかもしれない。
ここで判断を下すのは難しい。
だから、この血の跡に関しては保留する他ない。
「先に進むわ。この血に関しては戻って来た時にでもまた検証しましょう」
「そうじゃな」
ドリグネに続いて他二人も頷く。
そうしてもう三十分ほど第五階層を周り、ようやく第六階層へ続く入口と思しき大きな穴を見つけた。
「結局、大猿王は姿を見せなんだな」
「はい……少し不気味ですね……もし、あの大猿王が死んでいるとして、それを殺した魔物がいるという訳でしょうか? だとしたら……」
「分かっておる。この先は想像を絶する魔物どもがおるということじゃ。気を引き締める、その程度の覚悟では到底、敵わぬ相手だろうな」
「はい……」
二人の会話にセルティネも唾を飲み込み、緊張を露わにした。
しかし唯一、ガレスだけはいつもの無表情で穴の先の暗闇を見つめている。
「ほほう、やはりガレスは肝が据わっておるわい。おぬしならこの先の敵も怖くないか?」
「ああ、怖くはない。あるのは憎悪だけだ」
「ふむふむ、そうか。流石、ドラゴンをも倒せると言わしめる男じゃ。頼りにしておるぞ」
「ああ」
「僕も頼りにしています」
「ああ」
パーティ内におけるガレスへの信頼は絶大なものだった。
それも今まで一緒に様々な依頼を受け、その過程で幾度もガレスに助けられたからである。
ドリグネもテンルも……そしてセルティネも彼の実力に全幅の信頼を置いている。
大丈夫、自分たちなら第六階層も攻略できる……!
それぞれに決意を固め、いざ、ガレスたちは第六階層に進んだ。
ジメジメと淀んだ空気が充満している。
第五階層を後にして湿度が急に高くなった。
不快な雰囲気が漂う空間。
どうやら第六階層はそういう場所らしい。
「嫌な予感しかしないわ。ゆっくりと、静かに進むわよ、みんな!」
「あいよ、分かっておるよ、セルティネ。儂の勘もこの先は危ない、と警鐘しておるわ」
湿り気を帯びた熱が身体を舐める。
装備や服を脱いで、すぐさま開放的になりたい欲望を押し殺して、不愉快極まりない流れ出る汗を荒々しく拭う。
皆、眉間に皺を寄せて、この空気に耐えかねていた。
緊張感――冒険者にとって大事な事を訊かれれば、まずもってそれが大切だと誰もが答える。警戒心や冷静な判断、それらは詰まる所、適度な緊張感の有無によって大きく変わる。
有れば有るだけ身体は強張り、咄嗟の動きが出来ない。
無ければ無いだけ身体は軟化し、こちらも咄嗟の動きが出来ない。
そして今の彼らはその緊張感を――このジメジメとした空気によって霧散されそうになっていた。
不快感――それは冒険者にとっての天敵。何故なら緊張感を失わせる即物的な感情だから。誰しもが持つ感情であり、誰しもが簡単に生じさせることの出来る感情。冒険者はいかにその不快感を制御し、目の前に集中できるかが生死の分け目を決する、と言われている。
これは不味い、とセルティネも分かっていた。
しかし湿度対策などしていない。
ここからは未踏の地――対策もクソも無い。
今はただ我慢するしかない。
そうして歩くこと十分ほどで光を内包した穴を前方に確認した。
「ようやくじゃの」
「ええ、ここからは陣形を組んだまま行くわよ。前衛がドリグネで中衛がガレス。後衛が私とテンルで行くわ」
「後ろはええのかのう」
「一応、私とテンルで後ろを気にするけど、重要なのは前方でしょ?」
「それもそうじゃな、後ろ、と言ってもこの穴だけじゃしな。まず後ろからの敵襲はありえんか?」
「そう考えたいけど……まあ、完全に奇襲がないとは言い切れないけどね」
「そうですね」
「ガレスはそれで良い?」
「ああ、問題ない」
「……まったく相変わらず愛想がないわね……。本当に良いの? ここからは後戻りなしよ?」
「ん……? ああ、理解している」
「はあ……」
セルティネはガレスの反応にため息を吐いた。
この反応は分かっていない。
自分の質問の真意が読み解けていない。
「あのね! あなた、娘が一人いるのよね! 私は、もうその娘とは会えないかもしれないって言ってるのよ!」
「……それは……問題ない。娘は義父のもとに預けている。俺が帰ってこなくても義父たちが育ててくれる手筈になっている」
「あなたね……!」
「その辺にしないかセルティネ」
「ドリグネ! けど……!」
「分かっておる。けどな、ガレスもそれを承知の上で冒険者をやっておるのじゃ」
「んっ……!」
セルティネは歯噛みして、自身の怒りを堰き止めた。
ガレスの事情は知っている。
最愛の人を亡くしたことは本当に悲しいことだ、と自分も同情している。
けれど、それと娘を放っておくのは議論が違う。
「………」
何も言えない。セルティネはそんなガレスを結局のところ受け入れて一緒に行動しているのだ。
もしかしたら彼のこの現状は自分にも責任があるのかもしれない。
しかし、悪態の一言でも吐かなくては自分の感情もおさまらない。
「あんたは冒険者としては一流だけど……父親としては失格ね」
「……ふっ、そうだな。もちろん理解している」
セルティネの悪態にガレスは自嘲気味に苦笑した。
彼も理解しているのだ。
理解した上で、ここにいる。
「まったく……」
セルティネは肩を落として、首を振った。
まさしく王国から処置なしと匙を投げられた訳だ。
この男は馬鹿みたいに覚悟を決めている。それが間違っている覚悟だとしても……。
「もう、良いかのう」
「ええ、大丈夫。待たせてごめんなさい」
「よい、よい。蟠りがあっては戦闘に集中も出来まい」
「はい、僕も大事な話だと思いました」
「ありがとう」
「ん……」
ガレスは相変わらず無言で頷く。そんな彼に皆は笑った。
いつものこと――もう慣れた。
そして、それは慣れるほど一緒に冒険を共にした証左でもある。
「さあ、行きましょう!」
『おお!』
皆の囁き声が重なる。
そうして足を踏み入る第六階層――そこは沼地が広がる湿地帯だった。
広さはそこまでではない。いや、今までの階層と比較すればとても狭いと言っていい。
何故なら、この階層の出口と思える大きな穴が奥に視認できる距離にあった。
幅は百メートル、奥行きが三百メートルという手狭さである。大貴族の広間と言われても通じる広さだ。
その広さが人間の居住する場所としてならば十分広く感じるが……このダンジョン内という前提を考えれば、手狭と判断してしまう。
いや、この手狭さは何も空間の物理的距離だけではない。
ガレスたちの目の前の光景はまさしく――恐怖だった。
第六階層には所狭しと魔物が壁や地面を這っていた。
「あれは……?」
テンルの疑問に誰も口を開かない。
誰もがその悍ましい光景に呆気に取られていた。
しかし、ガレスだけは別だったようだ。
「沼地竜」
沼地竜――地竜の下位種族であり、竜というよりも蜥蜴の方が身体構造は近い。しかし、その名に竜が冠せられるほどには強力であり、まずもって並の冒険者ならば殺される。
そんな竜の成りそこないがゾロゾロと這い歩いている。
表皮の色は様々で白いのもいれば赤いのもいる。黒と白の斑模様のもいた。
そして一番奥に鎮座している沼地竜がここの親玉だろうか。
漆黒の表皮に赤い瞳。身体も他の個体より幾分大きい。
「も、戻りましょう!」
まず最初に声を出したのは先程も疑問を口にしていたテンルだった。
身体を震わせて、もちろん声も震えていた。
この中の最年長がこのざまである。
しかし、セルティネも同様の意見だった。
この第六階層は――不味い。
どうやってもこのパーティでは攻略できない。
セルティネはすぐさま、そう結論付けた。
しかし――やはりガレスは一人、前へ進んだ。
「ガレス!」
彼はセルティネの声に振り向いて、いつもの無表情で告げる。
「お前たちは戻っていい。俺は前へ進ませてもらう」
「な、何言ってるのよ! 死ぬ気? それは絶対に許さないって言ったわよね!」
「いいや、生きる。生きて帰る。俺はこの世全ての魔物を殺すまで生き続ける」
「くっ……」
セルティネは押し黙った。
ガレスの顔は本気だった。
この顔をする時はどんな窮地でも彼の言った通りに、ガレスは生き残り、そして魔物を殺した。
それを知っているセルティネには反論する言葉が出てこなかった。
「そうじゃの。そもそも今回の依頼は第五階層以降の調査じゃ。その結果が第六階層手前で帰ってきました、じゃ格好がつかん」
「ドリグネも何言って……!」
「セルティネよ、最後に決めるのはお前さんじゃ。その判断に儂は異論はない。けどな、その前に儂らの意見ぐらいは聞くのが筋じゃろ?」
「……そういうことね」
「おうとも。それでテンルはどうする? 本当に戻るのか?」
「僕は……」
テンルは握り拳を強めて、歯軋りを起こす。
彼だってガレスやドリグネのように決意を持って先に進む、と言いたい。
しかし、テンルにはそこまでの自信がなかった。
彼はいつだって弱気だ。それを直したいが為に冒険者になったはずが結局、変わらぬ自分に肩を落としている。
六十年以上も生きて彼はまだ、彼から見れば雛鳥のような皆のようには強くなれていなかった。
また、ここでも逃げるのだろうか、と苦しみに顔を引き攣らせて考える。
自問自答は続く。ずっと続いている。
このダンジョンに入る前から、冒険者になる前から、幼い頃から、ずっと、ずっと、ずっと続いている。
自分は強くなれるか? 自分は弱さから脱却できるか?
――自分も彼らのように強く在れるだろうか……?
深く息を吸い込み、そしてテンルは結論に至る。
「行きましょう! 僕は……強くなりたい!」
「テンル……!」
セルティネは目を瞬いた。
あのテンルが決意を固めた。それが信じられなかった。
けれど事実である。
彼は強くなりたい、という願いの為に――死を覚悟した。
「セルティネ……どうする?」
ドリグネが首を傾けてセルティネに判断を促した。
そうだ、全ての最終決定権はセルティネに一任されている。
彼女がこのパーティのリーダーであり、まとめ役。
彼女の判断に最後の最後は皆、従う。
けれど、それは同時に皆の死を一身に背負っているとも言える。
彼女はこのパーティにいる間、ずっと十字架を背負っているようなものだ。
その十字架はとても、とても重く、そして脆い。
彼女は渋面を深くする。
こんなことすぐには判断できない。しかし、すぐに判断しなければいけない。それが冒険者パーティのリーダーの務めなのだから。
「……い、行きましょう……」
セルティネは必死に思考を回し、その結論を苦しそうに声に出した。
彼女は賭けた。
――ドリグネの決意を
――テンルの覚悟を
そして、
――ガレスの妄執を
「すまんな、辛い役を任せてもうて」
「いいのよ。結局、誰かが決めないといけないことよ。苦しむのは神官である私で十分」
「まさしく聖職者じゃな」
「それ、褒めてるの?」
「さてな?」
そうして意見が合致した。
目の前の敵を殺す――
まったくガレスに文句は言えまい。
結局、同じ結論に至るとは……。
「さあ、沼地竜を……倒しましょう!」
『おお!!!!』
セルティネの声に三人の男の叫びが共鳴する。
その声に沼地竜も対抗して、鳴き声を共鳴し始めた。
『グロロロロロロロロォォォォォォォォォォ!!!!!!!!』
そして散らばって這っていた沼地竜たちが二列に隊列して、真ん中を道のように空けた。
開けた中央の奥には、やはり、あの漆黒の沼地竜が鎮座している。
「そうか、ボス直々に相手をするってことか」
ガレスが口の端を上げて、ニヤリ、と不敵に笑った。
ガレスの言葉に他のメンバーも頷いて、開けた中央を歩いた。
そうして漆黒の沼地竜の目の前にやって来た。
「さあ、殺してやるよ……」
剣を抜き取り、構えるガレス。
沼地竜はそれに呼応するように尻尾を高く掲げ、戦闘態勢。
ガレスと沼地竜に続いて、他三人も身構えた。
そして――戦端が開かれる。