劇場・8
「リリア?」
再度呼びかけられて、慌ててジルの顔を見る。
「え、ええ。大丈夫、大丈夫です」
微かに震えがくる。
ジルに気付かれてしまわないかしら。
必死に震える拳を握り締めた。
冷や汗が知らず流れた。
急にジルが得体の知れない物に見えてしまう。
仄暗い闇と対峙している時の様に身震いしてしまった。
底知れない物を覗き込んでいる様な。
そんな感覚がリリアを襲った。
だってタイムスリップなんて。
リリアの常識では有り得ないのだから。
「本当に大丈夫か?」
「本当に、大丈夫ですから」
「人は非常識な事態と遭遇すると案外恐怖するものかもしれないな。仕方ない」
ジルは、そっと目を伏せた。
「……すみません」
「いや、いいんだ。君が信じてくれた事の方が価値がある」
そろそろ行こうか、ジルが声を掛けてきた為、席を立ち、店を出た。
食後は微妙な距離感のまま、街を散策した。
こんな気持ちのままでは申し訳ないと思う反面、色々な考えが頭を巡り、なかなか集中出来なかった。
ジルもリリアの気持ちを汲み取ってくれたのか、その態度に言及する事は無かった。
そして、夕刻。
劇場に入り、中央ボックス席に案内される。
席に着いて暫くすると、暗くなり、幕が上がった。
物語りは、無実の罪を着せられた男が地下牢で嘆く所から始まる。
男は、国に忠誠を誓う騎士だった。
真面目な男は融通が利かない所はあったが、幾多に渡る戦争で戦果を上げていった。
そして男は、国一番の美しい娘を妻にする。
戦争の褒賞として与えられた娘だった。
初めはぎくしゃくとしていた男と娘ではあったが、男の実直な性格を娘も気に入り、仲睦まじい夫婦になった。
そしてある日、男が妻を伴って王城の夜会に参加した時の事。
宰相は、男の妻が更に美しさを増した姿に惜しい事をしたと思ってしまう。
言葉巧みに妻を呼び寄せ手篭めにしてしまう。
男に知られたくなければ、言う事を聞けと脅し、関係を続ける様に強要した。
そして、月日が経ち、妻が身籠る。
産まれた子供は、赤髪黒目の男とは似ても似つかぬ、灰色の髪に蒼色の目だった。
宰相と同じ色の子供。
男は、妻を問い詰め、総てを吐かせると宰相の元へと詰め掛けた。
そうして男は偶然宰相と共にいた王へ謀反を働いた罪を着せられ、牢へ入れられてしまう。
ラストに男がいる牢に妻が現れる。
贖罪を述べて泣き崩れる妻を慰め、受け入れる。
———貴女に罪はございません。勿論、私にも。
———明日、私は貴女の為に断頭台へ登りましょう。
男は暗い牢獄に差す一筋の日の光と、妻に向かって高らかに宣言する。
妻は謝りながらも、地下牢を後にする。
地下牢の外には宰相が立っていた。
薄ら笑いを浮かべながら妻は宰相に抱き寄せられる。
物語りは、そこで終いだ。
とても暗い話である。
男にとっては救い様の無い話だ。
一体いつから妻が裏切りに手を染めたのかも分からない。
しかし、反面。
事実を知らない男は幸せでは無かったかと思わせる様なエンディングでもある。
と、同時に終始道化の様な男も又、罪深いとリリアは思うのだ。
無知は罪なのだ。
昨日までの自分であったなら、はっきりとそう言えた。
しかし、今となっては哀れで無知な男とリリア自身が重なって仕様がない。
リリアは思わずハンカチで涙を拭った。
会場が明るくなってからも暫く動けない程にリリアは泣き崩れていた。
ジルは黙って前を向いたまま、側にいてくれた。
この物語りを書いた作者は、ピエール・ルタロンという。
大変人気の作家だ。
底抜けに明るい物語りから、英雄譚、瑞々しい程の恋物語まであらゆるジャンルを書いている。
しかし、今回の様な人間の闇を垣間見る様な話はリリアの知る限り、この話しかない。
今、ピエールの書いた作品で上演している物は他にもあった筈だ。
何故、よりによってジルはこの話を選んだのだろうか。
リリアには何か意図があった様にしか思えなかった。
まるで、物語りの男の様に、リリアの罪とジル自身の罪を糾弾している様な。
そんな気がしたのだ。
「行こうか」
ジルは不自然な程、落ち着いた声だった。
幽鬼に誘われる様に、リリアは立ち上がった。
ジルは何かを隠している。
大切な何かを。
今はまだ告げるべき時では無いからか。
或いはリリア自身に気付いて欲しいが為か。
リリアは、考えなければならない。
物語りの男の様なエンディングを迎えない為にも。
♢
「お嬢様、今日もお花が届きましたよ!」
ジルは変わらず花を贈ってくれている。
様々な花が送られては来るが、比較的にダリアが多い様だった。
美しく咲く花を飾られた花瓶を見ながら、リリアは癒されていた。
先日の劇場での事が気掛かりで、ふとした拍子に考え込んでしまう。
そんな時は意識的に花を見る様にしている。
ジルに翻弄されている。
毎日ジルの事を考えている。
今までこんな事は無かったのに。
リリアは、視線を窓の外へ走らせた。