砂漠・10
♢
どこの砂漠かは分からない。
見渡す限り、一面の砂。
盛り上がったサラサラとした砂粒達が、山を描き、海を描く。
統一された一色の広大なキャンバスに、一つの染み。
塗り潰された様な黒点は、小刻みに揺れながら大きなキャンバスを縦断しようとしている。
目を凝らしてみると、黒点は男だった。
大きな背の高い屈強な男だ。
だが、大地の上では余りにも小さい。
そして、無力だ。
この燦燦と降り注ぐ日の光の中で、男は黒一色の装束に身を包み、赤黒い血の絵の具を白い砂のキャンバスに描いている。
異様な光景だ。
男は何事か呟きながら、足を引きずり歩んでいる。
「聖戦だ……」
それが何を示す事か、知る者は居ない。
男以外は居ない砂丘での出来事だった。
♢
セリーヌとの一件があってから、リリアはジルの事がより身近に感じる様になっていた。
それは、彼が今までの婚約期間と違い、リリアに対する献身的な姿を見た為か。
或いは、人間味のある表情を見た為か。
そのどちらともであるのか、はっきりとは分からなかった。
しかし、確実に以前より好感は持てている。
そして、以前は二月に一度であった面会も、事あるごとに尋ねて来てくれる。
リリアを大切にしてくれている事が良く分かった。
他人に近い様な距離感から、兄を慕う様な気持ちになっている様な。
そんな気がしていた。
「リリア様、今日も来られましたよ」
ナタリーが陽気な声でジルの来訪を告げる。
「また来られたの?」
リリアは呆れた。
ナタリーに、リリアが今居る図書室に通す様に伝えた。
最早、今までの応接室では無く、リリアの居る場所に足を運んでもらう事が日常になっていた。
あれから、ほぼ毎日といっていい程ジルはリリアの元を訪れている。
最初は、セリーヌの事でリリアが心配だという理由を付けていた。
暫くすると理由付けも面倒になったのか、婚約者の元に訪れて何が悪いと言い出した。
公爵の領地関係の仕事や付き合い、国政に関与する仕事もある筈だから、ふらふらとリリアの元に来る暇も無いだろうに。
短い暇を見つけては、昼夜関係無く来る。
リリアが遠回しに断っても来る。
兎に角、来る。
まるで蘇った死者の様にしつこい。
元気に動くリリアを日に一度は見ないと心配なんだろう。
タイムスリップ前にリリアの亡骸を見たというし、心配なんだろう気持ちは分かる。
しかし、これではリリアが気疲れしてしまう。
元々の染み付いた距離感から急転した、この異様な執着に正直着いていけないのだ。
「ジル様、お暇じゃない筈ですよね?」
「ああ、忙しいな」
読んではいないのだろうが、近くにある本をパラパラ捲りながらジルは返答する。
「毎日来られなくていいんですよ?」
「君が心配する事じゃない」
心配では無く、本心なのだが。
これが上手く伝わらない。
「私は、月の殆どを屋敷に居ますし、出掛けるとしても国立図書館か教会くらいです。そう簡単に危ない事もありませんよ?」
「分かっている。だが、君の隣は居心地が良いのだ。前の時間軸では知らなかった事だ。だから君が近くに居ると私は嬉しい」
最近のジルには呆れてばかりだ。
呆れついでに本を閉じる。
読む気が削がれたのだ。
「明日は居ませんからね。週に一度のお祈りに行くんです」
「そうか、一度私もリリアの気に入りの場所を見てみたいと思っていたんだ。明日は丁度休みだ。一緒に行っても?」
「お祈りするだけですよ?」
「君と一緒ならどこでも楽しい」
「楽しみに行く場所じゃないんですけど」
リリアがじと目でジルを見る。
ジルは笑った。
「まだまだ私の知らない顔があるな」
ジルはそれすらも楽しそうだ。
ジルだって———。
リリアの知らない顔が沢山ある。
こうやって普通の婚約者同士は愛情を深めていくのかしら?
ジルは最近調子に乗っている。
リリアが拒否しきれないのを分かってやっているのだろう。
兄の様な気持ちかしら、と思っていた。
だが、これでは手のかかる弟だな。
リリアは苦笑した。
「リリア、明日迎えに来るから支度して待っていて欲しい」
そう言うと、ジルは慌ただしく帰っていった。
矢張り明日休みというのは方便かと思うと可笑しくて堪らなかった。
そんなに見え見えの嘘を吐くなど、存外可愛い人なのだと思ったからだ。
あんなに冷酷な人だと思っていたのに。
彼は他にどんな顔を隠しているのだろうか。
ジルに対する親しみから溢れた笑みは、幸せの余韻が残っていた。
♢
天候は晴れ。
教会に行く用事がなければピクニックでもしたい様な快晴であった。
夏が次第に色濃くなると、強過ぎる日差しに目が眩む。
しかし、今日はまだ春を含んだ陽気である。
一年を通して冬以外は過ごし易い気候の国ではあるが、リリアはこの時期の移り変わりが一番好きだった。




