ヴェンクリフト・アベル・18
リリアは屋敷に帰って床についてからもユングが頭から離れなかった。
名前しか知らない青年。
正気の沙汰では無い。
きっとリリアの気持ちを知った誰もが口を揃えて言うだろう。
リリアだってそう思う。
それくらい考えなくても分かる事なのだ。
だが、ユングのあの澄んだ黒い瞳を見るだけで平静ではいられない。
あの悩ましげな顰められた眉。
細く高い鼻筋。
薄く艶めかしい、唇。
手は少しかさついていた。
綺麗な顔立ちをしていても、節くれた指では隠せない。
あの、リリアの唇に、指に触れた熱を。
素直過ぎる性格のユングは隠せないのだ。
そして、リリアも。
ユングと出会ってまだ間も無い。
惹かれる心は、ただ恋に浮かれているだけでは無いか?
恋に恋しているだけでは?
リリアは何度も自問する。
だが答えは出ない。
初恋だからだ。
それは余りに幼く、拙い気持ちなのだ。
リリアは寝返りを打つ。
ジルに申し訳が立たない。
その気持ちはある。
と、同時に。
これは一生秘めて行かなければいけない感情なのだと分かっている。
リリアにはジルと結婚する先しか用意されていないのだ。
初めての恋に戸惑う時間も、もう残されては居ない。
何故、その初めて恋に落ちる相手がジルでは無いのか。
強烈に惹かれる相手が出会って間も無いユングなのか。
あの日、国立図書館になど行かなければ。
ユングと出会ってすぐに席を移れば。
二度目の約束をしなければ。
『愛は途方も無く』を勧めなければ。
いくつもの考えが浮かび、リリアは首を振る様に寝返りを再び打つ。
いいえ、どんな形でも必ず彼に惹かれた。
もう二度と図書館のあの場所には行かない。
これ以上、ジルを裏切る訳にはいかないからだ。
結論付けた時、空が白み始めていた。
朝が来たのだ。
ジルと出掛ける約束をしていた。
振り切る様にリリアは起き上がる。
まだ大分早い時間だ。
使用人達が漸く起き出す時間。
リリアは部屋に備え付けられている鏡台へ向かう。
酷い顔だ。
化粧でも隠しきれないくらい顔色が悪い。
ジルはきっと気付いてしまうだろう。
だが、ジルには話せない。
もう以前のリリアに無関心なジルでは無いのだ。
傷付けたくない。
リリアは沈黙を選んだ。
♢
「良いですか?花嫁とは等しく幸せの象徴です。その花嫁を美しく彩る事が出来るのは、このヴェンクリフトの喜びであり、最大の誇りなのです!」
初めて会ったヴェンクリフトは変わり者であった。
兎に角途轍もないこだわりを持っている事は分かったが、リリアはそのこだわりと情熱に付いていけない。
「ヴェンクリフト、今日はよろしく頼む」
ジルはヴェンクリフトの熱量に慣れているのか頼もしい。
「ええ、ええ!お任せ下さい!皇族の流れを組むガレル家の嫡男であり、美貌のジル・ガレル様に相応しい花嫁のリリア様を美しく彩る事が出来るのは、わたくしヴェンクリフトしかおりませんです、はい!」
どうぞ、よろしく、とリリアの手を取りヴェンクリフトは手の甲にキスをした。
ヴェンクリフトはもう四十に差し掛かるだろう歳の男性の筈だが、若々しい。
「よろしくお願い致します」
リリアは楚々と挨拶をした。
「さて!チョーカーという事でしたが、ティアラとイヤリング、ブレスレットもセットでデザインしたデザイン画がいくつか御座います。ドレスをどの様にされるか分かりませんでしたので、様々なパターンをご用意致しました。ご覧下さい」
ヴェンクリフトは、繊細なタッチで描かれたデザイン画をいくつかリリアとジルの前に並べる。
「リリア、ドレスはヴェンクリフトのデザインしたアクセサリーに合わせて作ったらどうだ?」
ジルが提案をしてくれた。
朝から様子がおかしいリリアを変に思っているだろうに、口には出さない。
その溢れる優しさが居心地を悪くした。
「そうですね。そうしたいです」
「大変光栄に御座います!でしたらこちらはどうでしょう?散りばめられた宝石はカットを工夫して光を受けると四方に輝きを放ちます。お顔色を一層引き立てる造りになっておりますよ!」
「ああ、いいな。余り大振りの一点物というよりは贅沢に沢山あしらった物の方がリリアには似合うと思っている。リリア、君はどうだ?」
「ええ、とても素敵なデザインですね。これにはどんなドレスが似合うかしら?」
「矢張りシンプルな造りの物でしょう。プリンセスラインやベルラインの様なスカートにボリュームのある物よりは、エンパイアラインの様な形にして胸元と肩を大胆に露出した物が良いでしょう。そこにこのチョーカーが映えます。勿論、ふんだんにトレーンをとって……ああ!止まらない!わたくしがドレスのデザインもしたいくらいです、はい!」
「どうだ?リリア。ヴェンクリフト初のドレスデザイン。任せてみないか?馴染みの工房で実際に縫製してもらうとして、デザインと調整はヴェンクリフトにお願いするのもいいだろう」
「ええ、ご迷惑でなければ私もお願いしてみたいです」
「なんと!大変光栄です!こうしちゃいられない!!レディ、必ず貴女を世界一幸せな花嫁にして差し上げます!一週間後にレディのお屋敷にデザイン画を持って参上します」
ヴェンクリフトは嵐の様に奥の工房へと消えて行った。




