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39正妃の宮

 翌日の昼過ぎ、鳴紡殿には一台の馬車が着いた。正妃の実家である姫空木殿の紋が入った、豪奢なものだ。


 そもそも馬車は都にしか存在しない。地方には牛車しか許されないていないため、二頭立ての四輪馬車は、そこに在るだけで権威の強さを醸し出す乗り物なのである。


 田舎出身の楽師達が馬車を見に集まってくる中、コトリは、さも当然という風に落ち着き払って乗り込んだ。サヨは御者に頼んでコトリの隣に本日の土産を載せてもらう。馬車はすぐに出発した。


 結局、コトリは王女時代に匹敵する装いを選んだ。ほぼ体格の変わらないサヨの衣を菖蒲殿から取り寄せたのである。もし、カナデとして面会するのならば、失礼のないようにサヨから借りたと言えばいい。コトリとして会うにしても、菖蒲殿の財力が見て取れる豪華な衣があれば、王女としての体裁も整うだろう、というわけだ。


 正妃の宮は王宮の敷地内にある。かつてコトリが住んでいた宮からはかなり離れた場所だった。


 コトリは、出迎えた女官達に土産を持たせ、宮の中へと入っていく。女官からコトリと呼ばれたことから、王女として振る舞って良さそうだ。


 コトリは客間に通されて、下座に座して待った。ただ座っているだけなのに、緊張のあまり疲労感が溜まっていく。手のひらの汗が酷くなった頃、ようやくその人は現れた。


「よく来たな」

「お招きありがとうございます」


 正妃は、自室の中で過ごすための夏用の薄い衣を纒っていた。被り布もしていない。普通ならば、この姿で人と会うことはないはずである。もしかすると、正妃は王に隠れて会おうとしていたのかもしれない、とコトリは思った。


 頭を上げたコトリは、忘れぬうちにと侍女に目配せをする。


「ささやかですが、お納めくださいませ」


 侍女は、コトリが持ち込んだ箱を持っていくと、先に中を検めた。侍女の顔が一瞬緩む。それもそのはずだ。これは氷を敷き詰めた箱なのである。涼やかな空気が閉じ込められている。もちろん、中身はそれだけではない。


「これは、蘇にございますね」


 蘇とは、牛乳を煮詰めて作ったものだ。加工方法が特殊な上、産地もかなり限られているため、裕福な高位の貴族や王族でさえ頻繁には口にできない珍しいものである。


「そしてこちらは、蜂蜜にございますか」


 蜂蜜も、蘇と肩を並べる程の贅沢品だ。まだ養蜂に成功している地方の荘は、片手にも満たない数しかなく、未だ生産も軌道に乗っていないのだ。


 これらには、正妃やその侍女達も大層驚いていた。コトリとサヨも、できうる限りの伝手を使って最高の品を集めたのだがら、そうでなくては困ってしまう。


 これからコトリが正妃に要求しようとしている事を考えると、なるべく心象を良くする必要があった。前日の礼も兼ねているのだ。まず、第一段階は上手く行ったと言えるだろう。


「蘇蜜と言いまして、二つを合わせてお召し上がりになりますと、甘味のようにお楽しみいただけるかと」


 コトリがそう説明すると、侍女は浮足立った様子で土産を奥へと運んでいった。あわよくば、正妃が一部を下げ渡してくれるかもしれないと期待しているのだろう。


 その者が去っていくと、しんと部屋の中は静まり返る。正妃は、ゆっくりと手元の扇を仰ぎ始めた。


 先に切り出したのは正妃だった。


「今日は渡したい物があってな」


 何だろうか。コトリには見当もつかない。

 正妃は、部屋に残っていた別の侍女に目をやると、その女は少し重そうな箱をコトリの前に運んできた。見た目はただの木箱で人の頭程の大きさである。


「それは、そなたの母君だ。いつまでも手元に置いて、こちらに呪いが移っても困る。そろそろ引き取ってもらおうと思ってな」


 まさか、だった。コトリがこんなに驚いたのは久方ぶりだ。どうして正妃は今更この時期を選んでコトリに渡そうと考えたのであろうか。


 コトリは無事に母親の遺骨が返ってきた喜びも忘れて、正妃の狙いや意図を汲みとろうと頭を巡らせる。だが、分からない。


「心配せずとも鎮魂の儀は念入りに行っておる。何せ、曰く付きであったからな」


 正妃はあくまで無表情だ。


「この者の両親は田舎の出だそうだが、私の手の者が調べたところ、既に死んでいるようだ。墓に収めるのはそなたがするが良い」


 どうやら、コトリが墓を用意しようとしていることを知っている口ぶりである。決して隠しだてしていたつもりはなかったが、王宮を離れても正妃の目は都中にあることを嫌でも思い知らされてしまう。


 しかし、何はともあれ今日の目的はこれで済んだも同然だ。コトリは、礼儀正しく頭を下げた。


「ありがとうございます」

「礼など良い。くれぐれも二度と王宮に住むことなど考えず、庶民は庶民らしく生活するように」


 遺骨を返してくれたとは言え、やはり正妃はコトリを相当見下している。それは言葉の端々で如実に現れていた。コトリは、いかに自分が王宮で孤立していたのか、改めて実感するのである。


 正妃は気が済んだのか、コトリの反応も見ずに立ち上がった。


「それと、もう一つ。楽師団では、くれぐれも気を抜かぬことだ」


 そう言い終わるや否や、正妃は慌ただしく去っていく。


 コトリは、意味を尋ねたかった。シェンシャンの稽古を怠らぬようにという意味なのか、それとも――――。


 庭から、蝉の声がした。


 コトリは木箱を抱き締めるようにして、持ち上げた。

 涙がこぼれた。



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