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異世界イヌ  作者: 双葉うみ
序章
1/57

プロローグ

(俺は――イヌだ。名前は――、何だったか?)


 そういえば、もう長い間、名前を呼ばれていない。

 いや、もしかしたら呼ばれていたのかもしれない。

 けれど耳が遠く、言っている内容が分からない。

 耳だけでなく目も悪く、視界はぼんやりしている。

 しかし、それも日常化して久しい。

 慣れてしまえばそういうものだと楽観して、生きるという行為を続けるだけ。


 今、ここに一匹――このイヌは死を迎えようとしていた。

 目の前にはイヌの飼い主である夫妻、――この二人だけ。

 そこにはもう一人の飼い主の姿は無かった。


 アキラ――


 イヌの飼い主であり、最初で最後の親友。

 アキラが生まれたばかりの頃、イヌもまた赤ん坊の時に家にやって来た。

 アキラとイヌは同い年で、一緒に成長した。


 しかし彼は病弱だった。

 生まれながらに心臓が弱いらしく、外出はほとんどしない。


 家の中で一日が過ぎる。

 その間、アキラとイヌは一人と一匹――二人で遊んだ。

 アキラの両親は共働きで日中は二人きり。

 アキラの遊び相手はもっぱらイヌだった。

 しかし遊びと言っても身体を動かす訳ではない。それならば家の中にいる意味が無い。

 アキラとイヌの遊びは一緒にアニメ鑑賞や漫画や小説など――

 それ以外にはアキラがイヌに対して話しかけたりする。


 話す内容は嘘か真か、科学や歴史の知識、果ては都市伝説に怪談、オカルトの類まで。たまに自分の妄想を話したりもした。


 その妄想の大半は自分が異世界に転生する物語――。


 彼は知っていた。

 自分がそこまで長く生きられないことを――。

 だからこそ彼は死んだ後の世界に夢を抱いた。

 死んだ後の世界にしか彼には希望がなかったのだ。

 そんな彼の話を聞くうちにイヌもそれらの知識を覚えた。というか何回も同じ話をされたので覚えない方が無理というものだ。

 毎日毎日、イヌはため息まじりにその話を聞く。

 同じ話に嫌気が差していない、と言えば嘘だが、しかしイヌは彼の話を聞くのが楽しかった。というよりも、彼自身――アキラが好きだったのだ。

 

 ――彼と一緒にいるだけでイヌはどんなことでも楽しかったのだ。


 けれどそんな幸せな毎日はずっとは続かなかった。

 イヌはある年を境に年々と老いていった。

 同時期、アキラも体調を崩すことが多くなり、比例して身体も痩せていった。

 頬はこけ、肉の代わりに骨の出っ張りが目立っていった。

 アキラの話もなくなった。

 いや、そもそもアキラは一言も言葉を発しなくなった。

 ずっと窓の外を眺めて、ぼーっとしている。

 顔に力はなく能面のように無表情を貼りつけている。


 最初は泣いていた。

 泣きじゃくり、自分の現状に、そして運命に絶望していた。

 現実的に死が迫り、彼はそれに恐怖した。

 そんな日が一、二週間ほど続いて、そして――彼は感情が抜け落ちていくように表情を消失させていった。


 医者が来た。

 昔は一ヶ月に一度だったのが徐々に来訪の間隔は狭まり、遂には毎日来るようになった。

 来るたびに医者はアキラの両親に入院することを勧めていた。両親もそれは重々承知していた。しかし当の本人、アキラがそれを拒んだ。

 助からないことは誰よりもアキラが理解していた。

 入院して、治療の日々を過ごして、少しでも長生きして……。

 その日々は想像を絶する苦しいものだろう。

 吐き気を催し、頭痛を伴い、そんな醜い最期なんて……。


 生きることは正しい。どんな物事よりも生きるという行為だけは絶対的に正しい。

 しかしその正義はアキラにとっては皮肉でしかなかった。

 生きる素晴らしさも、生きる喜びも、それすら知らずに、その最期が苦しんで死ぬのか?

 そんな延命は逆に呪いでさえある。

 だからアキラは入院を拒否した。

 そして長いようで短い年月が過ぎていき、日に日にアキラは痩せていき、生気を失っていった。



「――。起きているか?」


 久しぶりのアキラからの声だった。

 耳も遠くなり、老いぼれたイヌでもその久方ぶりの親友の声は聞き逃すはずがなかった。


「ワォォン、ワン……」


 嬉しさに感極まって吠えたつもりが口から出た声は何ともしわがれたものだった。

 そんなイヌの返答にアキラはこれまた久方ぶりに微笑みを浮かべた。


「僕の親友。僕の兄弟。僕の相棒……。お前とは色んな思い出があるな。小さい頃は旅行にも行った。外に出られなくなっても、家の中でだってお前と居ればどこでも楽しかった。まあ、僕が一方的に話しかけてたんだけどさ。けど、お前は分かっているのか、いないのか、丁度良いタイミングで相槌を打つんだよ。ワンワンって楽しそうに……。僕はそれがすごく嬉しかった。独りじゃないって思えたんだ」


(うん、分かっている! 分かっている!)


 彼と同じ言葉で伝えたかった。

 この思いを。

 この感情を。

 それでも、それは叶わない。

 彼は人で――、彼は犬だから――

 アキラの声がだんだんと震えていく。

 彼は泣いていた。静かに涙を落としていた。


「ありがとな。本当にありがとう。――。この名前は僕が付けたんだ。本当はお父さんとお母さんが違う名前を付けてたけど、お願いして変えてもらったんだよ。僕はお前と一緒に生まれて、一緒に成長して、そして一緒に……。ありがとう、ありがとう、ありがとう……。お前の存在が救いだった。お前がいたから僕はこれまで生きようと思えたんだ。だから――ありがとう……」


 次の日、アキラが寝ていたベッドはもぬけの殻だった。

 綺麗なシーツの上にフワフワの掛け布団が誰の体温も感じずに、そこに――置かれていた。


 そのベッドは次の日も、次の日も誰にも使われることなく……、ほどなくしてベッドは家から消えた。

 そこでようやくイヌは唯一の親友がこの世界から旅立ったことを知った。

 何も言えず、何も伝えることも出来ず、イヌは枯れた瞳から涙も流せず、親友の最後を看取ったのだ。

 後悔ばかりだ。

 ああすれば良かった。こうすれば良かった。

 そんな「もしも」ばかりが頭をかすめ、しかしてすぐに霧散していく。

 老いた頭が何も考えさせてくれない。

 老いた喉が声すら発することを拒否する。

 老いた身体が動くことすら言うことを聞いてくれない。


 そして今、彼が死んで一年後――

 イヌもまたその生涯を終えようとしていた。

 十五年――、その生涯はアキラとの思い出ばかりだった。

 青年になることさえ出来なかった、少年との思い出だけ。

 それでもイヌにとっては、かけがえのない大切な思い出。


(こちらこそ、ありがとうだよ、アキラ。君がいなかったら俺はこんな幸せじゃなかった……。ありがとう……アキラ)


「ありがとね、――」

「ああ、本当にありがとう……。淋しくなるな」


 息はもう出来ていない。

 耳も立たずに、だらんと頭にへばりついている。

 身体はどこへでも飛べそうなほどに軽い。


(そうか、俺は死――)


 夫妻はイヌの死を確認して涙ぐんだ。

 そして彼に感謝の言葉を投げかけていた。

 そんな声もイヌにはどこか遠くに感じられた。


 夫妻の前でイヌは安らかに眠った。

 この世界との別れを告げる、その眠りについたのだ。

 もう夫妻に会うことはない。

 この家に帰ることもない。

 慣れ親しんだリビングのソファも、日当たりのよい窓辺も、ひんやりと涼しい玄関も、アキラの部屋――イヌにとっての一番のお気に入りの場所も……。


 イヌは死んだ。

 享年十五、イヌは犬の寿命を余すところなく生きた。


「――。ありがとう」

「――。ありがとう」


 そしてイヌの――彼の名前は……。


 ――アキラ


 この世界での特別で大切な名前。

 その名前とも別れを告げて、アキラ――イヌは死んだ。

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