バルドー家にて・1
♢
Q、突然婚約者が可笑しくなったら、あなたはどうしますか?
1、正気に戻るよう医者に連れて行く。
2、見込みが無いので婚約破棄をする。
3、………
辺りに甲高い破裂音がこだまする。
リリア・バルドーが婚約者のジル・ガレルの頭部を手近の花瓶で殴った音だ。
呆気なく砕け散った花瓶。
昏倒したジル。
リリアは肩で息をしている。
「私は迷わず3を選ぶわ」
3、元に戻る事を祈って手近にある花瓶で殴る。
まずは落ち着こう。
リリアは呼吸を整えながら椅子に座った。
呆気にとられてガタガタと震えているメイドのナタリーに茶を淹れる様に指示を出す。
ナタリーは震えてへたり込んでしまった。
「何よ、殺人鬼でも見るような顔して」
「だ、だって、お嬢様。ガレル様を、か、か、か、花瓶で」
「大丈夫よ。綺麗に決まったから、直に目覚めるわ。それより、もし目覚めても可笑しな事を言った場合の為に整理しなければならないの」
リリアがナタリーを宥めると、彼女は産まれたての鹿の様にガクガクと震えながら、茶の支度を始めた。
リリアは一息ついてあらましを思い出す。
今日は、リリアはジルと会う予定では無かった。
特にやる事もないので、最近お気に入りの物語を眺めて過ごそうと自室にこもっていた。
婚約者のジル・ガレルという人は、大層冷淡な人間だ。
歳はリリアの三つ上の十八歳である。
婚約は、リリアが産まれた時から決まっている。
平民の様に恋愛感情がある関係では無い。
偶々バルドー侯爵家と、ガレル公爵家の利害が一致した為に結ばれたものだ。
貴族間の婚姻などそんなものだろう。
リリアは納得していた。
幼い頃から刷り込まれていた面もあるが、正直リリア自身に恋だの愛だのという一過性の感情が理解出来なかった事も大きいと思う。
両家の利害の元に組まれた為、良好な関係を築く一環として、リリアとジルは二月に一度のペースで会っていた。
冷淡なジルと、関心の無いリリア。
婚約者同士とは思えないくらいあっさりとした逢瀬が続いていた。
ジルが時間通りにリリアの屋敷を訪れ、応接間で茶を飲む。
使用人を退出させずに、ほぼ無言の二人。
お互いに興味が無いのである。
そして時間きっちりに帰るジル。
これがリリアが産まれてから15年間繰り返し続いている。
両家の者が、リリアが十歳を過ぎた辺りに、政略結婚にしても余りに殺伐とした二人の関係を憂い、白紙に戻すか聞いてきた事があった。
しかし、両者が揃って拒否したのだ。
相手の事は何とも思わないが、義務は果たしたいと。
そこまで気持ちが決まっているならとダラダラと婚約期間は延長された。
そうして来年のリリアが十六歳になった年に籍を入れる。
準備も着々と進んできた。
そんな最中で突然ジルが押し掛けて来たのだ。
困惑顔でリリアの部屋に伝えに来たナタリーに、応接間に通す様に伝えると、ナタリーが後ろに視線を流した。
完全に開かれた扉の影からジルが現れた。
これにはリリアも驚いた。
しかし、ジルの尋常では無い焦った様子から、只事じゃない何かがあると察して自室に招き入れた。
ナタリーが扉を開けたままティーセットの手配に行くのを見計らって、ジルに椅子を勧めた。
ジルは棒立ちのまま、リリアを見つめている。
悲壮感漂うジルの視線。
初めて見る表情だった。
いつも人形のような無表情しか見た事が無かった為、リリアは戸惑った。
「本日は、ようこそいらっしゃいました」
ジルは戸惑ったように無言で立っている。
まるで込み上げる何かを堪える様に唇を噛み締め震えている。
あら?ちょっと普通じゃないわね。
「ジル様?」
声は掛けるが、触らない。
ジルはリリアに触れられることを酷く嫌がるからだ。
次の瞬間、無言のジルが突然リリアを抱き締めた。
嗚咽しながら泣いている。
どうしたのかしら?
リリアは戸惑いを隠せない。
錯乱してしまったのかと呆然とする。
抱き締める力がきつ過ぎてかなり苦しい。
「ああ、主よっ。なんと残酷で優しいご慈悲を与えたもうたのか!」
とうとう神にまで祈り出した。
これはいけないと無理矢理椅子に座らそうとしたが、上手く行かないので長椅子に移動し、横並びに座った。
ジルは最後まで手を握って離さなかった。
仕方なくされたままにジルが落ち着いた頃を見計らって再び声を掛けてみた。
「ジル様、本当にどうされたんですか?」
ジルは、言いにくそうに、やがて話し出した。
「実は、昨日まで一週間程高熱で寝込んでいたらしいのだ」
「まあ、お加減はもうよろしいのでしょうか」
「リリア、君は優しいな……」
なんなのだ、この人は。
熱で頭がやられたか、とリリアは思った。
リリアが混迷を極めていると、静かにナタリーが入室してきた。
二人の距離感と繋がれた手にギョッとしている。
「そして夢を見ていたんだ。いや、あれは夢では無い。実際の体験だ。しかし、夢としないと話が繋がらない。だから、えーと……」
こんな不安定な喋り方をする人だったかしら?
リリアの知っているジルという人は、然りか否か、はっきりと短く返答する人だ。
こんなに言葉を重ねるような人では無かった筈だ。
「それで?」
「えー、あー、それで。難しいな。これからの十年間を見てきた。体験してきた、と言えばいいのか?実際に起こった事で、私は、えーと、本当は十年後の私で……」
「つまり?」
「どうやらタイムスリップしてしまったようなのだ」
リリアはサイドテーブルに置かれた花瓶を掴み、思いっきりジルの頭に叩きつけた。