芽生のこと 3
都子と美結は新幹線の指定席に無事座った。
ぴーちゃんの入ったキャリーケースは足元、ふたりの間に置く。
「ぴーちゃん、新幹線が動き出したらけっこう揺れると思うんだ。辛いようなら鳴いて教えてね。膝の上に乗せるから」
「にゃ」
振動対策になるんじゃないかと、父がウレタンシートをカットしてキャリーケースの底に貼り付けてくれたが、効果があるかどうか。五時間以上の長旅なので、都子は少し心配だった。
動き出す前に水分を摂らせようと、蓋を開けてシリンジで水を飲ませる。
「器用に飲むもんね」
「ホントね。はじめてだから不安だったけど、ぴーちゃんが賢い猫で助かったわ」
ぴーちゃんはぺろぺろと舌を動かして、ほとんど零さずに水を飲む。
その後、中に少しだけエサを入れてから、キャリーケースに大判のスカーフをふわっとかけた。
こうして目隠しをした方がぴーちゃんも落ち着いて過ごせるはずだと、孝俊に助言されていたのだ。
これで準備万端、後は新幹線が動き出すのを待つだけだと思っていると、隣の席の美結がテーブルをセットしてガサガサとコンビニ袋から中身を取り出した。
飲み物にサンドイッチやおにぎり、菓子パンやスナック菓子等、けっこうな量だった。
「都子、朝ご飯食べてきた?」
「まだよ」
「なら食べて。これ、杏と咲希の奢り。ひとりで食べちゃ駄目っていわれてんの」
「そう」
正直、食欲なんてない。
だが友達の好意を無下にするのも悪い気がして、都子は仕方なくサンドイッチに手を伸ばした。
「飲み物は紅茶、緑茶、どっちがいい?」
「緑茶で」
「はい。お菓子も食べたくなったら勝手に取って食べて」
「うん」
美結に勧められるままウェットティッシュで手を拭いてから、サンドイッチを口にした。
だが、ほとんど味を感じない。
仕方なく、もそもそと咀嚼し、無理矢理緑茶で流し込む。
そうこうしているうちに新幹線も動き出した。
なんとか食べ終わると、美結に「少し寝たら?」と勧められた。
「どうせ、昨夜は寝てないんでしょ? ぴーちゃんならあたしが見ておくからさ」
「……いい。どうせ眠れないし」
「いいから。目をつぶってるだけでも違うもんよ。――これ貸したげる」
ほらっと手渡されたのは、ふわふわ素材のアイマスクだった。
「準備いいわね」
「小学生の頃からテニスの合宿や試合で国内外あちこち移動してたからね。馴れてんのよ」
「そう。ありがとう」
かつての美結が、いずれは国を代表するプロテニスプレイヤーになるかもしれないと期待されていた話は聞いていた。
だが知り合った時にはすでにテニスを止めていたせいもあって、今まではいまいち実感がなかったのだが……。
(本当だったのね)
小さな頃から人生をかけて打ち込んでいたものを怪我のせいでいきなり奪われた時、美結はどれほど苦しんだんだろう。
はじめて美結と関わりを持ったのが礼の半グレ集団の一件だったせいで、今まであまり親身に考えてみたことはなかった。
辛かったんだろうなと今さらながらに同情してしまうのは、たぶん都子が今一番大切にしていたものを失いかけているからだ。
(……芽生ちゃん、今どうしてるのかしら……)
ありがたくアイマスクを借りて、シートを倒してから目を閉じる。
案の定眠気は訪れず、脳裏に浮かぶのは芽生の顔ばかり。
そして昨夜、途中で止めていた思考が一気に流れ出してしまう。
(もしも、悪戯目的の誘拐だったら……)
今ごろもしかしたら芽生は絶望して泣いているかもしれない。
和也に恋をしたと得意気に胸を張っていた芽生を思い出す。
本ばかり読んでいたから知識だけはたっぷり持ち合わせていたようだが、これが初恋なんだとなぜか得意気に胸を張っていた。
もしも悪い予想が当たってしまったら、もうあの無邪気で明るい笑顔は失われてしまうのかもしれない。
(そんなの嫌)
都子は不仲な両親の間に挟まれて育った。
だから両親の愛情を一身に受けてまっすぐ育った芽生の素直で甘ったれなところに、ほんの少しだけイラッとすることがある。
どうしても羨ましいと、妬ましいと思わずにはいられないのだ。
でも、それ以上にあの無邪気さに救われてもいた。
あんなにまっすぐ好意を向けられたのもはじめてで、心細い時にきゅっと繋がれる手は泣きたいぐらいに嬉しかった。
芽生の好意によって祖母の悪意から救われたように、この先芽生が困ることがあったら、なにを置いても自分が助けるつもりでいた。
(それなのに……なにもできてない)
向こうに着いたとしてもできることなんてなにもないんだろう。
これが自分勝手で我が儘な行動だとちゃんとわかってる。
でも芽生が戻ってきたら、真っ先に側にいきたいのだ。
考えたくもないことだけど、もしも芽生が絶望して泣いていたら、側にいって涙をぬぐって抱き締めてあげたい。
なにがあろうと自分は芽生が大好きで、ずっと側にいるからと手を繋いでいたい。
(……戻ってくるよね?)
なにがあろうと、戻ってきてくれさえすればいい。
あの無邪気な笑顔が消えてしまっていたとしても、いつか必ず取り戻してみせる。
その日が来るまで絶対に側にいる。
でも、もしも戻ってこなかったら?
(帽子に血がついてたって……)
乱暴目的で誘拐して監禁。そんな事件をよく聞く。
それと同様に、乱暴した後に殺害して遺体を捨てるという事件があることも知っていた。
(もしも……もしも、すべて手遅れだったら……)
芽生が行方不明になってから一晩過ぎてしまっている。
きっと今ごろ警察が捜索しているのだろうが、もしも全てが手遅れだったとしたら……。
うっかり想像してしまったせいで、あまりの恐怖と怖気にぶるっと身体が震えた。
その途端、ごつんと頭を叩かれた。
「ろくでもないこと考えてるでしょ?」
文句をいおうとアイマスクを外して美結を睨んだ都子は、逆に睨み返されて絶句した。
「最初から負けてどうすんの。勝負はやってみなきゃわかんないのよ」
「……スポーツと一緒にしないで」
「気持ちで負けるなって言ってんの。芽生が助からないって諦める気?」
「馬鹿言わないでよ。諦めるわけないでしょ」
「だったら、芽生が戻った時のことを考えなよ。ちなみに、私は一発殴る」
「やめてよ。芽生ちゃん怪我してるかもしれないんだから……。でも、そうね。芽生ちゃんが無事に戻ったら、私は説教したいかな。歩きスマホなんかして、周囲をおろそかにしちゃ駄目だって。芽生ちゃんがいなくなって、みんな心配したんだからって……」
「まったくね。お騒がせなんだから」
美結がふんと怒って、ボリボリチョコスナックをかじる。
「美結はタフだね」
その横顔を眺めているうちに、そんな言葉が口から零れた。
「ずっと勝負の世界にいたからね。負けてもすぐに切り替えて、次に勝つためにどうすればいいかって考える癖がついてるのよ。……そのせいで、間違った方向に暴走しちゃったけど」
「……前の彼氏のこと?」
「そ。怪我でテニスができなくなった時、他のことでなにかみんなに勝てるものを手に入れなきゃって必死こいて、あんなろくでもない男をゲットしちゃってさ。――食べる?」
「ありがと。――イケメンで高身長高学歴だったっけ?」
都子も箱ごと差し出されたチョコスナックを一本抜き取ってぽりっとかじった。
「まあね。ちなみに親が社長でお小遣い使い放題よ。いい男を捕まえたと思ってたのよ。最初のうちは……」
だが、その彼氏が半グレっぽい集団と係わるようになるにつれ状況が変わってきた。
最初のうちはその集団と楽しげに係わっていた彼氏だが、徐々に辛そうな顔を見せるようになってきたのだ。
「あいつさ、あの集団に弱み握られてたんだよ」
「そうなの?」
「うん。それで金蔓扱いされてたの。……だからさ。金蔓の彼女であるあたしの扱いもそれ相応だったわけ。――都子が暮らしてたマンション、あいつ等が荒らしまくってたでしょ? あれ見た?」
「……見たわ」
「ならわかるでしょ? あたし、そういう目に遭ってたの」
都子は、かつて暮らしていた自分の部屋のベッドやメイン寝室のベッドが汚されていたことを覚えている。
だからこそ、そういうことを心配したこともあったのだ。ただ、その後の美結の見事な立ち直りっぷりに、きっと最悪の事態は免れていたんだろうと安心していたのだが。
「このこと、芽生には内緒よ。あの子やたらショック受けそうだし」
「わかってる」
「嫌で嫌でしょうがなくてさ。だからね、その時も考えたの。どうやったらこの勝負に勝てるのかって……」
それで、自分の身代わりを差し出すことを美結は思いついたのだそうだ。
犠牲者が増えれば嫌な目に遭う頻度は減らせるし、うまくすれば自分だけは逃げられるかもしれないと期待して……。
「それで私に声かけたんだ」
「そ。あの頃の都子って、特別に仲のいい友達いなかったから狙い目だったんだよね」
確かにその通りだ。
子供の頃から自分をコントロールしようとする母親に友達関係にまで口出しされていたせいもあって、あの頃の都子は友達関係にすっかり臆病になっていた。
「それで都子にちょっかい出したら、芽生に反撃されちゃったわけ。杏や咲希にも痛いところ突かれて、もう完敗よ。あの時さぁ、「あ、これあたしの負けだ」って思ったんだよね。そしたら、なんか急に楽になったの。もうこれ以上勝負するの止めて尻尾巻いて逃げようって……。なかなか逃げられなくて大変だったけどさ」
「どういうこと?」
「んー? リベンジポルノって知ってるでしょ? あれよ」
あの集団に対して美結という生け贄を差し出せなくなると困ったことになる彼氏は、別れを切り出した美結を脅そうとしたのだそうだ。
だが戻る気がない美結はきっぱり断り、両親に全て打ち明けて、弁護士と警察に相談していたのだとか……。
「息子に汚点がついちゃ困るってんで、向こうの家も弁護士立てて、なんかあたしも悪いってことにしようとしてきたわけ。彼氏とは別れられたのに、今度は親同士の喧嘩になっちゃってさ」
なかなか決着がつかず、いっそのこと正式に警察へ被害を訴えようかという話にまで発展していたのだそうだ。
だが、それをすれば美結がどういう目に遭ったのか周囲に知られかねない。美結自身はそれでもよかったが、両親は反対していたようだ。
あの半グレ集団が事件を起こして警察に捕まったのは、そんな膠着状態の中だった。
「それで一気に解決。むこうの親も、息子にこれ以上の罪状がつくのはマズイって思ったみたい」
「そう。……それであの時、あんなに喜んでたのね」
――芽生、都子もありがと!
あの時、美結は学校で顔を合わせるなり、ぎゅうっと芽生に抱きついて大喜びしていた。
裏でそんなことがあったのなら、あの喜び具合も納得だ。
「このこと、杏達は?」
「杏は知ってる。咲希もたぶん気づいてると思う」
「そう」
部活の先輩に苛められていたことを杏が頑なに隠そうとしていたのは、これも関係していたのかもしれない。
「あたし、これでもあんた達ふたりには本気で感謝してるのよ。あんた達が止めてくれなかったら、あのままあいつらと一緒に行動していた筈だから……。だからさ、恩返しってわけじゃないけど、今度の件であたしにできることがあるならなんでもするつもり。都子もさ、その……しんどかったら、ひとりで悩んでないであたしを頼っていいんだからね」
「……うん。ありがとう」
「きっと大丈夫だって……。あの子、変に勘がいいしさ。うまい具合に逃げ出せてるかもしれないじゃない」
「だといいんだけど……」
「食べる?」
「うん」
ふたりしてしばらくの間、無言でぽりぽりチョコスナックをかじった。
(もしも私ひとりだったら、きっと耐えられなかった)
移動中、嫌なことばかりを考えて、恐怖と不安に打ちのめされていたはずだ。
都子は、美結がいまここにいてくれることに感謝した。
「ねえ、美結」
「なによ」
「この勝負に勝つために、今の私にできることってなに?」
「少しでも寝て体力を回復すること。今日鏡見た? 顔色すっごく悪いよ。これから会う芽生の両親に余計な心配をかけるような真似だけはしちゃ駄目だと思う」
「そうね。ありがとう」
都子は再びアイマスクをつけて、シートに背中を預けた。
眠れる気はしないけれど、少しでも身体を休める為に。
そうするとやっぱり脳裏に浮かぶのは芽生のことばかり。
悪い方向に思考がいかないよう、意識してこれからのことを考えてみる。
無事に戻れてもきっとしばらく学校は休むことになるだろうから、その間の勉強をどうするかとか、都子が本格的に父と暮らすようになったら、どこで芽生と朝の待ち合わせをするかとか。
(そうだ。芽生ちゃんに会えたら教えてあげなきゃ)
芽生が大好きな和也が、芽生のことをとても心配してくれていたことを……。
『そっか。嬉しいな』
えへへっと、照れ笑いする芽生の顔が脳裏に浮かぶ。
じわりと滲んだ涙はふわふわのアイマスクが吸い取ってくれた。
読んでいただきありがとうございます。
次話は、道標。




