澱みのこと
子供が事件に巻き込まれたと仄めかしている部分があります。
苦手な方はご用心ください。
他の人には見えない光を見ている私だが、もうひとつ見えているものがある。
それが澱みだ。
これに関しては、どう説明したらいいのか、正直いまだによくわからない。
そもそも私は説明下手だ。
友達がいないから話し相手は両親だけ。
人よりずっと想像力が豊かな両親が、私のぎこちない説明をその想像力とたぐいまれな勘の良さで補って理解してくれるものだから、いつまでたっても私の話力は鍛えられないままだ。
だから、とりあえず今まであったことをそのまま話してみようと思う。
私がはじめてそれに気づいたのは、幼稚園に通いはじめてすぐの頃だ。
当時、父は週刊連載の真っ最中で、父の仕事場には複数のアシスタントが通ってきていた。
食事やおやつの差し入れをする母に連れられて仕事場に出入りしていた私は、アシスタントのひとりの顔が汚れていることに気づいた。
左の頬に、べったりとなにか黒いものがついているのだ。
その頃の父はまだ完全に手描きで漫画を描いていたから、アシスタントの彼もきっとうっかりして顔に墨汁をつけたのだろう。もう大人なのに、困ったお兄ちゃんだ。
そう考えた私は、こっそり母に頼んだ。
「あのお兄ちゃん、お顔が汚れてる。拭いてあげて」
「お顔? どこ?」
「こっちのほっぺた」
私が自分の頬を指差すと、母は怪訝そうに眉をひそめた。
「赤くなって腫れてるってこと?」
「ううん。墨汁がついてるの」
「……そう。じゃあ、後で濡れたタオルを持ってこようね」
「うん」
もう大丈夫だと母の言葉に安心した私はそんなことがあったことをすっかり忘れていたが、その一週間後に父からまた同じことを聞かれた。
「こっち側のほっぺたが汚れてたんだな?」
「うん。真っ黒だった」
「今はどうだ?」
「ついてないよ。お母さんがタオルで拭いてくれたんでしょ?」
「そうか。そうだったな。綺麗になったんならそれでいいんだ」
よしよしと父に頭を撫でられ安心した私は、またそのことを忘れた。
父やアシスタントさん達の手や顔が墨汁で汚れるのは、日常茶飯事だったからだ。
この時、私の知らないところでなにがあったのかを知ったのは、ずっと後になってからだ。
「あの時、良弥は殴られて頬が腫れてたんだ。湿布も貼ってたんだが、芽生には見えてなかったみたいだな」
父のアシスタントをしながらデビューを夢見ていた良弥さんは、書きためていたプロットが認められて、短期連載を持たせてもらうことが決まったばかりだったのだそうだ。
周囲の漫画家の卵達はチャンスを掴んだ良弥さんを祝福したが、ひとりだけ怒りをぶつけた人がいたらしい。
自分の方がずっと長く頑張ってきたのに、なぜお前だけがチャンスを掴んで先にいくんだ。狡いと……。
その人は怒りのまま良弥さんに殴りかかり、周囲の人達に取り押さえられた。
「頭が冷えるまで顔を出すなと出版社のほうから言われたらしい」
誰もが皆デビューできるわけではない。デビューできたからといって成功するとも限らない。どうにもこうにもうまくいかない現実に煮詰まって一時的におかしくなる者もたまにいる。こうした暴力沙汰もはじめてのことではなかった。
だから周囲は甘く見てしまったのだ。
被害者である良弥さんもその人を許していることだし、気持ちが落ち着くまでその人をしばらくそっとしておこうと……。
「芽生が見えていたという黒いものは、お父さん達には見えなかった。だから、なんだか嫌な予感がしたんだ」
その人のどす黒い嫉妬心が、良弥さんが殴られた時に拳を通してべったり貼りついてしまったように父には感じられたらしい。
父はすぐに編集者に連絡して、その人の様子を見にいってもらうことにした。
人気作家に頼まれて断りきれなかった編集者は、渋々ながらもその人のアパートを訪ねることにした。暴力をふるう相手にひとりでは不安だったのだろう。その人と比較的仲のいい漫画家の卵達も数人つれていった。
だが、訪ねていってもその人はなかなか玄関の扉をあけようとはしなかった。
押し問答の末、半ば強引に部屋に押し入ると、部屋の中はそれはもう酷く荒れていた。
そして、購入したばかりの複数のナイフやスタンガン、催涙スプレーにハンマーやロープなど、いったいなにに使うつもりだったのか想像するのも嫌なものが大量にあったらしい。
「……その人、どうなったの?」
「実家に連絡して、ご両親に連れ帰ってもらったそうだ」
その後のことは、父にもわからないらしい。
次にその黒いものをみたのは幼稚園でのことだった。
同じ幼稚園に通う男の子の頭や腕に黒い汚れがついていたのだ。
まだ黒い汚れがなんなのかわかっていなかった私は、どうして汚れたままにしておくんだろうと、日々増えていく汚れを不思議に思って見ていた。
そんなある日、幼稚園に全身が真っ黒な男の人が来た。
あまりにも異質なその姿に驚いて固まったまま、私はじいっとその人を見た。
よくよく観察すると、全身真っ黒というわけではなく、ちょっとだけ肌や服の色も見える。粘性のある黒い液体を頭から大量に浴びたような、そんな感じだ。
こんな不審者が現れれば大騒ぎになりそうなものなのに、誰もなにも言わず、驚くことすらしなかった。
幼稚園の先生達は普通に笑顔で黒い男の人に応対している。
「パパだ!」
ひとりの男の子が黒い男の人に駆け寄っていった。
黒い汚れをつけていたあの男の子だった。
「迎えに来たよ。一緒に帰ろう」
黒い男の人が頭を撫でると、黒いものが男の子にもべったりついた。
それを見て、ぞわぞわっと全身に鳥肌が立った。
――あれはただの汚れじゃない。なにか凄く悪いものだ。
その時はじめて、私はその黒いものを怖いと思った。
同時に、あの男の子を黒い男の人から離さなくてはいけないとも感じていた。
「待って!」
急いで駆け寄り、男の子のまだ汚れていない左手を掴む。
「一緒に遊ぼう?」
この頃にはもう、他の人の目には見えない光を見ている自分の目の動きが気持ち悪がられていることを知っていたから、普段の私は自分からこんな風に積極的に誰かに働きかけたりしなくなっていた。
それでも、この時の私は、とにかくこの子を引き止めなきゃと必死だった。
私に手をつかまれた男の子は、きょとんとしてから、にぱっと笑った。
「パパが迎えに来たからごめんね。明日遊ぼ」
じゃあねと、みんなに手を振って、男の子は黒い男の人と手を繋いで帰っていった。
そして、二度と幼稚園に来ることはなかった。
この後、なにがあったのかいまだに私は知らないし、知りたくない。
「あの子はね、お母さんと一緒に遠いところに行ったのよ」
週末、そう教えてくれた母に連れられて行った先で献花台に花束を捧げた。
それからしばらくの間、幼稚園の周囲には報道の人達がうろついていたから、なにか事件があったことだけは確かだ。
その事件があった後から、私は意識して黒いものを探すようになった。
きらきらと常に存在を主張している光と違って、黒いものは意識しないとそれと気付けない。
その結果、人の身体についていたり、路地裏に溜まっていたり、花壇の隅に凝っていたりと、思っていたよりずっと多く黒いものが存在していることを知った。
そして、黒いものが光に弱いことも知った。
「お日様の光に当たると消えるの?」
「うん。じゅわわって小さくなる。人から出た光でもそうなるよ」
人から発生してふらふら飛び回っている光が黒いものにぶつかって、パチンと弾けて消えるのを偶然見たのだ。
弾けてキラキラ降り注ぐ光の粒を浴びた黒いものは、確かに少しだけ小さくなっていった。
「それなら、うちはあんまり心配しなくてもよさそうね」
「家の中はいつもキラキラしているからね」
父の光は特大サイズだし、母の光も普通の人より多い。
そうでなくとも母が世話をしているうちの植物たちは、いつも楽しげにキラキラした光を放っているから、黒いものがいたとしてもあっという間に消えてしまいそうだ。
「その黒いものは、やっぱり人から出てくるのか?」
「うん。そうみたい」
人の身体からじわじわっと滲み出てくる黒いものは、光のようにくるくると楽しげに宙を舞うことはない。
粘性のある液体みたいに人の身体を伝って垂れ下がっていき、やがて身体から離れて地面へ落ちる。
自然界にいる黒いものは、そうやって落ちた黒いものが暗い場所に集まってしまったもののようだ。
「妬み嫉み恨み、生き霊……そんなものかもな。強いて言うなら、ダークソウルといったところか」
「強いて言わなくてもいいから」
心の中に永遠の漫画少年を飼っている父に母が突っ込む。
父は、私から話を聞く度、ついつい漫画みたいな設定を考えてしまうようで、すぐにカタカナ言葉で名前をつけようとするのだ。
私にだけ見える光は消える時に弾けてキラキラ光るところから「ソウルスパークル」、ひとりひとり光の色が違うと言えば「ワンカラー」や「パーソナルカラー」なんて風に。
そしてその度に母から突っ込まれている。
「勘だけど、そういうのに名前をつけるのって良くない感じがするのよ。特にこれは駄目」
「そうか……。夕香の勘は当たるからな。諦めるよ」
「でも芽生ちゃんは別。いつか、その黒いものを現すのにしっくりくる言葉がみつかったら、私達にも教えてね」
「……うん」
それからしばらくの間、私はそれを『黒いもの』と呼んでいた。
でも、『黒』という色でそれを呼ぶのが物凄く嫌だった。
光はひとりひとり色が違う。その中にはもちろん黒っぽい色の人もいる。
漆黒、黒紅、ランプブラック。そんな渋くて粋な光達も、弾けて消える時にはやっぱりキラキラ光る。
あの禍々しい悪いものを、色の名前で呼びたくなかった。
やがて成長して語彙が増えた私は、あれを『澱み』と呼ぶようになった。
澱み――流れずに溜まること。底に沈んでたまること。どんより濁ること。
あれらを示す言葉として一番しっくりくる。
たぶん澱みは、人の心の負の部分から滲み出てくるなにかだと思う。
光もまた人の心の動きから生まれてくる。
喜びや楽しさや好奇心、そして怒りや嫉妬。その時々に感じた感情が、人から発生する光を動かしている。
馬鹿にされて腹が立つ、自分より良い成績を取った友達が羨ましい。人気者のあいつが妬ましい。そんな瞬間的に高まる負の感情の動きが光に投影されると、ぶんぶんと目の前を威嚇するように飛び回ったり、えいやっとばかりに憎い相手にぶつかっていったりする。
それらの動きは、どこかコミカルで、私には悪いものだとは思えない。
澱みになるのは、たぶん人の心の中に長年に渡って溜まった負の感情だ。
解消されないまま長年抱え続け、人に気づかれないよう隠し続けた暗い気持ちが、やがて澱んで凝縮され、変質して滲み出てくるのだ。
澱みの量が少ないうちは、じわじわと身体を伝って垂れ下がり、やがて地面に落ちて身体から離れて行くが、量が多くなるとあの男の子の父親のように全身が黒く染まってしまうのだと思う。
あそこまで黒くなると、お日様の光でも澱みは消せない。
だって、あの日はとても晴れていた。
あの男の子は、黒い人に手を繋がれて、太陽の光の中を帰って行ったのだから……。
ゴミ捨て場の隅や垣根の下に澱みを見つける度、私はあの男の子を思い出す。
小さな澱みになにか悪いことをしでかすような力があるとは思えないが、それでも消し去りたくなる。
「塩をまいてみたら? お祓いにも使われるし、いいんじゃないかしら」
母に相談したら、そう言われた。
その後、ふたりで食卓塩の瓶を持って散歩に出掛け、見つけた澱みに振りかけてみた。
「小さくなった!」
自分にもできることがある。
私は大喜びで澱みを見つける度に、食卓塩を振りまいた。
その夜、父にその話をした。
「塩で効果があるなら、きっと水晶も効くな」
「水晶を振りまくなんて不経済よ」
「だったら、除菌消臭スプレーはどうだ? あれもお祓いに効くらしいぞ」
「ええ? それとこれとは違うんじゃない?」
「お父さん、澱みは匂わないよ」
「いやいや。最初から否定しないで試してみよう」
翌日、家族三人で散歩に出て、見つけた澱みに除菌消臭スプレーをしゅっしゅっと吹きかけてみた。
「……小さくなった」
「おお、やっぱり効果があるのか。よしよし良いぞ。このネタは使えるな」
父は大喜びしたが、どうして除菌消臭スプレーが効くのかと、母と私は首を傾げまくりだ。
「わけがわからないけど、塩よりは植物に悪影響がなさそうだから、植え込みなんかには除菌消臭スプレーを使ったほうがいいわね」
「はーい」
そんな訳で、私の通学鞄には今でも食卓塩の瓶と小さな除菌消臭スプレーが常備されている。
そして学校の行き帰り、見つけた澱みに塩をまいたり、シュッシュッとスプレーしたりしている。
ちなみに、それを見かけた他の生徒達が、私のそんな奇行に眉をひそめ、私の悪評の後押しをしていることにはまだ気づいていなかった。
次話でやっと友達候補が……。