近代的な技術発展は
良心の価値がひどく軽視されていると思う幼子よ。
あなたに世界を託したくてこれを書きます。
近代的な技術発展は、人々の心理に構造を与えてしまいました。
民主主義思想と呼べる大衆主義こそが、人々を、自由市場主義の駒にしてしまったのです。
「自分や家族の生活のため」という弁明一つによって、人々は実際には、殺し合いをさせられている。
その意味で殺し合うことに、人々は完全に満足しつつあります。
しかし、市場原理も、選挙制度も、万能の魔法ではありません。
各々が自身の当面の経済的合理性のために振る舞えば、協調戦略は過度に棄却されて全体は最適性を遠ざかります。
しかし、いかなる協調戦略が社会正義であるかどうかを、天下り的に定義することは当然に不可能です。
ゆえに正義とは究極的に、動機の属性だとせざるをえません。
最適性を思うなら、人々は本来、恥を知るべき立場にあります。
しかし実際には、良心の貴賎を軽視する手段として、市場原理と選挙制度の合理性が過大に言われてきました。
その構造によるサイクルが、人類の近代史です。
今や、富裕こそが最高の徳と見なされます。
遠い昔は、金銭欲こそ、最も蔑まれたにもかかわらずです。
そのように、社会のなかで生きていく世界観の心理的な構造まで分析すると、現代人のほとんどには、その意味で、良心はもう備わっていません。
ただ、損をせずに生きていこうとする処世術としての礼節のみがあって、しかしそれは、本来の利他的動機の意味での徳ではないからです。
良心によって人が測られることはもはやなくなり、測るときは常に他の属性で測って、恥じることは行われない。
例えば、美貌で、健康で、所得で、能力で、肩書きで、知名度で、地位で、権力で測られる。
それらを備えない者がいかに善良に振る舞っても、平然と虐げられて社会は満足するでしょう。
いかに蔑まれても、いかに讃えられても。
良心の価値がひどく軽視されていると思う幼子よ。
あなたにとってこの世界は深いむなしさを伴って感じられるはずです。
愚か者の群れが、自ら崖の底に転落していくかのような。
そこにおいて、善な者を足蹴にして少し長く生き残って、価値よりも恥になるのではないかと。




