黒い靄のこと 2
「溢れて滲み出る悪意か……。以前、城崎くんが、仕事関係者の悪意の有無を茜さんに確認してもらうことがあるって言ってたよな?」
「そう。それです」
父の言葉に、城崎さんが大きく相づちを打った。
「茜が言うには、その黒い靄みたいなものは、ただ苦手だとか嫌いなタイプだと思う程度では見えないそうです。明らかに悪意を持って、こいつを落とし入れてやろうとか、危害を加えてやろうと意識するとじわっと滲み出てくるそうなんですよ」
だよな? と城崎さんに確認されて、茜さんは頷いた。
「黒い靄が厄介なのは他人にも伝染するところなんです」
「あれって、伝染するの?」
「そうよ。意志の弱い人にはけっこう簡単に伝染するみたい。邪気は――芽生ちゃんは澱みって言ってるんだっけ?――あれは人にくっつくけど、黒い靄は伝染して広がっちゃうの。集団心理とか? そういうのに関係してるのかも。イジメのある教室とか職場とかに行けば一目でわかるよ」
「なんで今まで見なかったんだろう? 伝染するようなものなら、あちこちで見かけそうなのに」
「あれはすぐに散っちゃうから。クラス全体にイジメが蔓延してるような場合でも、教室を出ると散って消えちゃうの。発生元になってる人も、悪意の対象が目の前にいなきゃ普通だし」
「現場を押さえないと見えないってことか」
だったら花火大会のあの時、杏ちゃんは先輩達からなにか酷いことを言われていたってことだ。
遅ればせながらイラッとした。
「あの黒い靄、お日様では消えないの?」
「消えない。邪気とは違って、あれは人間の感情の一部だから浄化されるようなものじゃないんじゃない?」
「ふうん」
「友達が、その黒い靄を纏ってる先輩達に嫌がらせされてるんですけど、防御する方法ってありませんか?」
「ないよ」
都子ちゃんの質問に、茜さんは軽く肩を竦めた。
「あれは感情の一部だって言ったでしょう? 他人の感情を無理にねじ曲げる力を持ってる人なんていないよ」
「その嫌がらせ、芽生ちゃんには黒い靄として異常がはっきり見えてるんだろうけど、それ以外の人だってなにかおかしいって気づき始めてるんだろう?」
「うん。都子ちゃんは私よりずっと前に気づいてたし……」
城崎さんに聞かれた私は、よくも黙っていたなと唇を尖らせて、ちらっと都子ちゃんを見た。
都子ちゃんはまったく気にする様子もなく、そんな私ににっこり微笑みかえしてくる。苺ちゃん達もいつも通り、くるくるっすいーっと私の目の前を通り過ぎていった。さすがに強い。
「邪気はオカルトの範疇で普通の人間には対処が難しいが、黒い靄は違うと俺は思ってる。雰囲気が悪いとか空気が重いとかって言うだろう? それと同じ程度のものだと考えたほうがいい。だから黒い靄の防御法より、現実的な対処を考えるほうをお勧めするよ」
「どうやって対処するの?」
「嫌がらせされる原因がわかってるなら、そっちをどうにかすればいいんじゃない」
「原因はわかってるけど今さらどうにかできるようなことじゃないんですよね」
例の先輩がおかしくなった原因は美結がテニスを辞めてしまったことだ。
中学時代の悔しさをバネに頑張ってきたのに、全て無駄になってしまってことでやりきれない想いを杏ちゃんに八つ当たりをして晴らそうとしているのだから。
「ねえ、都子ちゃん。直接美結と話をさせたらどうかな?」
「その場合、美結にも事情を話さなきゃならなくなるわよ。そしたら間違いなく喧嘩になるでしょうね」
「そっか。美結だもんね」
先輩の事情なんて美結にはきっとどうでもいい。杏ちゃんが苛められたことで絶対に怒るに決まってる。
「いっそ怒らせて、なにもかも周囲にバラしちゃったほうがいいと思うんだけどな」
「でも、杏はそれを望んでないのよ?」
「わかってるけど……」
このままイジメを我慢し続けたところでいいことなんてなにひとつない。
杏ちゃんの心が傷ついていくだけだ。
「……毎日テニス部の見学にいって、あの先輩をじいっと見てやろうかな」
向こうはもう私と杏ちゃんが友達だと知っている。
その上でじいっと見つめてやったら、このままだと藤麻芽生に呪われるかもしれないと恐れおののいて、杏ちゃんから手を引いてくれるんじゃなかろうか?
私がそう言うと、「まさに捨て身の攻撃ね」と都子ちゃんが苦笑した。
「事情はよくわからないんだけど……」
母に勧められるままもりもり肉を食べながら私達の話を聞いていた茜さんが口を挟んでくる。
「我慢するのは駄目だよ。お互いの為にも、悪意を向けて来る相手からは絶対に離れたほうがいい。悪意をこじらせて長引かせると邪気になる可能性だってあるんだからさ。それに我慢しているほうにも、いずれはその相手に対する悪意が芽生えてくるかもよ」
「杏ちゃんは人に悪意を抱いたりしないもん」
「あのね、芽生ちゃん。どんなにいい人にも、我慢の限界ってものがあるの。堪忍袋の緒が切れるって言うでしょ?」
ぷちっと切れて怒りを表に発散させられるんならそれでいい。だが表に出さず内側に溜め込み続ければ、いずれ留めきれなくなった悪意が黒い靄となって表に滲み出てくる。
「友達から悪意が滲み出てくるとこ、見たい?」
「……見たくない」
茜さんに聞かれて、私はしょんぼりした。
「だったらせいぜい頑張りなさい。友達なんでしょ?」
「……うん」
頑張りたいけど、その方法がわからない。
ずっとぼっちだった私に友達が出来て、まだ二ヶ月足らず。
澱みへの対処は知っていても、人間関係のトラブルへの対処なんてさっぱりなのだから。
「その後、ぴーちゃんはどうですか?」
少し重くなった空気を吹き飛ばすように、城崎さんが明るい口調で父に聞く。
「ご覧の通りだよ。やっと食欲も落ち着いたみたいだ」
城崎さんの虎目石模様の光を追いかけるのに飽きたのか、少し離れたソファーで丸くなって寝ているぴーちゃんに皆の視線が集中した。
私達の視線に気づいているのかいないのか、ぴーちゃんの細長い尻尾がぱたんぱたんと大きく動いてソファを叩いている。
……こっち見んなとぴーちゃん言われているような気がするのは、普段から私だけが塩対応されているせいだろうか。
「一時凄かったもんね」
あの可哀想な子猫を見送った後、ぴーちゃんは異常な食欲を見せていた。
それも、なぜか光限定で。
凄いスピードで私達の周囲をビュンビュン駆け回り、大口をあけてぱくぱくと次々に光を食べていく。
その様子はまるで飢餓状態の動物が久しぶりのエサを目の前にしたかのようで、鬼気迫る姿だった。
「……やっぱりあれって、あの子猫の澱みを浄化してあげるのに力を使ったせいなのかな?」
澱みと光は相殺する。
あの時ぴーちゃんは、ずっと子猫の毛繕いをしながら澱みも浄化してあげていた。
私達と一緒に暮らす中、光を食べ続けることで身体の中に蓄え続けてきた神気を、ぴーちゃんはあの子猫のために使い切ってしまったのかもしれない。私はそう考えていた。
「俺もそう思うよ」
私の呟きに城崎さんが頷いた。
「神職の山内さんにも話を聞いてもらったんだけど、やっぱりぴーちゃんは妖怪系じゃなく、神使や巫女に準ずる存在なんだろうってことでしたよ。出来ることなら神社で引き取りたいとも言ってたんですが……」
「絶対ダメッ‼ ぴーちゃんは家族なの‼」
私は慌てて断った。
「だよね。わかってるから。ちゃんとそう言っておいたよ。――ただ、できれば一度直接ぴーちゃんに会ってみたいそうなんです。山内さんを招いていただけませんか?」
城崎さんに話を向けられた父は、「もちろんいいよ」と頷いた。
「遊びに来てくれるのなら喜んでお迎えするよ。ただ、こちらも仕事柄、神社の内部には色々と興味があるからね。取材もさせてもらえると嬉しいな」
「わかってます。芽生ちゃんもいいよね?」
「ぴーちゃんの嫌がることはしない?」
「大丈夫、しないよ」
「ならいいよ」
私は安心して同意した。
「そろそろ完成?」
直射日光の元、べろんと伸びて日向ぼっこしているぴーちゃんを見ながら油絵を描いていた私は、都子ちゃんに声を掛けられて顔を上げた。
「う~ん、もうちょっと……かな? ぎりぎりまで描くつもり」
「それなら絵の具を乾かす時間も考慮してね。でないと学校に運べないから」
「あ、そっか。ありがと、都子ちゃん」
ぴーちゃんの絵は、なかなか良い具合に出来上がってきている。
太陽の光を浴びてつやつや光る毛の感じもちゃんと再現できたし、気持ちよさげなぴーちゃんからふわふわと浮き上げってくる薄桃色の光もなかなかの再現具合だと思う。
「平和ね。見てると、なんだかこっちまで眠くなってくるわ」
「そう見えるなら嬉しいな」
安全な家の中で、完全に気を抜いて寝そべっているぴーちゃんをちゃんと表現できてるってことだから。
「光って、こんな風に見えるのね。……優しい桜色」
「でしょ?」
いつも綺麗だと思っていた色を都子ちゃんにも見てもらえて、すごく嬉しい。私はにっこりした。
あれから杏ちゃんの問題はまだ棚上げになったままだ。
咲希ちゃんとも相談した上で、夏休みが終わったら杏ちゃんを説得する予定になっている。
それでもどうしても気になるので、まだまだ大量に残っているスイカを処分すべく陸上部にせっせと差し入れしたその帰り道に、テニス部の練習を見学するようにしていた。
――あたし、メイちゃん。あなたをじいっと見つめているの。
テニス部のコートに面した金網に指を掛けて、件の先輩をじいっと見つめる。
自分からこんなホラーな真似をするのには少し抵抗感もあるが、杏ちゃんの為なんだから仕方ない。
隣りに立っている都子ちゃんが肩をふるわせて笑っているせいで色々と台無しなのだが、少しでも効果があればいいなと思っている。
「都子ちゃんは読書感想文書き終わったの?」
「うん。これから清書するところ」
手書きよりパソコン入力の方が楽だからと、都子ちゃんは私のノートパソコンを使って読書感想文を書いていた。そのままプリントアウトして提出できればいいのだが、残念ながら学校側から手書き以外は不可と言われているのだ。実に面倒なことである。
「芽生ちゃんはこれからなのよね?」
「うん。感想文で宿題はおしまいだよ。都子ちゃんはもう終わったんだよね?」
「そうだけど、書道の課題をもう一回書き直してみるつもり」
「そっか。こんなに余裕を持って宿題を終わらせられたのはじめてだよ。都子ちゃんのお蔭だね。ありがと」
「どういたしまして」
えへ、うふふと私達が和やかに微笑みあっていると、テーブルの上に置きっぱなしにしてあった都子ちゃんのスマホから着信音が響いた。
流れてくるメロディはショパンの葬送行進曲。
都子ちゃんは着メロをクラシックで統一していて、関係性によって曲を変えている。
私のは子犬のワルツで、咲希ちゃん達は華麗なる大円舞曲等々、いつもは明るい曲調ばかりを選んでいるのに、珍しく暗い曲調だ。
「……なんでこの曲?」
不思議に思って私が見上げると、都子ちゃんは真っ青になって自分のスマホを見つめていた。
読んでいただきありがとうございます。
次話こそ、都子ちゃんの危機w




