56広がり
コトリは、今夜は戻らぬと書いた文を菖蒲殿の屋敷へ出した。宮中の閉鎖的な儀式や祀りには参加したことがあるものの、今夜のような庶民的な祭りは初めてである。やはり、参加してみたい。
「今夜はどのような祭りなの?」
「疫神祭ですよ」
夏は、厳しい暑さによる干ばつや飢饉で亡くなる者が多い。疫病が蔓延するのも、いつも夏だ。祭りは、こういった災いが起こらぬよう祈念したり、疫病で苦しみながら死んだ者が悪しき神とならぬよう御霊を鎮める役目があるのだと、ヤエは説明した。
「私にも何かできることはあるかしら?」
「姫様には、シェンシャンを弾いていただけると嬉しゅうございます」
シェンシャンの音は悪しき神や土地を浄化する力がある。シェンシャン奏者は巷にも多いが、コトリ程の腕前の者はそういない。きっと祭りの目玉になるはずだ。
「役に立てそうで良かったわ」
そこからは忙しくなった。王女たるコトリに相応しい巫女衣装を用意せねばならない。演奏するための舞台もだ。
この知らせは、すぐにスバルにも伝えられた。社に詰める全ての神官、彼らに仕える下男、下女が総出で支度を進めていく。奥の屋敷に籠もりきりだった王女が、民に姿を見せてくれるというのだ。しかもシェンシャンまで聴けるともなれば、皆やる気が出るのも自然なこと。急なことにも関わらず、日が暮れる頃には、どうにか形を整えることができた。
王女御出ましの報はたちまち人伝で広がっていったらしい。空が茜色に染まり始めると、例年よりも多くの民が社に押しかけてきた。
広場には櫓と、一際高い舞台がある。衛士もどこからか集められて多く動員され、その周囲を守っている。篝火に照らされ、辺りは赤く明るくなっていた。舞台の上は特別な光の神具で照らし出され、そこばかりは白い神々しさに満ちている。
突如、大太鼓が鳴り始めた。地中深くにまで響き渡っているであろう重低音。民が口々に上げる声も相まって、場の盛り上がりが頂点を極めた時、舞台に少女が現れた。
コトリである。
社の宝物倉から出された国宝級の衣を纏い、きらびやかな簪が髪を彩っている。
遅れて、スバルも姿を現した。彼が龍笛を吹くと、これだけ大勢の人間がいるというのに、水を打ったような静けさになる。拡声の神具をもってコトリが紹介され、長い祝詞が奏上されると、いよいよシェンシャンの演奏が始まった。
突貫工事で設えられた舞台の上からは、大勢の人々が見える。人前へ出ることには慣れているコトリでさえ、そこから投げかけられる無数の視線には緊張をしてしまった。
祭り。やはり、慰問の演奏会などとは格が違う。全ての人々の瞳に映っているのは、巫女として神の声をこの地に轟かせる王女としての姿。今年も多くの人間が死んだり、村が消え去ったりした。生きたい。縋りたい。津波のようにそれらの願いと熱気がコトリに向かって押し寄せて、彼女を飲み込んでいく。
怖い、かもしれない。けれど、そこに立てることが誇りに思える自分もいる。きっとこれは、コトリにしかできないことなのだから。
神気が見える。弦を弾く指の動きは滑らかだ。シェンシャンの音に合わせて、薄く棚引く神気が様々な色に変化しながら舞を舞い、ゆるやかに社の外へと広がっていく。
コトリの目には、社の外側で時折光の柱が夜空へ立ち上がるのが見えた。神気が吸い込まれていった辺りでの出来事だ。何かを清めたり、土地に恵みを与えたりできているのだろう。確かな手応えがある。
シェンシャンの音の制御も思い通りにできていた。ウズメ達との特訓の成果もあるだろうが、一段と神気と一体化した奏でができている。
コトリは自分の中に少しずつ自信が取り戻されていくのを感じた。
シェンシャンが、好きだ。
シェンシャンで、救いたい。
シェンシャンで、叶えたい。
人々の祈りも、自分の願いも。
演奏が終わった直後は、全員が放心していた。スバルの指示で再び太鼓が鳴らされて、そこへ笛も加わり、神輿も現れる。男衆の掛け声が重なって、次第に喧騒が大きくなっていった。
だが、コトリの奏でを忘れた者は一人もいない。
その後、祭りに行った者の間では、しばらくコトリの話題で持ちきりだった。皆、身体に活力が漲るようになったと口々に言う。感激のあまり涙を流した者もいたようだ。
王宮から滅多に出てこない王族が多い中、民と国の安寧を願って社に住まう王女。元々王家に物申したい者は多いが、階級やら金子の有無やらがそれらを阻んできた。それだけに、尊い身分にも関わらず民草に奏でという施しをしたコトリは、まさしく希望の光に見えたのである。
コトリの評判は鰻登りだ。さらに、コトリが社にいるという話の信憑性が高まり、コトリの関係者間では結果的に大成功となったのである。
同時に、コトリが率いているという噂の世直しの組織へ加わる者が急増し、さらに都の中で幅を利かせる一大勢力となるのだが、それをコトリ本人が知るのは、もう少し先の話だ。
◇
時間は少し遡る。その日、地方の社では前代未聞の事件が起きていた。
拝殿の火の色がこの世のものと思えぬ色に変化し、そこにまだ少女にも見える女の姿が映し出されたのだ。さらにはシェンシャンお思しき音色までが流れてくるではないか。みるみるうちに拝殿内の神気は高まり、敷地内だけでなく辺り一体が母親の胎内にあるか如き穏やかさに包み込まれる。
気づけば、死にかけの男の顔に生気が戻り、畑の野菜は大きく実って、枯れかけていたはずの井戸から水が取れるようになっていた。
中でも奇異だったのは、その夜、各地の社の神官の夢枕に揃ってルリ神が現れたことだ。そして王女コトリを守るようにとお告げが下ったのである。
社は一つの村に少なくとも一つ、多ければ十近くもあることがある。神官たちは、すぐにそのお告げが自分だけにもたらされたわけではないことを知った。
中には、確認の為に都にある社へ人を遣る者もいた。
こうしてコトリは、意図せぬままに、そして本人の知らぬ間に、急速に味方を増やしていくこととなる。それは、ソラの社にでも言えることとなった。クレナの王女の名など知らなかったソラの地方でも、コトリを密かに崇め始めることになるのは、もうすぐだ。





