番外編【婚約者が婚約解消したいというので】
「リリア、君は真剣に考えているのか?!」
リリアがジルの包帯を外していると、ジルの怒声が響いた。
まだ傷は生々しく、見ているとリリアは胸が痛んだ。
「はいはい、真剣に考えましたよ」
リリアがおざなりに返答すると、ジルが特大の溜め息を吐いた。
手早く消毒し、薬を塗布して新しい包帯に替える。
ジルがリリアを庇って怪我を負ってから数え切れない程した作業だ。もう慣れたものである。
「君の将来がかかっているんだぞ?私のような不誠実な男より、君をずっと愛しているユゼフファルスコット殿下と婚姻を結ぶ方が良い!殿下は多少世間知らずな所はあるが、真面目で純粋な良い方だ。保証する。君のような素晴らしい女性は殿下のような方が似合いだ。聞いているのか?リリア!」
「はいはい、聞いていますよ。……はい!包帯替え終わりです」
ポンと傷口の辺りを軽く叩くと、漸くジルは静かになった。悶絶しているからだ。
リリアにしても、この問答はジルが目覚めてからずっと続いていて正直限界の気分だった。
何せ目覚めてすぐのジルが発した言葉がそれだった。
———リリア、婚約は解消しよう。
目覚めたジルを喜ぶ間も無いまま、リリアは呆れた。
とうにリリアの気持ちは決まっているというのに。
タイムスリップして精神面は大人になったが、相変わらず人の機微には疎い男性なのだ、ジルは。
ジルがその件を話す度にのらりくらりと避けてきたが、いい加減にして欲しいとリリアは思っていた。
「ジル様、私と殿下の中ではとっくに結論は出ているんですよ。貴方が寝ていた間に」
「やっと分かってくれたのか?」
「分かってないのは貴方だけです」
「私は総て分かっている。君は私と婚姻を結んでも不幸になるだけだ」
ジルの頑なさにリリアは悲しくなる。
ジルの意識が戻ってからいつもそうだ。
素直に喜ぶ時間も与えてもらえない。
リリアは落ち込む気持ちを抱えながらジルの看病を続けていた。
「ジル様、また伺いますね」
寝台から窓の外に視線を留めたままのジルに声を掛ける。
ジルの部屋から出ると閉まった扉に寄り掛かった。
振り向きもしなかった。
声すらも掛けて貰えなかった。
リリアは何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
頑固な所はタイムスリップでも矯正出来ないらしかった。
♢
「リリア。ジル様の具合はどうだ?」
父のヨゼフが晩餐の席でリリアに聞いてきた。
「相変わらずです。怪我は日に日に良くなってはいます」
リリアがうんざりした口調で言うと母のエリザベートが苦笑する。
「ジル様もお若いですからね。傷の治りも早いのでしょう。それよりも問題は心の方なんでしょう?」
リリアは曖昧に頷いた。
もう正直これは婚約状態を継続する事は難しいかもしれないと思い始めていたからだ。
リリアがどんなに宥め賺した所でジルの意思は変わりそうも無いように思えたからだ。
「お父様、お母様。もしジル様との婚約が駄目になってしまったら……」
リリアが前菜の皿に視線を落としてぽつりと弱音を漏らす。
ジルが助かった事は嬉しい。
生まれて初めてベルク神に本気で感謝したくらいの出来事だった。
本当に感謝している。
感謝はしているが。
これはあんまりだろう。
折角お互いの気持ちが同じ方向を向いたと思ったのはリリアだけだったのか。
あのジルがロペスに討たれた日にジルに投げかけられた言葉は今でもリリアの心に引っかかっている。
「リリア、気にしなくていいのよ」
「リリア。心のままに。心のままに本心をジル様と向き合ってみなさい」
父母は慈愛の目でリリアを見詰めた。
リリアは思いを馳せるように瞳を閉じた。
♢
ジルが静養しているいつかの夜会の帰りに立ち寄った公爵の別邸にリリアは居た。
今日もジルの傷口に薬を塗って包帯を変えた。
「はい。ジル様、終わりましたよ」
背を向けるジルに声を掛けると緩慢な仕草でシャツを着込み出した。
無言で拒絶を現される事が一番リリアに堪えた。
「ジル様」
声を掛けるとシャツのボタンを留める手が止まる。
「我が儘を聞いて戴いてもいいですか?」
リリアが思い切って切り出すとジルはその日初めてリリアに振り返った。
「……なんだ」
気怠げに聞き返されるが、ジルの瞳の奥には優しさが灯っている気がする。
それはリリアの希望的観測だったが、大きくは外れてはいない筈だった。
「怪我が良くなったらまた一緒に出掛けてくれませんか?」
「……大分先になってしまうぞ?」
「ええ。構いません。それから、また一緒にお酒を呑みたいです」
「ああ。あの時の」
「ええ。そしてヴェンクリフト・アベルで私に似合うアクセサリーを選んでください」
リリアはジルとの思い出を反芻しながら目に力を入れた。
ジルはリリアの言葉に戸惑っている。




