レバノ川に架かる橋・19
「ヴェンクリフトは相変わらずだな。着想を得ると誰がいようが、御構い無しだ。これじゃあ、ジェラールの苦労が減らない訳だ」
ジルは苦笑する。
ジェラールとは、ヴェンクリフト・アベルの経営を担当している者の事だ。
リリアも一度バルドー家の屋敷で会った事がある。
「噂をすれば、ですね」
ヴェンクリフトが去った工房の方からジェラールが慌てて出て来た。
「ジル様、リリア様、ヴェンクリフトが申し訳ありません」
ジェラールは開口一番、折り目正しく礼をした。
「良い。気にするな。アレには慣れている」
リリアもジルの言葉に頷いた。
「すいません。……ジル様、別件なのですが、少しお時間よろしいでしょうか?」
ジェラールはちらっとリリアに視線を配りながら心苦しそうに聞いてきた。
「リリアが居ては出来ない話か?」
「いえ、その……。実は」
ジェラールはジルにだけ聞こえる様に耳打ちした。
話を聞いてジルは溜め息を吐く。
「またセリーヌか」
「どうかされたんですか?」
リリアは思わず聞いてしまう。
「どうやらヴェンクリフト・アベルにセリーヌが迷惑を掛けている様だ。君も知っての通り、きっぱりセリーヌには決別を言い渡した筈だ。それに以前にもセリーヌに何か与えたりした事は全く無いのだが、ヴェンクリフト・アベルで私のツケで購入をしようとしたらしい。ジェラールが機転を利かして保留にしてあるらしいんだが……。これは一度シニヨン子爵と話さなければならないな」
ジルは眉間を揉みながら、不愉快な話をすまない、と言った。
リリアは緩く首を振る。
「彼女の気持ちも分かります。急に切り出されて頭が付いていかないんでしょう。子爵に話す前に一度二人で話し合われたら如何です?」
ジルは驚いた顔をしてから、複雑そうな顔をした。
「矢張り結果は変わらないか……」
「えっ?」
「いや、独り言だ。ジェラール、世話になった。リリア、そろそろ行こう」
聞き返したが、ジルに有耶無耶にされてしまった。
ヴェンクリフト・アベルを出ると、外は夕焼けだった。
ヴェンクリフト・アベルからすぐに馬車には乗らず、街の中心部を流れているレバノ川に架かる橋まで二人で歩いた。
レバノ川は街を抜けるとやがて海に繋がる。
その道のりは目眩がする程遠く、リリアは行った事は無い。
だが、一度は見てみたいとも思うのだ。広大な海を。
その海の遥か彼方にある聖教国。
初代ロマン王は、何故この遠く離れた地に根を下ろそうと考えたのだろうか。
父であるベルク神や、親しんだ地を離れ、旅立つ決意はきっと容易では無かっただろう。
丁度橋の中央に付いた。
欄干に手をつき、夕日を受けて綺羅綺羅と輝くレバノ川を見る。
川に小舟が何艘か浮かんでいる。
何れも二人ずつ人が乗っている。
男女ペアだ。
カップルだろうか。
仲睦まじい姿に、そっと笑みが零れる。
「綺麗だな……」
ジルが呟く。
ジルにしては頼りない響きを含んだ声音だった。
「ええ、綺麗ですね」
リリアはレバノ川だけを見つめる。
「私は、多分一生この景色を忘れない。仮令、何度戻ったとしても……」
重い実感を含んだ声だった。
「君は、初代ロマン王が何故この地を選んだか知っているか?」
奇しくもリリアの馳せていた内容を聞かれて戸惑う。
そして実感した。
例え交わした言葉は少なくとも、重ねてきた時間はリリアとジルの思考を近づけるのだろう。
「いいえ。ジル様は知ってるんですか?」
「いいや、知らない」
余りに素っ気なく返ってきた返事にリリアは笑ってしまう。
「やっと笑ってくれたな。君の笑顔は少しでも沢山見たい」
「いくらでも。……来年は、夫婦になるんですから」
リリアは少し目を伏せた。
「……私には分かる気がするよ。ロマン王の気持ちが。この川が運んでくるほんの微かな潮の香りが、故郷を思い出させてくれたからだろう。確かに繋がっていると感じられたのだろう。人はいつかは巣立つ日が来る。果てしない旅の末に辿り着いたこの地が、故郷に似ていたのかも知れないな」
そう思うのだ、とジルは締めくくった。
ジルが片手を欄干に手を掛けたまま、リリアの方を見た。
夕日に照らされた瞳は郷愁が漂っている。
リリアを見てはいるが、まるで遠く彼方を見つめている様だ。
「ロマン王は、聖教国に帰る選択は何故しなかったのでしょうか?」
「そうだなあ、案外簡単な理由かも知れないな」
「簡単な理由?」
「放って置けない子が居たんじゃないか?」
「それって……」
「愛は、総ての人を例外無く愚かにする。ロマン王はベルク神と人間の娘の子だそうだ。半神のロマン王では抗えなかったのかもしれないな。人間の性に。そんな人間味溢れる方だからこそ、人々に未だに慕われる偉大な王なのだろう」
ジルは目を細めた。




