都子ちゃんのこと 1
梅雨入り直後の空はどんより曇り、湿気が肌にまとわりつく。
なんだか酷く怠くて授業を聞く気すらなくなった私は、窓際の席であるのを良いことに空を見上げて溜め息をついた。
梅雨時は嫌いだ。
雨か曇りの日ばかりで湿度は高いし、気温の変化も激しい。
湿度の高さのせいで体感温度と実際の気温に差が出て、うっかり体調を崩すこともある。
なにより日照時間が少ないこの季節は、澱みが発生しやすい。
塩や除菌消臭スプレーを使っても、雨で効果が半減するのも困る。
(ああ、嫌だ嫌だ。怠いなぁ)
再び憂鬱な気分で溜め息をついたところで、いやいや違うだろうと、私は自分で自分に突っ込みを入れた。
自分でいうのもなんだが、私は鈍くて図太い。
沢山読んできた小説の中には、友達のいない苛められがちな少年少女達がびくびくと物陰に隠れるようにして学校生活を送っている話もあったが、私はこれには当てはまらない。
たとえ友達がひとりもいなくとも、誰とも言葉を交わさないままだったとしても、いつも私は俯かずマイペースに学校生活を過ごしている。
というか、自分から隠れなくとも、気持ち悪がって向こうから避けてくれるんだけどね。
もちろん梅雨時だからといって憂鬱になるほど繊細じゃない。
今日は土曜日、あと十数分我慢すれば四時間目の授業が終わり、居心地の良い家に帰ることができる。
それを思えば浮き浮きしてもいいはずなのに、何故か今日は気持ちがダウンしたままだ。
今日の私はなにか変だ。
いつもとなにか違うことがあったっけ?
首を傾げた私は、ふと気づいた。
(そうだ! 今日はまだ苺ちゃんを見かけてない)
苺ちゃんとは、毎日のように私に向かって突撃してくる光のことだ。
とても綺麗な赤い光で、大きさは2.5センチぐらい、ちょうど食べ頃の苺のような美味しそうな色をしているので、勝手に擬人化して名づけてみた。
毎日懲りずに、あなたなんて怖くなんてないんだからねと、私を威嚇するようにぶんぶん目の前を飛び回る元気な苺ちゃん達は、友達のいない私にとって日々の癒やしになっている。
苺ちゃん達のこの動きは、怒りや反発心といった発生元の感情の現れなのだろうが、それすら私には好ましい。
怪談話の元ネタになってしまっている私に対して、怖い物見たさで一定の距離を開けつつ、しつこくつきまとってくるストーカーのような光を生み出す人達よりもずっといい。
(苺ちゃん達がいないってことは、都子ちゃんが休みってこと?)
呪われたと勘違いされるのが嫌なので、私は普段からなるべく天井や壁に視線を向けてクラスメイト達をはっきり見ないようにしている。
だから欠席者がいたとしても気づかないことが多い。
仕方なく、わざと消しゴムを落とし、拾いながらこっそり後方の席を確認すると、目的の人物はちゃんと自分の椅子に座っていた。
田宮都子。
都子と書いて、いちこと読む。そんな初見殺しの名前を持つ彼女は、幼稚園児だった私と二時間だけ友達だったことがある女の子だ。
学区が違っていたようで、卒園してからは会うこともなくなっていたのだが、高校で偶然一緒になってしまった。
まっすぐで艶々な黒い髪にぱっちりとした二重の目、幼稚園の頃からお人形さんのように可愛かった彼女は、高校では眼力の強い美人さんになっていた。
そして幼稚園での私とのトラブルを覚えていたのか、それとも高校生になってから私の怪談話を知ったのか、近寄る度に私に苺ちゃん達をけしかけてくるようになった。
そのことを私は嬉しいと感じている。
怒りであれ反発であれ、都子ちゃんがまだ私に興味を持ってくれている証拠だから……。
でも、今日は苺ちゃん達が私に近寄ってこない。
都子ちゃんはとうとう私に対する興味を失ってしまったのかと、私はしょんぼりうなだれた。
だが、そろそろ授業が終わろうとする頃、苺ちゃんが一個だけ私の視界に飛び込んできてくれた。
私は大喜びしたが、苺ちゃんは妙によろよろとした動きで元気がなく、光量も明らかにいつもより弱い。
もしかして、発生元の都子ちゃんの具合が悪いんだろうか?
心配になった私は、授業が終わると同時に、振り返って都子ちゃんを見た。
「「え?」」
驚いたことに、なぜか都子ちゃんもまっすぐ私を見ている。
こんなこと、今までなかった。
お互いに戸惑ったまま、しばしの間、じいっと見つめ合っていると邪魔者が現れた。
「ちょっと、チコちゃん。ヤバイって! あいつにじいっと見つめられると不幸になるって話知らないの?」
「あ……いえ、それは聞いたけど……」
邪魔者の名前は山口美結。クラスカーストのトップに君臨する派手な美人で、イケメン大学生の恋人がいることが自慢らしく、よく教室内で堂々と彼氏の話をしている。
最近、都子ちゃんによく話しかけているようでちょっと気になっていたのだが、どうやらもう友達になったようだ。
正直言って、羨ましい。
親しげに至近距離でなにか話している彼女達をじいっと見た私は、美結の首筋に黒い汚れがついていることに気づいた。
(澱みだ)
よくよく見ると、髪や制服にも小さな澱みがぽつぽつとくっついている。顔にいくつかある大きめのほくろっぽいものも、たぶん澱みだろう。
あれが美結自身から湧き出てきたものか、それとも他の誰かから移ったものなのか、私には判断できない。
でも、どちらにせよ数が多すぎて、なんだか凄く嫌な予感がする。
「ね、早く帰ろ。お腹空いたしさぁ。ピザ頼んでみんなで食べようよ」
「待って。それは、ちょっと……」
美結が、都子ちゃんの腕を掴んで引っ張る。
その途端、ぽぽぽんと、都子ちゃんから湧き出てきた苺ちゃん達が一斉に私の方へと飛んできて、こっつんこっつんぶつかったり、視界を邪魔するように目の前でくるくるっと舞い踊ったりしはじめる。
――ねえ、こっち見てよ。私達に気がついて。
苺ちゃん達がそう言って、私の気を引いているような気がする。
光の動きは心の動き。
だとしたら、都子ちゃんが私を呼んでいるんだろうか?
「待って、都子ちゃん」
引っ張られるまま教室から出て行こうとしていた都子ちゃんに、私は慌てて声をかけた。
振り返ってこっちを見た都子ちゃんと視線があった瞬間、止めなきゃ駄目だと衝動的に思った。
黒い男の人に手を繋がれて帰って行ったまま二度と会えなかったあの男の子の後ろ姿が脳裏を過ぎり、ここで止めなきゃ一生後悔することになるような予感がしたのだ。
「なによ、あんた。チコちゃんを呪おうとしてるわけ?」
「そんなことしないよ。ただ……約束してたから」
「約束?」
私の言葉に、都子ちゃんが首を傾げる。
「そう。うちの母が作るふわっふわのパンケーキをいつかご馳走するって約束。……覚えてる?」
幼稚園時代のたわいのない約束を口にすると、「もちろんよ」と都子ちゃんが嬉しそうに笑った。
「今日、うちに来ない? ご馳走するよ」
「いいの?」
「もちろん」
「ちょっと邪魔しないでよ。あたしのほうが先に声かけたんだからね」
「ううん、私のほうが先約」
なにしろ約束したのは幼稚園時代なのだから。
私は堂々と言い切って、ふたりに歩み寄ると、美結の手から都子ちゃんを解放すべくふたりの間に立って、美結をじいっと見た。
「悪いけど、今日は諦めて」
見ているうちにも、美結の髪についていた澱みが少し小さくなっていく。
私には自分の光が見えないから確認することはできないけど、たぶん私から放出されている光が攻撃しているんじゃないかと思う。
私は澱みが嫌いだ。
人についている澱みは、あの男の子の不幸を思い出させるから特に大っ嫌いだ。
そんな私の心の動きが、私から出た光達にも影響している筈だから……。
「ちょっ、やめてよ! こっち見ないで! 呪うつもり?」
「呪わないってば。……もし呪いが怖いんなら、家に帰ってからお葬式の後にするみたいに塩を全身に振って清めてみたら。あと、明日は晴れるみたいだから、お日様に当たるといいよ」
美結についている澱みは数は多いけれど小さいものばかりだから、それだけでも随分と数が減るはずだ。
親切心で教えたつもりなのだが、美結は気持ち悪そうに顔を歪めて私を睨んだ。
「わかった。今だけ譲ってあげる。――チコちゃん、後でね。待ってるから」
それに都子ちゃんは返事しない。
眉間に皺が寄っているところを見ると、美結とはまだ友達と呼べる関係ではないのかもしれない。
美結は、学校鞄を手にひとりでさっさと帰って行った。
「藤麻さん、声をかけてくれてありがとう。助かったわ」
「助かったの? よくわかんないけど、どういたしまして。あと、昔みたいに芽生って呼んでくれると嬉しい」
「芽生……ちゃん?」
「うん。ありがと。――じゃあ、早く帰ろう。お腹空いちゃった」
「あの……本当にいいの?」
「いいよ。行こう」
急いで学校鞄に荷物を詰め込んで、都子ちゃんと一緒に学校を出た。
私が誰かと一緒に歩いているのが珍しいのか、あちこちから色とりどりの光が恐る恐る近寄ってくる。みんな暇だなぁ。
「私、バス通なんだ。パスモ持ってる?」
「ええ。遠い?」
「ううん。バスならすぐだよ。徒歩でも三十分掛からない距離だから」
バス停でバスを待つ間に、都子ちゃんに断ってからスマホを出して、母にトークアプリで連絡した。
『都子ちゃんを連れて帰るから、お昼ご飯にふわっふわのパンケーキつくって』
『苺色の都子ちゃん? まかせなさい。史上最高のふわっふわに仕上げてあげる』
興奮しているのか、母からはスタンプ満載の返事がきた。
幼稚園で出来たはじめての友達と高校で再会したことは、以前母に話してあったのだ。
スマホを学校鞄にしまうと、都子ちゃんが心配そうに話しかけてきた。
「お家の方、大丈夫そう?」
「うん、大丈夫。友達を連れて帰るなんてはじめてだから、大喜びしてるみたい」
「……友達」
都子ちゃんはなにか複雑そうな表情で呟いたが、ちょうどバスが来て会話は中断してしまった。
土曜の昼間のバスは空いていた。私達はドア近くのふたり掛けの椅子に並んで座る。
「あの……芽生ちゃん、今も妖精さんが見えているの?」
「あ、ごめん。あれ嘘なの。あの頃は自分が見えてるのがなんなのかよくわかんなくて……。っていうか、今もまだよくわかってないんだけど」
私は自分に見えている光のことを都子ちゃんに話した。
説明下手だからどこまでうまく説明できたかわからないけれど、都子ちゃんは真剣に私の話に耳を傾けてくれる。
「私の光は赤なの?」
「そう。苺みたいに美味しそうな色だよ。毎日びゅんびゅん元気に私の目の前を飛び回ってる」
「……ああ、それはきっと……」
「あ、ごめん。ここで降りるよ」
ちょうど目的地についたバスから、慌てて降りる。
「家、このマンションなんだ」
「本当に近いのね。通学が楽そう」
すぐ目の前にあるマンションを指差すと、都子ちゃんはとても羨ましそうな顔をした。
「ただいまー」
玄関を開けるとすぐ、ぴーんと尻尾を立てたぴーちゃんが、たたたっと私目がけて突っ走ってくる。
また痛い思いをするのが嫌で、ぴーちゃんが狙っている右足を動かそうとして、ふと思う。
もしもぴーちゃんのこの行動が愛情の現れなら、逃げるのは駄目なんじゃないだろうかと……。
その結果、逃げ損ねた私はまたしても痛い思いをすることになった。
「もう、ぴーちゃん、痛いってば!」
「ぴーちゃん?」
「名前がピスタチオだから、ぴーちゃん」
「綺麗な猫。艶々ね」
「にゃあん」
誉められたのがわかるのか、ぴーちゃんは甘えた声で鳴いて都子ちゃんの足にすりっとすり寄っていく。
「抱っこしてもいい?」
「いいよ。ぴーちゃんが嫌がらなきゃね」
「ぴーちゃん、抱っこしてもいいかしら?」
恐る恐る伸ばした都子ちゃんの手に、ぴーちゃんは自ら首を伸ばして抱かれていった。
「わあ、人懐こいのね。可愛い」
私には決して抱っこされないぴーちゃんが、都子ちゃんの腕の中にすっぽり収まってごろごろ喉を鳴らしている。
く、悔しくなんてないんだからね。
次話は都子ちゃんの事情。