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24首席という高み

 その侍女がやってきたのは、夜も遅くになってからだった。


「こちらをお返しいたします」


 コトリは、すぐにそれが自分のシェンシャンであることを悟った。短く感謝を述べながら、その包みを受け取り、代わりに借りていたシェンシャンを手渡す。侍女が会釈だけをして去ると、扉の内鍵を締めた。


「無事に戻ってきて良かったですね」

「えぇ」


 サヨと笑みを交わしながら、コトリは腕の中の包みを抱きしめる。だが、違和感があった。包みが中程で折れ曲がってしまったのだ。サヨも血相を変えた。

 二人は即座に中を検める。


 何重にも巻かれた布を全て取り除くと、ついにそれは現れた。


「何てこと!」


 もはやコトリは、サヨのような金切り声すら出すことができない。


 目の前にあったのは、ものの無惨に破壊されたコトリのシェンシャンであった。


 柄が胴から離れていた。それだけではない。胴には大きな亀裂が入り、これではもう音を響かせることはできないだろう。あちらこちらに身に覚えのない傷が入り、弦も枯れた蔓草のように軸からぶら下がっている。


「私の……」


 とても信じられなかった。つい今日の演奏会までは、完全な形であったのに。


 今のコトリは、自分の持ち物がほとんど無い。田舎から出てきたということになっているため、衣も、最低限の生活に必要な品々もごく僅かであり、どれも粗末なものだ。その中でシェンシャンだけが、真にコトリに寄り添い、励ましてくれるものだった。


 何より、このシェンシャンには不思議な縁を感じていた。そして、まだ短い付き合いであるにも関わらず、ずっと一緒に居たかのような深い思い入れを感じてしまっている。つまるところ、とても大切なのである。


 それが、こんな姿になってしまったなんて。

 驚き、悲しみを超えて、涙をすることもできず。コトリの目からは光が消えていた。


「カナデ様」


 サヨが労るように、コトリの手を握る。コトリはまだ正気に戻らない。


「コトリ様」


 サヨは、手に力を込めた。


「抗議しにいきましょう! さすがにこれは酷すぎます」

「サヨ、でも」

「庶民であろうと、貴族であろうと、楽器をこのように扱うなど言語道断。それもコトリ様のものに手をかけるなど万死に値します!」


 サヨは、コトリの手を引いて立ち上がらせた。


「おそらく、ナギ様ご本人に会ったところで話にならないでしょう。こんな時間ですが緊急事態です。アオイ様のところへ参りましょう!」



 ◇



 アオイの部屋は宿舎の一階にある。二人は壊されたシェンシャンを布に包み直すと、それを持って階段を降りていった。


 すると、一階の奥の部屋の方から複数の大声がする。扉の下からは明かりも漏れていた。時間は、もう普通は寝静まっていても良い頃合いである。何事だろうかと気になった二人は、足を伸ばすことにした。


 その時、近くの扉が勢いよく開いて、中から蝋燭を持った人が飛び出してくる。コトリは仄かに照らされたその人の顔を見た。アオイだった。


 アオイはコトリ達に気づいていないらしい。まっすぐ音がする部屋の方へ向かっていった。


「あなた達、今何刻だと思っているの?」


 彼女の怒りの声が廊下を突き抜ける。アオイはその部屋に入ると、ぴしゃりと扉を締めてしまった。それでもなお、大声は続いている。


「行ってみましょう」


 サヨに言われて、コトリは小さく頷いた。


 件の部屋に近づいていくと、ようやく声がはっきりと聞こえるようになってきた。


「だから、壊してやったんです! 当然の報いだよ」

「ナギ! あんた、自分が何をやったのか全く分かっていないようだね」


 コトリはサヨと顔を見合わせた。ここはナギの部屋ではないが、ナギとよく行動を共にしている楽師の部屋だ。


「とりあえず、酒は止めなよ」


 これは、アオイやナギとは別の声だ。


「やだね。飲まきゃやってられるものか! まともなシェンシャンも持っていないくせに、正妃様に気に入られるだけでなく、正式な団員になるなんて」


 次の瞬間、パチンっと高い音が鳴った。コトリは、頬を叩かれた音だと思った。


「あんた、いろいろ勘違いしてないかい? ここは実力さえあれば生きていける世界さ。反対に、それが無いとすぐに落ち溢れる。それを分かってて、あたしが半端な者にわざわざ合格を言い渡すと思ったのか? 見くびるのもいい加減にしてほしいね!」


 まくしたてるアオイ。これが彼女の素の姿だった。


「それに、シェンシャンを壊すなんて、ありえない。過去にも新人にいろいろとやらかす女は多くいたが、これだけは誰もやらなかったよ。どういう意味か分かるかい?」

「高価なものには、手を出すなってことか?」

「ちがうね。シェンシャンに安い高いは関係ない。楽器は、楽師の半身なんだ。あたし達は、楽器がなけりゃ何もできない只の女。楽器を壊すことは、命をとることと同じなのさ」

「壊れても、また買えばいいじゃない」

「これだからお貴族様は」


 アオイは盛大に溜息をついた。


「ナギは知らなかったのかい? あたしは元々貴族じゃない。元孤児さ。生まれは辺境の貧しい村。口減らしで捨てられたのが街だったのは、せめてもの救いだね」


 そこから始まったのは、アオイの過去だった。


 幼い少女が生きていく方法は限られている。それも孤児ともなれば、金を手に入れるにはだいたい二つしか方法が無い。一つは犯罪に手を染める。もう一つは体で稼ぐことだ。


 アオイの場合は、娼館の下働きになった。まだ幼すぎる上、体があまりに貧相だったことが幸いして、客をとることができなかったためだ。せめて何か芸を磨けと言われたアオイは、そこで初めてシェンシャンと出会う。そして、客や彼女の便宜上姉となる者達に聴かせる音楽を奏でることになった。


「あたしにとってシェンシャンは、文字通り生きるための道具だった。客達の機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払って弾く。でないと、金を貰えないばかりか、折檻を受けるかもしれない。使っていたシェンシャンすら、女将に借金こさえて手に入れた安物だよ」


 コトリとサヨは、息を凝らして話を聞き続けた。


「そのうち、客の一人から楽師団の存在を知らされてね。もっと楽に生きたかったから、試験を受けたってわけさ」


 一度の受験で合格したアオイは、入団後も以前の生活に戻らぬためにも精進を続け、あっという間に首席に上り詰めた。その際、以前の娼館で顔見知りだった貴族から養子の話が持ち上がり、養女になったとのことだった。


「今でもあの頃のシェンシャンは持ってるよ。あれは、今のあたしへの戒めでもあり、誓いでもある。人によってそれぞれだろうけれど、あんた達だって、自分のシェンシャンにはいろんな思いがあるだろう? それを他人が簡単に壊すのは、許されないことだよ」


 もう、ナギの声も、もう一人の声も聞こえない。


 コトリもサヨも、貴族として、楽師団首席としてのアオイしか知らなかった。


「これを聞いても、まだ反省できないようなら楽師団を出て行きな! それと」


 その刹那、コトリは鳥肌がたってブルリと震えた。


「そこの二人! 隠れてないで出てきなさい」


 どうやら、初めから立ち聞きしていたことは見つかっていたらしい。コトリとサヨは気まずさいっぱいに、恐る恐る扉を開く。

 意外にも、アオイの顔は穏やかだった。


「それが、そのシェンシャンかい」


 アオイはコトリから包みを奪うと、中を覗いた。


「あんた、これは相手が悪かったと思ってないかい?」

「え」


 どう考えても、妙な言いがかりをつけて他人の物を奪い、破壊したナギが悪い。コトリはそう信じ切っていた。


「これは、自業自得だよ」


 アオイが真っ直ぐにコトリへ向きなおる。


「あんたにとって、シェンシャンは簡単に人へ貸せるようものなのかい? その程度なのかって聞いてるんだよ」


 答えは否だ。これはコトリだけのコトリのためだけに存在する特別なシェンシャンなのだから。けれど、返事しようにも声が出ない。


「本当に大事なものってのはね、物であれ、信念であれ、絶対に手放しちゃいけない。自ら手を離しさえしなければ、失うことはないんだ。そうやってこそ、初めて大事にするって意味になるんだよ」


 コトリは、アオイの瞳に吸い込まれそうになった。新人としての生活に忙殺されて、忘れかけていた何かを思い起こさせてくれる言葉。


「はい」


 今度は、素直に声が口から溢れた。


「いいシェンシャンじゃないか。早く修理して、またいっぱい練習しな」


 アオイはそう言い残すと、また蝋燭を持って部屋を去っていく。コトリもサヨに袖を引かれるまま、部屋の中の二人に会釈し、すぐにその場を辞した。ナギの顔の傷が気になったが、それを口にできるような雰囲気でもなかったのだ。


 暗い廊下を歩く。

 サヨと二人の足音だけが微かにする。


 アオイは、コトリが考えていた以上の人物だった。コトリとは真逆の境遇で育った努力の人。シェンシャンを手にした理由も全く異なる。単なる趣味ではなく、恋愛のためでもなく、ただひたむきに、生きるためだけに弾き続けてきた彼女。くぐった修羅場の数や人生における経験値が、コトリとは比べようもない程なのは歴然としている。


 コトリが目指すのは楽師団の首席だ。そのためには、いつかこのアオイを蹴落として、その座につかねばならない。


 あまりに、あまりに高い壁のようか気がした。

 シェンシャンの単純な腕では届かない、高みだ。



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