外伝11 出し抜かれたアオイ
アオイは、目の前の少女がゆっくりと髪から赤い簪を引き抜くのを、茫然と眺めていた。それらから、どれくらい経ったろうか。正気を取り戻した時には、自室に、とある男と二人きりだったのである。
そう、あれは新国が立ってしばらくした頃のこと。王宮で開かれた宴で、アオイが楽師としてシェンシャンを披露した際、遠く、貴人が並ぶ席の一画で見た顔が、すぐそこにある。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか? ソラの第二王子様」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚く程冷静で、淡々としていた。しかし、ここは鳴紡殿、朱雀の館。女しか住まうことのできない場所のはずだ。
ふと、クロガが手の上で弄んでいる赤い簪に視線を落とした。確かに見覚えがある。王、ミズキが楽師団に潜入していた際、使っていた神具だ。どうして今の今まで気づかなかったのだろうか、と頭を抱えたくなるが、後の祭りである。
ミズキの時は、そこはかとなく漂う、女以外の何かを嗅ぎ取って、密かに男だと断定していたが、このクロガにはそれが無い。
アオイが全く関わらぬ入団試験が終わり、合格した者として女官によって引き合わされたのだが、言われるままに、この部屋まで連れてきてしまった。
「男の方は、玄武の館の方がよろしいかと存じます。しかもここは、王子にはそぐわぬ粗末さでして」
「そんなに私をここから追い出したいのですか?」
今、一番焦っているのはアオイである。以前、ミズキの際は、彼が一人部屋を使っていたこともあり、彼が性別を偽っていることはアオイに無害だったが、今は違う。部屋で囲うともなれば、彼女の首席代行という役目を鑑みても、許されることとは思えなかった。
そして、もう一つ大切なこと。アオイはもうこんな歳になるというのに、身を守るためと称し、生来の機転と器用さを駆使した結果、未だ男と肌を重ねたことがない。
しかし、この状況ときたら、どうだ。男女が部屋を一つにする理由なんて、この世の中一つしか無い。権力者の慰み者になるなんて、まっぴらだ。騙されて、鉢合わせにされて。もしかしたら、今後もこの秘密を守ることを強要されるかもしれない。そんな難しくて苦しい状況に追い込まれるなんて。
しかも、クロガは若く、兄に似て綺麗な顔をしている。つぶらな瞳で小首をかしげる様子は、あざとすぎる。
アオイは、次第に怒りが募っていくのを感じていた。
「女官を呼びます!」
「それは無意味です」
「なんですって」
「女官は皆、事情を知っていますから」
もう、いっそのこと気絶して倒れてしまいたくなった。だが、気合で踏みとどまるアオイ。対するクロガは、少し肩をすくめてみせた後、小声で事情を話し始めた。
「なぜなら、私は王の命でここにいるからです。本音を言いますと、どうしてこのような形にせねばならぬのかと思いますし、不本意ですね。しかし、今の楽師団は諍いが絶えず、アオイ様も大層お困りだと聞いています」
「あ……そういうことだったのですね」
先だって、アオイの元を訪れたミズキの顔を思い浮かべる。やけにニヤついていたのを、今になって思い出した。あの王は、助っ人が男であることを、わざと口にしなかったのだ。
「ですが、やはり私は」
「続きをおっしゃらないでください。王にも、ちゃんと考えがあるようです。そして、それを忠実に全うし、成果を出すのが、元ソラの王子に課せられた役目です」
こう言われてしまえば、アオイに為す術はない。ただ、遠い目をすることしかできなかった。
「ご心配をされていることは分かります。私は男ですから、館を別にするべきなのでしょう。けれど、それでは王の作戦が台無しになってしまう。そこですみませんが、入口近くにあった侍女用の小部屋をいただけませんでしょうか。そこから奥には、アオイ様の許し無しには、決して入りません」
鳴紡殿が新たな都へ移る際、アオイの侍女はついてこなかった。元々身の回りのことは一人でできる上、首席ではなくなったことから雑事も減ったため、全く問題なかったのだが、こんなことになろうとは。せめて、空き部屋がなければ追い出せたものをと思うと、口惜しいことこの上ない。
だが、このように会話している間に、見えてきたこともあった。
この男、クロガには、男特有のギラついた雰囲気が無いのだ。基本的に無欲。アオイのような美しい女を見ても、目の色を変えるでもない。単に、話をする相手としか見ていない、澄んだ瞳。
と、ここまで考えた瞬間、アオイははっとして自分の口元を手で覆った。
まさか。今、自分が、この王子にならば心を許しても良いと思ってしまったのではなかろうか。いや、そんなこと、ありえない。
そう、内心慌てふためいている最中、向かいのクロガは、女の衣をきっちり着込んだまま、小部屋へ移動しようと立ち上がり始めていた。
「今宵はアオイ様もお疲れのご様子。王からの命の詳細については、明日お話しましょう」
「はい」
「それと、私はクレハという名前で籍を置いています」
「かしこまりました。そのようにお呼びすれば良いのですね」
「でも、部屋ではクロガと呼んでください」
「は?」
「アオイ様だけ、特別です」
その言い方に茶目っ気がありすぎて、アオイもすっかり毒気が抜かれてしまった。
「それともう一つ」
「私はシェンシャンが上手くありません。どうか、弟子として教えてください」
そういえば、ソラの人間はシェンシャンを弾くことのできない者ばかりなのだった、とアオイは振り返る。しかし、そんな言い訳、鳴紡館でまかり通るわけがない。
「では、どうやってここで暮らしていくおつもりなのですか?」
「ですから、僕は、アオイ様に守ってもらおうと思ってます」
「え?」
そこへ、廊下を誰かが走る音が近づいてきた。けたたましく、部屋の扉が叩かれる。こんな無作法、女官でないことは明らかだ。
「どなた?」
アオイは苛々しながら扉越しに声をかけた。
「マツです」
「タケです」
「ウメです」
「アオイ様、新しい楽師がそこにいらっしゃるのでしょう?」
「ぜひ、早い目にご挨拶をと思いまして」
れいの三人組である。どうせ、新人を値踏みして、良からぬ、噂を流す気でいるのだろう。一番厄介なのが来てしまった、とアオイは独りごちた。