009話 大猿王
第五階層に到着した。
レムスの言う通り、第五階層の様相は第四階層ほど煌びやかに派手ではなく、暗くじめじめとした地肌が隆起している、至って普通の洞窟だった。
しかし、そこに棲息する魔物は今までと比べられない程の強敵ばかり。
サンバレロロ――二足歩行の蜥蜴の魔物。そう聞くと蜥蜴人族を思い浮かべるが似て非なるものである。そもそも魔物と亜人の相違があり、サンバレロロは蜥蜴をそのまま二足歩行させた身体構造をしている。決して人間の要素が入っている訳ではない。主な攻撃方法は毒性の唾液を飛ばす『毒唾』という攻撃。一応、人間の見識では魔法と言う分類をされているが、実際は身体機能から生まれた攻撃方法である。背丈は成人男性ほどの身長を有しており、魔法詠唱者や神官などが相手ならば接近戦で十分、有利の立場を取れる。
ジャランガバナ――花に擬態する蛇の魔物。頭の奥に蛇腹の襟巻が生えており、これを使って花に擬態する。主に第三階層に棲息していたスネークリィの変異個体であり、扱う魔法には『毒霧』を初め、『催眠粉』、『毒の一線』など。身長――尾から頭までの長さを測れば四、五メートルが平均である。
タルトミスス――亀の魔物。しかし、のろまな亀とは全く違い、凄まじい速度で突進してくる。また、二十メートルほどの巨体を有しており、その巨体から繰り出される突進は第五階層を瞬間、揺らすほどの威力らしい。甲羅は魔鉱石で構成されているので硬質である。魔醒石でない分、魔泥人形程の硬さは誇らないが、やはり、そこらの冒険者が所持する剣ではまずもって攻撃は通らない。
ペントテッテ――黒い山羊の魔物。見た目はただの山羊である。しかし、扱える魔法が数多く、また『予見勘』と言うスキルによって絶妙なタイミングの回避行動を行う。使用する魔法は『体力低下』、『魔力低下』、『山羊の鳴き声』、『飢餓暗示』、『酩酊付加』、『黒線放射』など大部分がデバフの魔法で占められている。
以上のような魔物たちと戦い、何とか勝ち取ることが出来た。
サンバレロロ、ジャランガバナに関しては二匹で余裕を持ちながら難なく勝利。
タルトミススは甲羅の硬質さもあってやや苦戦するものの、第四階層のマジックゴーレムと比べれば、そこまでの難敵という訳ではなかった。
そして挙げた魔物の中で一番、厄介だったのがペントテッテだった。
まず最初にデバフの魔法を繰り返し発動してきて、二匹の動きは鈍くなった。
そうして放たれる黒魔法の一つ『黒線放射』によってダメージを加えられる。且つ、一定時間の速度低下状態が付与される。
豊富な魔法に、スキル『予見勘』による隙の無い動きに翻弄されるサリユとレムスだったが、二匹で対したことが功を奏した。
これが一対一だった場合は目も当てられなかっただろう。
レムスがデバフの魔法を受けている間に、動けるサリユが『光線放射』で攻撃した。
『光線放射』はマジックゴーレムとの戦い以降に使えるようになったようだ。
そして、『黒線放射』を使っていたことからも想像できるようにペントテッテは闇属性の魔物である。
光系統の魔法『光線放射』が有効打になった。
「ふぅー、強かったな」
「ああ、この第五階層じゃ、二番目に強い魔物だ。体格的には普通なんだが、ペントテッテはそれなりに知能があって、魔法も豊富に使うから厄介なんだよな」
「……ん? 二番目に……強い? 不穏な言葉を聞いた気がしたぞ……。まさか、この山羊が一番強い魔物じゃないのか?」
「何言ってんだ、兄弟。こいつなんかよりも全然、強い奴がいるぞ」
「比べられないくらい強かったりする?」
「ああ、あの強さは比較にならないな……。ペントテッテはともかく流石にあいつとは率先して戦おうとは思わない。……よし、ということで食料も確保したし、あいつが気付く前に早く隠し通路に逃げないとな!」
「お、おう! なんだか話を聞いただけで怖くなった。早く隠れよう」
ペントテッテを『収納』で仕舞い込み、そそくさと隠し通路に戻ろうとした――が、先程の会話がフラグにでもなったのか、二匹が移動しようとした瞬間を見計らったように――そいつがやって来た。
「ヤバい、マジか……」
「あいつが、この階層で一番強い魔物……!」
奥の暗闇からドスン、ドスン、と重苦しい足音で現れてきたのは太い腕に、太い脚、全体的に筋肉質な身体は無駄な脂肪が一切ない。
天井に頭すれすれの巨体はそれだけで威圧感をピリピリと感じさせる。
黒い顔が二匹を視界にとらえ、眉間に皺を寄せ、怒りの形相で爆音の咆哮が魔物の口から放たれる。
同時に、胸を叩きドラミングもし始めた。
それは一言でゴリラだった。
しかし、もちろんサリユの知っているゴリラの姿ではない。
牙は長く、目玉も三つある。
身体は元の世界のゴリラよりも巨体で強靭である。
魔物の名を大猿王と言う。
「ウオォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!」
ドンドンッドンドンッドンドンドンドンドン、とドラミングと雄叫びが第五階層に響き渡る。
歯軋りを起こして姿勢を低くする。
突進してくる――次の行動は容易に想像できた――はずなのに、身体が震えて動けない。
意識が身体に働かない。
身体が言うことを聞かない。
これは、恐怖から生じた本能すら怯える圧倒的威圧感とでも言うのか。
「逃げるぞ、サリュ!」
「あっ、ああ、逃げる……逃げたいんだけど……身体が動かない」
「何⁉ まさか……!」
レムスはそこで思い至る。
大猿王のドラミングと咆哮はただそれだけで魔法のような効果を発揮する。
サリユは大猿王の威圧感に気圧され、そのドラミングと咆哮の効果を受けてしまった。
現在、サリユは恐慌状態に陥っている。
しかし、すんでのところで彼の強靭な精神性が打ち勝ち、まともにその効果は表れていないようだ。
並の魔物や人間であれば、自ら頭を打ち付け、恐慌を超えて狂乱状態になってしまうところを、サリユは恐怖するにとどまった。
だが、幸い狂乱しなかったにしろ、現状、恐怖して身体が動かないのはどちらにしても、まずい。
レムスは「我慢しろよ」とサリユに囁いて、次の瞬間――サリユの首のあたりを噛んだ。
突然の事態にサリユは苦悶の表情に苦痛の叫びを追加した。
「な、なんだよ突然!」
「ほら、動けるか? なら早く逃げるぞ!」
そこでハッとして自分の身体を確認する。
思った通りに足が動いた。
レムスは恐慌状態を解除させるために手荒な手段だが噛みついたのである。
レムスのお陰で自由に身体を動かせるようになったサリユはすぐさまレムスに続いて大猿王から逃避する。
全速力――脱兎の如き逃走だった。
走って、走って、走って……。
しかして、後ろから聞こえてくる大猿王の重苦しい足音は遠ざかる気配なく、むしろ近づいている気さえする。
「どこに逃げるんだ?」
「隠し通路……はこいつに見つかったらやばいな。このまま他の魔物と鉢合わせる」
「くっ……分かった!」
前足を――後ろ足を――地面を蹴り、空を駆ける。
軽い跳躍、風を切り、そんな風すら置き去りにしてその先へ、その先へ――
前へ進んだ。
右でも左でも後ろでもなく、前へ――前へ――前へ進んだ。
しかしどんなに走って逃げてもその足音は遠ざからない。
いつまでも、いつまでも音が迫ってくる。
録音機でもぶら下げられて、サリユたちはそれに気づかないただの間抜けなのではないか、とそう思えるぐらいに足音は変わらず同じペースで、サリユたちの走りなど鼻で笑っているようだ。
「おい、どうなってる! 俺たちは逃げてるんだよな? 一向に距離が変わらないって言うか縮まってるんじゃないか? それに目的の魔物は……?」
「分かってる! 分かってる……けど、やっぱり簡単には逃がしてくれないか……。それに他の魔物たちも大猿王に気付いて隠れてやがる……くそっ!」
レムスは焦ったように声を上げた。
サリユでも分かる。
今、この状況は、まさに危機的状況だということを。
レムスは全速力で地面を蹴っていた足を急に停止させ、立ち止まった。
「仕方ない。一か八か応戦する。いや、勝てない相手じゃない。今のサリユなら……ああ」
「おう……!」
レムスの心配は自分ではない。
単独なら攻撃を加えつつ逃走することは可能だ。
しかしサリユを連れたままでの逃走はここが限界だろう。
それに今のサリユの実力ならば、二匹で大猿王を倒すことも出来るのではないか……。
レムスは賭けたのだ。
いや、死なないための、生き残るための可能性に賭けるしかなかった。
「早い段階で遠距離攻撃を確実に当てる。サリユは光魔法を。俺は『火の一線』で攻撃する」
「分かった」
口を開けて眩い光を集める。『光線放射』――マジックゴーレムから貰ったと表現してよいだろうか――破壊力はもちろん、射出速度は自らの経験から折り紙付きである。
集中した光のエネルギーが一本の線を描いて放たれた。
大猿王は『火の一線』と『光線放射』を正面から食らう。
右胸にレムスの『火の一線』が。
下腹部の中央に『光線放射』が。
ダメージは確実に与えられた。相当なダメージだ。
マジックゴーレムならこの二撃で瞬殺される。
しかし――大猿王は眉をピクリと反応させたのみで、さほど痛みを感じていないようだった。
精々、蚊に刺されたようなもの。
その程度なのだ、この大猿王にしてみれば。
「嘘だよな?」
「マジだよ、マジ。続けて撃て!」
休みなく『火の一線』、『光線放射』を放ち続ける――しかし、目に見える効果は見えないように思えた。
一向に大猿王にダメージが与えられていない。
いや、痩せ我慢か?
本当は着実に傷を負わせているのだろうか……。
分からない。サリユには判断出来なかった。
魔法を放つのみ――それだけに思考を委ね、目の前の大猿王を攻撃する。
「ウオォォォォォォォォォォォォォ!!!!!!」
またも凄まじい咆哮が響き渡った。
大猿王は吠え――、叫び終えると、両手を重ね、腕を掲げて、同時に重力とともに勢いよく地面に腕を振り下ろす。
――『大地よ笑え』
振り下ろした両腕を発端にして一直線に地面が隆起し、土の棘が二匹の元へ迫りくる。
「退避行動! 横に分かれるぞ!」
いつぞやの――いや、つい先日のことだが――マジックゴーレムの時のように横に分かれて攻撃を躱す。
間一髪のところで大猿王の攻撃を回避した。
(と言うかなんだよ! あの、めちゃくちゃな魔法は! そんなのアリか?)
大猿王は今まで戦ってきた魔物とは一線を画する。
魔法の種類、威力、使い方、それら全てが戦いに適応した状態であり、それだけではなく、体力、攻撃力、防御力、などといった身体能力も桁違いである。
分かりやすく表現すれば、ペントテッテの魔法的立ち回りに、強靭な身体も組み合わせたような、まさに化け物的な存在。
戦いにおけるすべてのステータスを研ぎ澄ませた大猿王に隙は無く、戦う場合は逆に搦め手では返り討ちに遭うだろう。
大猿王と戦うには、まさしく渾身の力と力をぶつけなければいけない。
しかして、サリユとレムスで真正面からぶつかれば、それこそ瞬殺だ。
ここは勝算が低くても搦め手でどうにか翻弄するしかない。
レムスは『狼の遠吠え』を、サリユは先程覚えた『山羊の鳴き声』、そして続けて『魔力低下』、『体力低下』、最後のおまけに『酩酊付加』をお見舞いする。
続けざまに魔法を繰り出したサリユは途端に魔力を切らした。
すかさず『収納』から魔醒石を取り出して魔力を回復する。
大猿王は幾つものデバフ魔法を受けてしまい、様々な状態異常に陥ったが、それすら些事とでも言うように、強固な精神力によって身体の異常を無視し、レムスの元へ突進した。
「この……化け物かよ⁉」
レムスは『火の一線』で迎え撃つ。
サリユは大猿王のがら空きの背中に向かって『光線放射』を放つ。
対角線上、両方からの攻撃。それでも大猿王は一心不乱に突進する足を止めない。その様子を見て、レムスは『火の一線』を止め、代わりに再度『狼の遠吠え』を発動する。
大猿王の動きが瞬間、鈍重になり、それを見計らってレムスはその場を離脱してサリユと合流した。
「一緒に『火の一線』を繰り出すぞ!」
「分かった!」
サリユとレムスは同時に『火の一線』を放射した。
二つの炎の放射線が絡み合って、一つの線に生まれ変わる。
大猿王はその攻撃に反応して、振り向きながら同時に腕を掲げて、振り下ろした。
二回目の『大地よ笑え』である。
二匹の『火の一線』と大猿王の『大地よ笑え』が激突する――
先頭の地面の隆起と『火の一線』の先がぶつかり合い、数秒――魔法の力と力が拮抗する。
しかして、この勝負は二匹の『火の一線』に勝利の女神が微笑んだ。
地面の隆起を貫通して『火の一線』が大猿王の胸に直撃した。
大猿王は苦痛に悶えた咆哮を上げる。
この咆哮は今までのものとは違う。
威圧でも力の誇示でもなく――大猿王は初めて痛みを面に滲ませた。
「このまま距離を詰めるぞ! 至近距離で攻撃を食らわす!」
「えっ! 本気か⁉」
レムスはここが勝負の分け目と判断した。
接近すればその分カウンターの危険が増す。しかし、ここで決めなければ、もう有利な状況は作れない、そうレムスは考えた。
サリユは恐怖を顔に表しながらも、震えながら頷いた。
「分かった!」
「よし、行くぞ!」
レムスの号令を合図に二匹は『火の一線』を放ちながら、じわじわと距離を詰めた。
大猿王は苦悶の咆哮を上げるのみ。
どうにか両手でガードするも、次は両手が高熱で焼かれ――その繰り返しだった。
「今か……? よし、サリュ! 走れ! 全速力!」
「ああ!」
形勢は逆転。この瞬間を逃せば、もう勝利は無い。
レムスはここだ、と決意し、じわじわと詰めていた大猿王との距離を全速力で急接近させる。
そうしてほぼゼロ距離で『火の一線』を食らわした――しかし――
大猿王はその瞬間を待ち望んでいた。
――『大猿の傲慢』
先の苦悶の表情は嘘だったように大猿王は口元を歪めて、邪悪な笑みを浮かばせた。
巨腕を振りかぶって、サリユとレムスにそれぞれ拳を振り下ろす。
「ウッ、ゲホォッ」
レムスは壁に激突。
対して――サリユはすんでのところで横に移動して躱した。
「グゥン?」
大猿王はサリユの回避を確認して首を傾げた。
今の攻撃は確実に当たる筈だった。
最後まで大猿王はその確信を疑わずに拳を放ったはずが――サリユはそれを回避したのだ。
そして、それはサリユにも同様に不思議だった。
拳が当たる直前に急に身体が加速して、攻撃を躱したのである。
突然の身体能力向上、そんな魔法を無意識に発動させた……?
いや、そんな魔法は覚えていないはずだ。
では、どうして躱せたのか。
その理由にサリユは思い至る。
(マジックゴーレムのスキル『加速』か!)
加えて、サリユは未だ気付いていないが、同時にマジックゴーレムのスキル『軟体』も発動していた。
つまり、このスキルの二段構えによって、瞬間的な『加速』で生じた速度にも『軟体』によって身体が対応できたのである。
しかして、今のサリユにはそこまで考え至れない。
そもそも自分がどのスキルを、どの魔法を、どのくらい所持しているのかすら把握していない。
当て推量に頼っているだけである。
それに今は悠長に思案を巡らせる暇もない。
(と言うか、スキルってのは無意識にも発動するのか……? どういうことだ?)
分からない。分からないが……今はその疑問に囚われている場合ではない。
攻撃を食らったレムスに視線を移動させる。
倒れたレムスの身体は微かに上下していた。
どうやら、息はしているようだ。
しかし、あの状態では戦線に復帰するのは叶わないだろう。
それでは、レムスに駆け寄って『中位回復』で回復させるか?
いや、それこそ無謀だろう。
目の前の大猿王がそんなことを許すはずがない。
案の定、サリユのその予想は当たり、大猿王は傾げた首を戻してすぐさまサリユに拳を振り下ろした。
一回、二回、三回……。
両拳がサリユ一匹に炸裂する。
しかしその全てをサリユはすんでのところで躱した。
「グオォォォォォォォォォォォォ!!!!!!!!!」
攻撃が一切当たらないことに煮えくり返った頭が沸騰した。
大猿王は怒り狂った雄叫びを上げて、拳を振り下ろす速度を上げる。
しかしその攻撃も――当たらない。
(な、なんだ? 身体が勝手に動いているような……? それとも俺の第六感が働いて、身体が自然に動いているのか……? いやいや、まさか……。でも――)
サリユの身体は『軟体』と『加速』をうまく利用して大猿王の攻撃を回避していた。
そして――躱すのにも慣れた頃合いに、サリユは攻撃魔法での応戦も開始する。
まず最初に有効打にもなった『火の一線』を放つ。
大猿王の胸が赤く染まり、ゆっくりと黒く焦げてきた。
しかし、大猿王は状況を変えるために『大地よ笑え』で、サリユとの距離を離す。
「グルルルルゥゥゥゥ」
歯軋りを強めてサリユを睨んでいる。
怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り、怒り……。
自身の拳が当たらない。自身の魔法が躱される。
怒りだけが沸々と煮えていくだけ。
遊ばれている……?
この自分を――、誰もが恐れ戦く、この自分を――?
許されない、許されない、許されないぞ!
怒りは激情し、しかしすぐに鎮静される。
大猿王は先程の渋面から目を細めて、静かにサリユを見つめた。
雰囲気が変わった――
サリユでもその劇的な変化に気付く。
(ヤバい……本気かよ……)
大猿王は肩の力を落とし、筋肉を楽にさせていく。
余計な力が抜け、今まで真正面にしか向かなかった視線だったが、大きく視界を広げて周りの地形に視線を向けた。
余裕のある雰囲気を醸し出している。
手強くなっている――
先程までの頭に血が上った大猿王ならまだ勝機が見えていただろう。
しかし――現在の大猿王に隙は一切なかった。
(おいおいおい、そんなのアリかよ。お前みたいなやつは力にもの言わせて、周りが見えない脳筋なのがお決まりだろうが……!)
この冷静さが大猿王が第五階層最強と言われる所以。
そして、現段階では人間の手では叶わない相手。
そう、何故、人間が第五階層までしか到達していないのか――いや、踏破という表現ならば人間は第四階層までしか攻略していない。
人間はこの大猿王という存在によって先の階層を阻まれているのである。
そんな相手に今、サリユは一匹で立ち向かおうとしていた。
(……って、どう見ても勝ち目無いだろ……。けれど逃げる事も出来ない。さあ、どうする?)
荒い呼吸が続く。
距離を離して、睨み合う魔物、二匹。
先に動いたのは大猿王だった。
静かに、深く息を吐いた。
そして、息を吐き切ると大猿王は両足と両腕で一直線にサリユの元へ走った。
(突進? さっきと同じ……?)
一瞬だけ迷いが脳をかすめるが、すぐさま先ほど同様に横に避けようとした。
しかし――大猿王はサリユが横に跳んだ瞬間を見て、突進を急停止、その反動が大猿王の身体に来る前に、身体を捻って、回転した。それによって反動が回転の動きに変化して力が加わり、スムーズな行動転換に成功する。
そして回転と同時に腕を伸ばして、そのまま両腕を振り回した。
躱したと思ったサリユは安堵も束の間、大猿王の振り回した腕が眼前に迫り来る。
(躱せるか……?)
サリユはどうにか跳躍して、大猿王の腕の上に乗った。大猿王は振り落とそうと腕を動かすが、サリユは必死になってしがみ付き、対抗する。
その抵抗に大猿王は振り下ろすのは無理だ、とすぐに判断し、次の瞬間には、サリユがしがみ付いている腕を岩壁に叩きつけようと振りかぶった。
それを予感したサリユは、『狼の遠吠え』で一瞬だけ大猿王の動きを鈍らせ、その隙を狙い離脱する。
地面に着地して、すぐにサリユは『黒線放射』を発動。
それをまともに食らった大猿王は追加効果で一定時間の速度低下状態を受ける。
そうして僅かに行動が遅くなった大猿王の足の股を通り抜けて、後ろから『光線放射』を放つ。
大猿王は苦しそうに両手で背中を庇い、遂には痛みに耐えかね、片膝を地面に崩した。
今だ! と勝機が見えたサリユは『光線放射』を放ちながら距離を詰める。
(いける! いけるぞ!)
距離を縮めて、至近距離で『光線放射』を食らわせる。そうすれば今の大猿王には致命傷になるだろう。
今が叩き時。誰もがそう思うタイミング。
しかし――その時、サリユはもう少し考えるべきだった。
そう、『冷静になった大猿王』という前提を考慮すべきだったのだ。
サリユと大猿王の距離が縮まった瞬間――大猿王を中心に石礫が空中で突如現れた。
石礫は次々に現れてくる同じく石礫と一緒に練り固まって、大きな石の塊へと変貌していく。その数は十、二十、三十……数えるのが面倒になるぐらいに生み出されていく。
(しまった!)
サリユは嵌められたのである。
大猿王はこの瞬間――好機を待っていた。
――『石連噴射』
石の塊が全方位に噴出する。
そして、まんまと近づいてしまったサリユは避ける可能性を潰された、という訳である。
(ここで終わりかよ……! 甘かったのか……。俺の考えが……甘かった)
冷静さという点で大猿王に軍配が上がった。
これは魔力や体力、身体能力、攻撃力云々以前に頭の出来で負けた。
知能が優れていたのは確実にサリユだった。
しかし、こと殺し合いにおいては大猿王の方が頭が良かった。
「アアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!!!!」
絶叫――というよりも悔しさによる雄叫びだった。
決して勝ち目のない戦いではなかった。
ただ、もう少しサリユに冷静さがあれば負けてはいなかった。
もし、レムスがいればサリユもここまで焦燥することも、興奮することも無かった。
戦闘時特有の興奮状態、サリユはこれに陥っていた。
レムスがいれば、もう少し視界を広げられたのではないか。
一匹の戦いだったからこそ――サリユは緊張し、その緊張を隠す為に戦いの熱に興奮した。
負け――そして死――
終わりである。
サリユの二回目の生はここで終わりを告げると予感した――
しかし、その時――レムスが目の前に現れた。
突然の光景に目を瞬く。
「レムス!」
「悪い、気を失ってた。けど、タイミングは最高のようだぜ、サリュ!」
レムスの尾が長くなり、そして硬くなる。
――『剣』
身体の一部を剣のように硬くし、鋭くさせる。
剣のような質感になった尾でレムスは迫りくる石の塊を流麗に切断していく。
その姿はイヌ――狼なのに熟練の剣士のような剣捌きだった。
「よし、行くぞ! サリュは俺の後ろで魔法で援護! 俺が接近して大猿王とやり合う!」
「ああ、分かった!」
なんとも頼もしい声だった。
先程の一匹で戦っていた時とは違い、安心感も相まってやる気や闘志が湧き上がる。
大猿王の『石連噴射』を切断し終えたレムスはその尾の状態を維持したまま、大猿王に切り掛かった。
サリユは距離を離して『黒線放射』で援護する。
大猿王の動きが『黒線放射』によってさらに鈍くなり、そこにレムスが『剣』で大猿王の腕を切断。
綺麗な断面から赤黒い血が噴出する。
大猿王はその事実を認識するとすぐさま冷静さを欠いて苦痛そのままに咆哮した。
レムスはその咆哮にも構わず『剣』で大猿王の全身を至る所、切りつけていく。
そうして傷だらけになった大猿王。
遂に怒りの沸点が怒髪天を突き、憤怒の赴くままに『石連噴射』を発動しようとして――
「今だ、サリュ!」
「よし、来た!」
サリユの『黒線放射』が放たれる。これで遂に止めを……。
しかし、それだけでは大猿王は止まらなかった。
大猿王は尚も『石連噴射』の動きを続ける。
サリユは「どうにかしてくれ」と願いを込める。
(倒れてくれ、倒れてくれ、倒れてくれ!)
願いを、希望を、誰かに嘆願する思いで魔法を放つ。
そして――
サリユの口から『黒線放射』の黒色のエネルギーだけでなく、眩い光、そして炎のエネルギーも集中していく。
目を見開くサリユ。
自分でも分からない事態。
しかし、このエネルギーを大猿王にぶつけられれば……!
サリユは意識を集中させて、エネルギーを魔法という奇跡に転換させる。
「いけ!」
その声とともに三色のエネルギーが絡まり一つの線となって大猿王の胸に直撃した。
――『火の一線』
――『光線放射』
――『黒線放射』
三つの魔法が合わさった。
見たことも無い三色の放射線を食らった大猿王は驚愕と共に呆気に取られていた。
自分が負けるとは――、殺されるとは――、死ぬとは――考えもしなかった。
もう、何十年も第五階層に存在し、魔物からも人間からも恐れられた自分が、たかだか犬ころ二匹に……。
油断は途中で切り捨てた。
能力は自分の方が勝っていた。
では、自分の敗因は、なんだ?
まだだ。
まだ自分は強くなれる。
全てを薙ぎ払い、全てを殴り潰せる。
この力は、何十年の月日が経とうとも、誰にも破られなかった――暴力だ。
力が全てだ。
力が最強だ。
そしてその力をここぞ、というときに有効に発揮させる為、戦闘時は上手く頭も使っていた。
だから、負けなどありえない!
生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい、生きたい………。
自分はまだまだ生きて、強くなりたい……!
しかし――自分は死ぬのか……?
大猿王はそんな死の意識をし始めた、次の瞬間に……。
――絶命した。
「………」
「………」
ドサリ、と大猿王が倒れた。
胸に人間の拳程度の穴を空けて、大猿王は息絶えた。
穴からは大量の血がドバドバと流れ出てくる。
心臓を丁度貫かれたのだろう。
いや、サリユは敢えて狙ったのだ。
でなければ、大猿王は胸に穴を空けてでも戦っていただろう。
「よくやったな、サリュ!」
「お、おう、そうだな……」
サリユは最後の攻撃に疑問を抱いていた。
自分でも理解できない三つの魔法の混合攻撃。
「レムス、最後の、俺の魔法は何だったんだろう? 自分でもよく分からないんだ」
「いや……俺にも分からない。ごめんな」
「いや、知らないなら仕方ないさ」
そう、仕方ない。
現段階では先程の謎の攻撃は誰にも説明できない。
「まあ、けど、今は大猿王を倒せたことに喜ぼうぜ、サリュ!」
レムスは笑顔を浮かべる。
そして、喜びを表すように顔を上に向けて、吠えた。
だが、吠えた口元からは赤い血が垂れていた。
「レムス! 大丈夫か!」
「ああ、大丈夫、大丈夫」
レムスは何でもないように舌で血を拭うが、やはり壁に激突したときのダメージが残っているのだ。
サリユはレムスに近づき『中位回復』を施す。
「早く隠し通路に行こう」
「ああ、そうだな……大猿王はサリユが『収納』でしまってくれるか?」
「分かった。だから、一回、隠し通路で身体を休めよう」
サリユは大猿王の死体に口を向けて『収納』を発動させる。大猿王がサリユの口に吸い込まれていった。
そうして、全てを片付けた二匹は隠し通路に移動する――
第五階層、最強の王者――大猿王との戦闘は実際、短い時間でありながらも、その体感はとてもとても長く感じる戦いだった。
しかして、そんな大猿王との死闘も――サリユとレムス、二匹の魔狼の勝利で幕を下ろした。
名前:サリユ・ギー・フェンリル
種族:魔狼族
魔法:『狼の遠吠え』『毒霧』
『火の一線』『中位回復』
『光線放射』『黒線放射』
『山羊の鳴き声』『魔力低下』
『体力低下』『酩酊付加』
スキル:『思念伝達』
『軟体』
『加速』
『観測者?』
名前:レムス・ギー・フェンリル
種族:魔狼族
魔法:『狼の遠吠え』
『火の一線』
『中位回復』
『剣』
?
スキル:『思念伝達』
『収納』
?
種族:大猿王
魔法:『大地よ笑え』
『大猿の傲慢』
『石連噴射』
スキル:『王の資質』
『脳熱鎮火』
『岩石操者』
余談ですが、ゴリラは漢字で大猩々と書くそうです。大猿ではありません。